エピローグ ーファイナルフェイズー
「来て…」
彼女は男の亡骸をまさぐり、知られてはならない超極秘の携帯端末をそれとなしに回収した。知らぬ顔でパンツのポケットへ突っ込み、神津が座り込んでいた場所まで女がゆっくりと歩み寄った。
「ここから脱出するのに、あなたに協力してもらうわよ、いいわね。大体…懸案の核兵器や‘電磁パルス兵器’は…ふふふ、はははぁ…あるわけないわよね」
「そうだよ、ないよ、そんな物…」
こんな映画の張りぼてセットみたいなところに、命辛々忍び込んだなんて馬鹿らしい、と皮肉そうに笑って吐き捨てた。
「立って」
神津を立たせる時に、傍らに投げ捨ててあった拳銃を拾った。
「外には、どうせ大勢の特殊部隊員や警察官が待機しているんでしょ?」
ナイフで神津を脅かしながら、弾倉が空になった拳銃を執拗に見詰め、呆れたように呟いた。
「どうやって、ここから逃げるつもりでいるんだい、こんな大騒ぎにしておいて?」
「考えてないわ…今となっては…」
出たとこ勝負よ、というように虚脱感を伴っていた女は神津を促し、血塗られたナイフを投げ捨てた。空の拳銃を背中に突き付け、施設出入口に繋がる折り返し通路へ足を向けさせた。
「君のせいで、脚が痛くて上手く歩けないんだよ」
「別にゆっくりでいいのよ、どうせ焦る必要なんてもうないんだから」
それに大した傷じゃないわ、大袈裟よ、と神津を窘めた。二人はゆっくりと緩やかなスロープを上り始めた。
「それよりも、この事態を、私は局内にどう報告すればいいというのよ…まんまと誰かに…何処かの国の凄腕で嫌味な侵入者に、我が国は見事に情報操作されて騙されました、なんていう説明は絶対に出来ないわ…」
「だからさ、この施設の入念な誤情報を世界中の報道機関やネット上、それにそれとなく詳細に各国の諜報機関に流布したのは、このぼくなんだって…」
一つ目のスロープ折り返し地点で、神津は斜めに女の瞳の中を窺った。
「もしそれが本当にそうなら、本当にそんな事が出来る人間がこの日本にいるとしたら、あなたは一体何者だというの?そしてここは一体なんなの? 局内や国家安全保障局を欺く事なんて、そう容易く出来る事じゃない…いえ、絶対に無理なはず…」
「それは、米国の自己過信というものだよ」
確かにCIAとNSAの情報収集力が世界の中でも指折りなのは認めるが、と続けてこっそり呟くと、女は眉を上げて不快感を露骨に呈した。
「君は‘Cabinet Intelligence and Research Office’日本語にすると‘内閣情報調査室’という機関が日本政府内に存在するのをご存じかな?」
「Cabinet Intelligence and Research Office ?」
女の発音は、顔立ちに反して完璧だった。
「そう、通称は‘CIRO’だ」
「CIRO…ね、判るわ…つまり、日本政府の管理下にある秘匿された諜報機関…という事よね」
右脚を引き摺りながらスロープを上る男の背中へ問い掛けた。裂けたグレンチェックのスーツパンツには血の染みが幾重にも被さるように付着して、染みの外側はすでに茶色に変色仕掛かっていた。
「まぁ、そういう事になるんだけど、この国ではそういう話を大っぴらにすると、世論の反応が妙に敏感になって、露骨に顔を顰める輩が実は多いんだよ、政府内外や、報道機関の内部とかに…」
「だから?」
「だから、って…」
神津の動きが更に鈍くなり「そんな返事の仕方はないよ」と面倒臭そうに苦笑いを浮かべた。
「つまり、あなたの本職は…本当の姿は、作家ではなくて、その組織の機関員、という事なのね」
「機関員か…まぁ、そうとも言えるけど、正確にはそれも違う…かなぁ」
