プロローグ
その場に居合わせた誰の耳にもただ事じゃないと判る騒がしさだった。鼓膜を引き裂かんばかりのタイヤの炸裂音が周辺へ反響して弾けた。それは断末魔を想起させるほどの恐怖心を立ち尽くす人々に嫌でも植え付けた。
首都高の入り組んだ高架に頭上を覆われた川越街道と中山道が交わる大きな交差点はいつもと同じで薄暗かった。そこへ飛び込んだメタリックブルーのBMW・M5は、走っていた川越街道側の赤信号を全く無視していた。道交法に従っていた中山道側の車らを無残にも蹴散らし、埼玉県方面へ乱暴に滑らしながら力任せに右折していった。交差点に差し掛かった中山道を走行していた直進車数台が切迫した緊急ブレーキを掛けながら無情な衝突音と伴に交差点内で四散した。
そのBMWを猛烈に追う白いトヨタ・クラウンが、同じような速度で荒れた交差点内に間髪を入れずに飛び込んだ。
《どけ、どけっ、そこどけぇー!!》
車内でステアリングを握る早乙女慎司が、立ち往生した車数台が行方を阻んで邪魔だというように罵る。
クラウンの後部は、前方を逃げるBMWよりもだらしなく大きく車体を左側へ滑らせていた。今にもバランスを崩して破綻しそうだった。それでも早乙女はスロットルペダルを緩める事が全く出来ないでいた。
余りの惨状に呆気にとられ、交差点でいつも通りに通行状況を監視していた警官達数人が何も出来ずに固まっていた。
ようやく我に返った警官一人が待機させていたパトカーに飛び乗り、白バイ二台が赤い回転灯を点灯させてそれに続いた。慌てたようにサイレンを騒がしく響かせ、無謀な二台の車を急追し始めた。
逃げるBMWは、片側三車線の通りを右へ左へと縦横無尽に車線変更を繰り返し、周囲を走行する車を蹴散らしながら自殺的な速度で走り続ける。何度目かの車線変更で、周辺を通行する数台の車と無慈悲にも接触させていた。ぶつけられてドアミラーを失った車が驚いて急制動を掛けてしまい、後続の車がそこへ突っ込んだりする事故の二次被害が自然と拡大していった。歩道を行き交う歩行者達が悲鳴を上げ、右往左往していた。
前方の二台の車、すぐに止まりなさい、としつこく叫ぶ拡声器音を背に受けた早乙女は、それを全く無視した。無茶苦茶な走行を続ける青いセダンに尻込みした他の車を避けながら飛ばし続ける。
無情な信号無視を何回か起した直後、センターダッシュボードの大型モニターにブルートゥースを通じた携帯電話の着信通知が示された。間断なく着信音が車内に響く。送信者名が江川冴子と画面に表示されていた。早乙女は前方や周囲の車に素早く目配せしつつ、スロットルは緩めなかった。白髪交じりの長髪を掻き上げて、おっかなびっくりで慎重に画面をタップする。
「あんたは確か…まぁいい、一体何だ?」
『何だ…って、早乙女さんですよね、今何処にいるんですか!?』
追い掛けて来るパトカーと白バイのサイレンの騒がしさで相手の声が聞き取り辛かった。拡声器の割れた音声が容赦なく車内へ染み入った。
「今、ちょっと取り込んでいる最中…なんだ」
急ハンドル操作を右に左にと繰り返し、畜生、と小さく毒づいた。
『はっ!?…取り込んでいる…って』
「実は車で……‘被疑者’を追跡中だ!」
『く、車で被疑者を追跡…って……一体何ですか、どうしたんですか…‘着任’早々に人の顔も見ずに慌てたように飛び出していったきりで…それに随分と周りが騒がしいよう…』
「いきなり携帯で接触して来た情報屋を追っている…池袋で会うはずだったが、どういうわけか目の前で急に逃走した…」
『せ、接触って…そんな馬鹿な、あ、有り得ない!?……だって、私達の事は…』
「そうだ……絶対に有り得ない…」
だから奴を追っている、と口ごもって前走車を避ける為に右へ慌ただしく車線変更した。街道中央の首都高五号線の板橋本町入口が大きく迫り寄る。
「しかも、運悪く‘同業者’にも追われている」
皮肉を吐いた時、前方の環状七号線との交差点が赤だったせいで三車線全体が通行車両で塞がれているのが早乙女の目に入った。
『この騒がしい音は、サイレンの…』
「…あぁ…」
青い独製セダンが、一番右側の中央車線から一気に左端の車線まで不可能と思えるような無謀な車線変更を突然行なった。そのせいで、他の通行車両が尽く急制動を強いられて、後続の車との接触事故が再び多発した。
BMWはそのまま車道からはみ出し、事あろうか建ち並んだ雑居ビル前の幅員が広い歩道に乗り上げた。お構いなしに猛烈な加速を始めると、歩道上はちょっとしたパニックに陥った。歩行者達は次々となぎ倒されるように悲鳴を発しながら飛び退いた。
それを見た早乙女は通話するのももどかしく、移動したばかりの中央車線から追跡車両に倣って左端まで、壊れて停止した車を数台避けながら車線を変えていった。まるで綱渡りのようだった。歩道に乗り上げた際、フロントバンパーのスカート部が段差に引っ掛かって激突音といっしょに弾けて割れ飛んだが、気にも掛けずに歩道上のBMWを追う。
パトカーは追跡が困難だと判断したのか、車列の後方で一旦停車し、サイレンを響かせながら拡声器で道を開けろ、と頻りに喚き続けた。だが、二台の白バイが車線と車線の狭間を通り抜け、暴走するセダンの追跡を諦めなかった。