「あなたの、その、のらりくらりとした喋り方、何とかならない…苛つくわ!」
「喋り方は仕方ないよ、ぼくの個性みたいなものだからさ…そんな事はどうでもいいか……つまりね、ぼくの置かれた立場、というのは、その内閣情報調査室が支える国家安全保障局配下の‘特別情報分析審議官’という肩書きに、一様はなっているんだ」
神津は言い終えてから背後の気配を読んだ。
「それで?」
女の苛つきには変化がないように見えた。だが、その苛つきは、神津に対してだけではないようにも取れた。
「ぼくはね、この国の今後の安全保障のあるべき姿、或いは、それらの考え得る未来と、その方向性などの、一切合切を、内閣官房から一任されているんだ。大変に光栄な役職ではあるけれど、とても複雑で厄介で面倒臭い立場にいる。つまり、ぼくの配下には、警察庁や防衛省、法務省に外務省などから出向して来ている役人、それ以外に民間の安全保障各分野の専門家や、研究機関からも協力者を内密に擁しているんだ。総勢二百二十人の大所帯だよ」
二人は、スロープの二ヶ所目の折り返し場所まで来ていた。
「幾ら同盟国とはいえ、米国中央情報局に属する私に、そんな込み入った話をしてもいいの?」
「う~ん、ちょっとマズいかな、本当は…君が、日本に帰化でもしてくれれば、話は別だけど…」
安全保障の分野において君の存在はとても魅力的なんだ、と冗談とも本気ともつかぬ惚けた笑みを女へ向けた。
「まぁ、無理だよね、だって君は‘米国製の最高傑作’なんだろうからさ…見た目は完全に日本人なんだけどなぁ…彼も、いやぁ、彼は本当に残念だった…」
女はわざと無表情を装った。
「とは言っても‘隠しコマンド’として計画へ騙すように参画して貰った手前上、君には真実を知る権利は…やはり、あるかな…彼が生きていれば、彼にも…」
「興味ないわ」
冷やりとした空間を更に凍らせるように反応した。
「そう言い捨てないでくれよ、だってこの計画の事の始まりは君達の、いや、彼の存在、国防総省と中央情報局が虚構の都市伝説として数年前に故意に情報保護した最重要機密計画の存在なんだよ。米国政府が独自に持つ前衛的な生物工学の粋を尽くした最高傑作品、或いは、最高芸術品の生きた性能を、この目で実際に確かめてみたかったんだ」
「下らない…そんな為に…あんたさぁ、ウザいよ?」
吐き捨てた女の前を、脚を引き摺って歩く神津は、その声が全く耳に入らなかったのか、前方の広々とした宙の何処か一点だけを見詰めていた。
「その一方で、全く化学技術的な人体改造が施されていない、運動能力が桁外れに突出した超一流な暗殺者の存在…魔女の事だよ…単純に彼と彼女を、いや君達と彼女を比較してみたかったんだ」
「それで…だから何なのよ」
ウザいけど一様聞いてあげるわ、という返事だった。
「まず彼と彼女を同じ場所へ密かに集めなくてはならなかった。かなりの難問だったよ。どうすれば、二人を、お互いがお互いを知らぬ間に招聘出来るか、ってね…そして、偶然にも五年前、米軍から返還された首都圏最終返還地、東京都最西部に位置するN区、樹木が生い茂ったまま放置された旭が丘の存在に気付いた…というか、行き着いた」
「五年前?」
「あぁ、実際に計画を立ち上げたのは、もうちょっと前だけど…それで返還地を目的の為の‘何某かの特区’とする案を国家安全保障局、及び国家安全保障会議へ上申したんだよ。首相や官房長官を筆頭に、閣内の各国務大臣、安全保障に関係する各省庁の事務次官などの官僚達の前で行なう戦略提案の時は、真剣に、いや相当に痺れたよ」
少し疲れたな、というように神津はスロープの先を見た。施設の出入口ドアまで上がるには、もう一度折り返さなければならない。
「どういう事なのか、言っている事がまるで判らないわ…‘何某かの特区’って、ここはエネルギー経済特区のはず……えっ!?…そんなわけ…」
まさか、というように目を見開き、現在いる空虚な施設内を見渡した。衝撃を受けたままの表情で固まった。
「まずやるべきは、君達や、国民、そして米国と友好関係にある諸国に、闇社会もひっくるめて欺く為の情報の露出が必要だった。そう…米軍からの返還地に新たなエネルギー開発拠点を建造する、という事を…そして、そこが何となく危険な場所だ、という表現を盛り込む必要があった。あたかも、もしかしたら‘テロの標的’になってしまうかも、のような匂いをね。そしてこの一帯を、建前上の‘エネルギー経済特区’とする事が‘影の国家安全保障会議’で決まった」
聞かされた事で女は何かを会得したようだった。何の反応も示さず、神津の背中をただ睨み付けていた。
「いや‘表の閣内’や、経済産業省、文部科学省を筆頭とする関係省庁には、真実に新たなエネルギー開発関連施設を建造する、という事で閣議決定と通達も行なわれたよ、ちゃんとね。そして、その特区の恩恵として低価格での分譲、低賃貸料のマンション群、そして最先端医療の発信基地としての医療施設も併せて建造し、新時代の街としての提案、それと先進性を持たせたんだ。多くの人々、家族が転居して来た。これで計画の下敷きがようやく揃って完成したんだ。後は、まさしく君達をどうやってこの街に紛れ込ませるか、だったんだよ」
神津は、再び出入口ドアの方を仰いだ。
「あっ、そうそう、影の国家安全保障会議、というのはね、さっき話したでしょ、この国の今後の安全保障のあるべき姿、或いは、それらの考え得る未来と、その方向性などを、真剣に危惧している各省庁間の、縦割りではない一部の官僚だけの秘密機関なんだ。もちろん首相は知らないし、お飾りの大臣様達も当然知らない。官邸内の本当に一握りの人間と、ぼくの部下数名だけがこの機能の全容を理解しているんだ」
話が前後してしまって済まないね、と彼女に突然振り返った。神津が感じた彼女の顔の印象が、まるでのっぺらぼうのようになっていた事に少なからず驚いた。
「下敷きが完成した時点で、ぼくが最初に行なった作業は、警察庁を管理下に置く国家公安委員会の同志委員に根回しする事だった。公安警察を密かに動かし、テロの可能性が考えられる当該地域に、身分を伏せた捜査員を数チーム配置し、地域情報の常時収集と、テロを未然に防ぐ為の影の抑止力としての必要性を公安委員長に説いたよ、君達を紛れ込ます為の口実としてね。そして、施設の建造が進む中、ぼくは闇社会の代理人に成り済まし、魔女との接触を試みていた。実は、彼女の事を知ったのは、本当に偶然だったんだ。最初は最重要機密計画の被験成功者一号の、彼の情報しか持っていなかったから…君の事もその時は当然知らなかった、本当に…でも、その筋の、闇社会で著名なある代理人が、ぼくが本当に望んでいるような超一流が一人だけいる、って、東洋系の女の暗殺者だが、能力は間違いない、折り紙付きだが、報酬の高さも間違いなく世界一だ、って彼女を紹介してくれたんだ。だけど、その情報を得るだけでも、現金は本当に信じられないくらいに掛かったよ、魔女の情報を得るだけでね」
「あんた、本当に良く喋るわね」
「もしかしたら、君が心変わりしてくれるかも、って思ってさ」
二人はようやく最後の折り返しをした。
「魔女との契約は問題なく締結出来た。日本の要人を、元首相まで務めた人間を殺してくれ、という触れ込みでね。残るは、米国中央情報局に勘違いさせる為の偽情報を、上手く刷り込めるかどうか、だったんだよね。日本政府が、同盟国の米国を欺くかのように、新世代のエネルギーと目される熱核融合実験炉の最先端な開発拠点と称した‘秘密施設’で、実は米国でも鋭意開発中の最新鋭電磁パルス兵器の開発をそこで密かに行なっているのではないか、という、間違った思い込みをさせる必要があった。偽情報は、わざと防衛省や文部科学省の研究関係者を装い、電子メールのやりとりをクラウド上で必要以上に行き来させ、ネット上やあらゆるSNSでも、その手の専門家情報として彼方此方に、それらしい情報を流布したよ。その刷り込みが上手くいけば、中央情報局は国防総省へ間違いなく報告するだろうからね。そうなれば、送られて来るのは、機関員、工作員としても飛び抜けて秀でた人間という事になるはず、つまり…彼だよ」
「どうやって、それを確認出来た、っていうの?」
こういう事だよ、と再び振り返って、彼女にウインクした。
「で、実際に刷り込みは上手くいった。それを確認出来たのは、米空軍横田基地内に配備設置されている米国国家安全保障局が誇る通信監視プログラム‘PRISM’…君らの国の謀反者、諜報機関に在籍していたエドワード・スノーデン元機関員が世間へ露わにした世界的脅威と云っても過言ではない諜報システムに、一時的に不法に同期、及び侵入が実現出来たからなんだよ、信じられないだろうけど…ぼくだって最初は信じられなかったよ、だけど、世界中のあらゆる場所に頭脳明晰な情報技術者がいるように、この日本の政府機関にも、間違いなくそういう飛び抜けた人材は存在するんだよ…まさか、他国の通信全てを覗いていたNSAが、逆に誰かに覗かれるなんて、きっと夢にも思わなかっただろうけどね…」
嘘でしょ、という驚きの呟きが、神津の背後から密やかに伝わった。
「本当さ、だから彼がいつどうやって来日するのか、というのも判ったし、それによって魔女の訪日スケジュールも組む事が出来たんだからね。ぼくが間違いなく調整しなければならなかったのは、彼の偽の情報の刷り込み、つまり公安捜査官の早乙女慎司という架空の人物のデータベースへの刷り込みと、実在した女性捜査官と魔女との入れ替えのタイミングだったんだ。本物の江川冴子という捜査官の顔を、彼に見られてしまってはならなかったから、着任するかどうかという時に、ぼくが情報屋に成り済まして会う事にした。それで彼を誘き出して、魔女と女性捜査官が入れ替わる間だけ、ちょっと入院してもらおう、と思って交通事故を画作したら、思いも寄らない大事故になってしまったんだよ…」
神津は頻りに背後を気に掛けて続けた。
「彼は記憶を失い、能力も使えなくなってしまった。どうしたら良いのか判らなくて、一時はぼくも焦ってパニックになっていたんだよ、計画が全て台無しだって…そしたら、彼に変わって、半年後に君が新たに送られて来る事が偶然にも判ったんだ、計画は、ぼくらにとっても、米国諜報機関にとっても、まだ終っていないと…安心したよ…それもこれも全て‘PRISM’のお陰だったんだ」
スロープを上りきって、二人は出入口のセキュリティドアの前に辿り着いた。神津が認証パッドに掌を当てると、赤い電子センサーが十字に走り、緑色のランプが解錠した事を示した。脚の痛みを隠すように作り笑顔で、さぁ、どうぞというような手招きをした。
「早速ぼくは、公安委員の同志にその旨を伝えると同時に‘PRISM’を逆に利用して刷り込ませたんだ、沢渡香織という殉職したばかりの公安捜査官がいる、という偽情報を、赤坂の米国大使館付きの機関員があたかも調査したみたいにしてね」
開けるよ、と神津は促した。
「手を頭の後ろで組むのを忘れないでね…」
「判っているよ」
弾倉が空のままの拳銃を神津の頭に突き付けて、二人は丸屋根状施設からゆっくりと出て来た。辺りには自衛隊の特殊部隊員達だけではなく、警察庁配下の特殊急襲部隊の隊員も、敷地内に大勢が展開しているように彼女には映った。
「ねぇ、こんな状況で、本当に君はどうやって逃げるの?」
「黙っていて…」
「そうはいかないよ、だって、最重要機密計画二号としての君の存在が明らかになった時は、本当にびっくりしたし、興奮したんだから…今となっては貴重な唯一の異能者だ」
神津のしわくちゃな嬉しそうな表情は、まるで小学校低学年の子供のようだった。片や、女は緊張の面持ちのまま神津の背を押して促す。視線を左右へ素早く流すと、左手に原子力発電施設の排煙棟と思しき巨大な構造物が聳えていた。それは余りにも巨大で、あたかも二人を高い場所から威圧しているようだった。
「ねぇ、あれも偽物?」
「さぁ…どうかな」
神津は惚けた。彼の頭越しに見えるその構造物には、円状の外形を囲むように、高所に保守点検用の通路が備わっていた。柵と手摺りだけのその通路には、狙撃手も数名配置されているようだった。
「でも、同じくらいに凄かったのは、君達だけじゃなかったよ!」
女の問い掛けなど無視したように、神津は話を強引に戻した
「あの、最重要機密計画一号の彼が持っていた道具、三Dホログラムを使った顔認証セキュリティを瓦解する侵入プログラムだよ。小型なのに瞬時に仮想現実空間の構築が可能だなんて…高性能で高出力、更に省電力な演算処理装置が、あんな小さな携帯端末に搭載出来るという開発に、米国が既に成功していたとはね、個人的にはちょっとした驚きだったよ…情報技術開発の新たな開発指針がぼく達に出来た、という事だったからね。まぁ、あの‘PRISM’が創造出来たんだから、当然と言えば当然かな…」
幾つものライフルの銃口が四方八方から狙いを付ける中、神津は不気味な笑みを浮かべたままだった。二人は三棟並んだ研究棟の一番手前のC棟へ向け、アスファルトの上を慎重に歩み始めた。
「忍び込ませた公安捜査官数チームには、秘匿性を高める為、というのと、捜査官の身の安全の為に、お互いに接触、干渉は禁止、チーム内構成は、警視庁本庁、各所轄警察署の公安部からランダムに抽出、任務中は、各当該捜査官の個人情報は、警察庁の照会データベースから遮断、というプランを公安委員長に上程した…ふふふ、何かもっともらしいだろ?…結果的にはそれがそのまま採用されたんだけどね。呑んでもらわないと、とても困った事態になったんだ、君達を紛れ込ませなくなってしまうし、もしもそうなったとしたら、この重要な計画‘秘密施設計画’そのものが足下から瓦解するといいう事で、今までぼく達が費やして来た人的資源や経済的資源、それら全ての労力が全くの無駄となってしまうからね…あっ、そうそう、あの‘身分秘匿囮捜査班、Decoy and Undercover Investigation Team’という名称、とっても格好良かったでしょ、あれ、ぼくが考えたんだよ、本当のような嘘のような名称を、君達が関係していた機関、や人物達だけに流布したんだ…紛れ込ます合言葉みたいなものとしてね」
神津が浮かべた笑みは、まさしく小学生の悪戯坊主のようだった。
「ちょ、ちょっと待って、あなた達は、いえ、あなたは、私達のような‘人為的に創造された異能者’の身体能力調査や、あの男が持っていたような、諜報機関で造られた最新の‘侵入道具’の性能を試す…そうじゃないわ…知るためだけで、この広大な秘密施設を建造した、とでも言うの!?」
「う~ん、まぁ、そんなところ…かな」
背後から早口で問い掛けた女への反応が、余りにも予想外で、淡々としていた。
「イカれている……あなた一体……本当は、一体、何者なの!?」
「…とても良い情報収集が出来たよ」
神津は、またしても惚けた反応を示して話を逸らした。それから突然に振り返り、無表情のまま女の目の奥を執拗に覗き込んだ。能面のようなその表情は、まさしく与えられた何かの役割の一つを淡々と演じているようにも受け取れた。それはどうする事も出来ない薄気味悪さから来る恐怖心を彼女に与えていた。
「本当はね……いや、そんな事よりも、さっきの話だけど、どうだろう…心変わりしてくれただろうか?」
「は、話って?」
「そうか…そうやって、まだこのぼくに…惚けるんだ…」
耳まで覆っていた長い髪を、神津は右手でゆっくりと後方へ撫で上げた。耳には黒くて小型な無線イヤホンがはまっていた。
「えっ!?」
彼女がそれに気付いた時、神津の口が「Go」と小さく動いた。衝撃が瞬時に女の足下まで突き抜け、何かを考えたり、動いたりする間もなかった。アサルトライフルの発砲音が、早朝の蒼穹の中に数回連続で埋め込まれた後、女の目から上が突然に吹き飛んでなくなった。返り血と散った髪や脳味噌を神津に浴びせ、女の身体が泥人形が崩れるように倒れていった。
「じ、次官殿、ご無事で…あっ!!」
周辺で待機していた特殊部隊員達が、後から後から神津を囲んでいった。先頭にいた隊員が、血に染まったスーツパンツと脚の裂傷に気付いたが、神津はただ居心地が悪そうに無視し続けた。誰とも視線を交わさずに、自身の身体に飛び散った血や脳味噌の残骸を気持ち悪そうにハンカチで執拗に拭い続けた。
少し遅れて、ダークスーツの細身で長身の男が、研究棟から小走りに近寄って来た。神津とは似ても似つかぬ、細面に縁なし眼鏡を高い鼻に引っ掛けた二枚目だった。二人が並ぶと、子供と大人ほどの身長差があった。その長身の男が、神津に取り付いていた特殊部隊員達をこの場から離れるように手早く促した。神津は、来るのが遅いよ、という不満の表情を浮かべていた。
「サエグサ、採点はどうだった?」
「え~と…そ、そうですね、審議官殿…全体評価で残念ですが予測シミュレーションの三十六パーセント減でのオペレーション進行でした、特に身体能力の差から起きた、損害予測が想定を遙かに超えていて…」
「全体で三十六パーセント減…だと!?」
額の汗を拭う長身の男の前の神津の雰囲気は、これまでとは全くの別人のようだった。
「特にですね、魔女から受けた病院内での特務部隊の損害が…全滅という結果が、想定を遙かに超えていまして……特務部隊の育成には…多額の予算が一際掛かっていますから、コストパフォーマンスの構成表から限りなくはみ出してしまいました」
「まさか、最重要機密計画の二人よりも、魔女から受けた損害の方が、遙かに大きいという結果なのか?」
「今回のシミュレーションの結果からは、皮肉にもそういう事になります」
「まぁいい…サエグサ、とにかくこの遺体は慎重に扱って、日本医療研究開発機構の秘匿研究室で冷凍保存しろ。これに今現在、考え得る最先端の生物工学の秘密が間違いなく隠されている…解剖して秘密を徹底的に暴け…ドームの中にもう一体、男の検体が転がっている。後、この件の米国への対応だが、同盟国の我が国へ疑いの目を向けて、彼らを送り込んで来た、という事に関して、裏口から遺憾の念を抱いた、という事を伝えろ。そして、その代償として二体の検体はこちらで預からせてもらう、とな…奴らがウダクサと難癖を付けたら、通商代表部が望んでいる二国間自由貿易協定の席上で、今回の無礼な事由を大っぴらに、あけすけに匂わせてやれ、一切合切を公に、世界中にバラすとな…」
「承知しました」
長身の男は、一度下がった特殊部隊員達数名に目配せし、女の亡骸を移動するように促した。察した部隊員が担架に乗せ、そそくさと運んでいった。更に一人を呼び付け、丸屋根状施設に残った屍の移動も伝えた。
「それと、最重要機密計画被験者一号が持っていた侵入道具、あの三Dホログラムを使った顔認証侵入の技術、仮想立体的仮面の立体高解像度技術、あれは悔しいが完全に負けている、しかもたった数分で解析、構築を完了している。ホログラムの最新仕様が米国に比べて全く遅れているぞ。あの装置の解析を最優先に急げ! 装置そのものが女の亡骸の何処かにあるはずだ!」
神津は、疲れと怪我を忘れたように長身の男に向けて捲し立て続けた。
「‘入植’した民間人の被害は?」
「奇跡的にありませんでした」
「訓練用の‘病院’の復旧にはどれくらい掛かる?」
「…魔女の特務部隊に対する惨殺が余りにも想定以上で……内密に急がせますが、ほぼ全面的な改修が必要か、と思われます。そ、そうですね…最短でも三ヶ月ほどは…」
「そうか…仕方ないな…次回の‘作戦’を含め、その辺の更新に関しては、全面的にサエグサの裁量権に付加する…」
「ありがとうございます、最短で急がせます」
しばらく病院内全体を建前上は休診だな、と神津が吐き捨てた。報告が一段落したところで、辺りの喧騒がようやく神津の耳に届き始めた。彼らの上空にはヘリコプターが数機舞っていた。
「あれは?」
「報道機関のようです」
ウザいな、というような不快を示して見上げた。
「カメラで映像を撮られている、という事か……いいか、サエグサ、この‘ブラックサイト’の本当の姿を、世間に絶対知られてはならないぞ、いいな!」
「判っています、審議官、ここの、この街全体の‘生きた’シミュレーション機能を上回る‘訓練施設’は、世界中の何処を探してもありません。想定不能な新たなテロの脅威から、この国を守る為の‘実戦’に等しい、いえ、ほぼ実戦のシミュレーションが出来る施設なんて…ここ以外に存在しませんから…」
「あぁ、ここ以上にシミュレーションを、何も知らない民間人を交えた実戦レベルの緊張感で行える、まさに‘仮想現実’的に、いや‘仮想的’ではなく‘現実的’に行える場所はないよ。街全体が‘秘密施設’なんて、普通は考えつかない。だが、今後もここは、想定されるあらゆる‘脅威’の組み合わせでシミュレーションは幾つも遂行可能だ。この次は、ロシア辺りに誤情報でも…奴らのお気に入り‘精鋭特殊部隊’でも誘い込むか…ふふふ」
「えぇ…」
「どっちにしても、今回の、この一年の事細かな監視映像と記録は、滞りなく完全に保存しろよ、最重要な情報だ」
「はい、承知しています」
「ふふ…どうせ、何から何まで嘘だらけの世の中さ…誤情報ばかりが飛び交っている…気を付けないとな、そうだな、サエグサ…」
「はっ!!」
『あっ、い、今、たった今です、人質となっていた作家の神津良吉さんが、立て籠もっていたテロリストといっしょに、研究施設から出て来ました。あれは銃…ですかね、私が乗っているこのヘリからははっきりと見えませんが、拳銃のような物を背中に突き付けられているようです。神津さんは、次回作執筆の取材の為に、昨晩からこの‘ネオ・エネルギー総合研究所’に訪れていた、という事のようでしたが、不運にも施設へ侵入したテロリストに人質として取られてしまった、ようです…か、彼ら人数や性別、侵入の目的は不明ですが、犯人のテロリストは…え~ぇ、現在見えている空からの映像では…はっきりとは…う~ん…判別が難しいのですが、犯人は女性のようにも思えます…が……あっ…えっ…!!(こ、この映像、ライブで流れているの、ねぇ、これ本当に大丈夫? 放送規定はOKなの?)……たった今、たった今です、SATによる犯人に対しての射撃が数回行なわれてようですぅ!…犯人のテロリストは…神津さんの傍らで倒れたようで……激しく被弾…そうです、被弾した模様です!!……』