BMWが歩道から交差点の横断歩道に差し掛かった。躊躇する事なくそのまま斜めに中山道直進方向へ交差点内に飛び出すと、左右の環七方向から走って来た車列は何事が起きたのか瞬時には全く判断が出来なかった。当惑したままそれぞれ十数台が急ブレーキを踏むと、交差点内は花弁が開いたみたいに車両が四方八方へタイヤを軋ませ散っていった。その中央の寸隙をBMWは狙い澄ましたように突き進んだ。早乙女も辺りの歩行者に気を払いながら、混乱の中で歩道から交差点に出る間隙を逃さなかった。
『その情報屋は、どうやってあなたの事を、いえ、私達の事を知ったんですか!?……私達の照会コードや個人情報は、警察庁本体の照会ファイルから隔絶されているはずですよね…何が目的だったんですか!?』
「判らん……これまで…一度も利用した事のない奴だ」
幾らか言葉を濁らせた。それを誤魔化すみたいに手動変速モードで左側のパドルを一回引くと、エンジンは唸りながら急激に回転を上昇させた。早乙女は咄嗟にフロアが抜けるほどにスロットルを踏み込んだ。ルームミラーに目をやると、白バイ二台が交差点を慎重に抜け、諦めずに追走して来ていた。
「判らないから、そいつをとっ捕まえて、どういう事なのか問い質す。場合によっては……」
『場合によってはって……どうするんですか!?』
奴はとにかく危険だ、と答えようとしたその刹那、圧倒的に軽量で高出力な白バイが加速力に物を言わせ、クラウンの運転席側へ猛追して並んだ。エンジンの保護ガード上に取り付けられた赤い回転灯が目の隅に映り、早乙女を嫌でも威嚇した。その間にもBMWは逃げ水の如く遠退いていく。
すぐに止まりなさい、という怒りの語気を含んだ拡声器音とサイレン音が、頭上を覆う首都高に反響しては飛び散った。もう一台は軽々と早乙女のクラウンを左側から追い越して、更に前方を走る青い独車へ向かって加速していった。
早乙女は、右側を並走する白バイには全く目もくれず、前方だけを凝視し続けた。視線の先では、あっという間にBMWに追いついた白バイが、同じように警告を発しているようだった。だが、逃走車はその警告を無視するだけではなく、白バイに向って意図的に幅寄せを数度繰り返して行なった。何度目かの幅寄せで、青いセダンと接触してしまった白バイは無残にもバランスを崩してしまった。乗っていた隊員は四肢の関節を有り得ないように折り曲げながら吹き飛ばされ、道路中央で転倒してしまった。その現場を早乙女と並走していた白バイは瞬く間に通り越していた。
早乙女と並走していた白バイ隊員は、前方から視線を逸らしてその惨状を驚愕して見送ってしまった為、前走していた一般車への注意が束の間散漫になっていた。我に返ってその事に気付いた時は、速度差があり過ぎた中央車線の前をいくメルセデスのミニバン後部に激突していた。
やばい、と察した早乙女は、スロットルは戻さずにステアリング操作だけで左側へ反射的に回避行動を取っていた。急激な横荷重が早乙女を襲い、無理に首を右へねじ曲げようとした。避けられなかった白バイが激突したミニバン後部のドアパネルは、まるで紙がしわくちゃになったように歪んで大きく窪んだ。
『早乙女さん、聞こえている、早乙女さん…!?』
叫ぶ女の声がスピーカーから響くが、早乙女は返答する余裕が全く持てなかった。チノパンの上に羽織っていたダンガリーシャツの袖で、額に浮き出た汗を素早く拭った。
《何故、逃げる!?》
逃げ続けるBMWは、街道の三車線を相変わらず縦横無尽に走り回り、それを邪魔する一般車両を蹴散らし続けた。早乙女のクラウンは、それらの車を絶妙に避けながら、どうにか追いつこうと速度を少しも緩められなかった。
前方の蓮沼界隈で国道が二股に分かれた。BMWは右手の二車線になった中山道本線を直進し、頭上を覆っていた首都高五号線の高架から逸れて速度を落とす事なく突き進んだ。閉塞感がいきなり途切れ、蒼穹の中で輝く初夏の太陽光が溢れんばかりにクラウンのガラスサンルーフから降り注いだ。
二台は、志村警察署前を有り得ないような自殺的速度で駆け抜けた。それを認めた玄関に詰めていた警官が、慌てて署内に何か怒号を発したが、その行為自体が無駄で遅かった。
BMWの背後へようやく追いついた早乙女は、左側パドルを一度だけ引きシフトダウンした。間髪を入れずにスロットルを思い入り踏み込むと、クラウンは蹴飛ばされたように荒々しく加速し、その勢いのままBMWの後部へ躊躇わずに衝突させた。激震を受けたBMWは一時だけバランスを失ってだらしなく車体を僅かに斜めに傾けた。衝撃と激突音に驚いたドライバーの影が一瞬だけ振り返るような素振りを示した。二回目の衝突を連想して恐れたのか、BMWは更に速度を乗せた。早乙女も更に車に鞭打ち、テールランプに食らい付く。周辺を並走する他の車両群が二台の異常な走行に気付き、路肩へ避けたり、ハザードランプを点灯して減速したりした。
正気を失った速度で連なる二台は、赤信号のままの環状八号線との交差点に突進して来ていた。横断歩道上でベビーカーを押していた女性がいち早く異変を察知し、命からがら走って避けた。
環八線上の左右からは、何の恐れも抱いていない大多数の車が普通に交差点内へ流れ込んでいた。そこへいきなり殺人的な猛スピードなままで信号無視をしたBMWとクラウンが連なったまま飛び込んだ。環八を走行していた他車群は、全くの予想外の事態に思考力は完全に奪われ、本能的な急ブレーキを踏む事くらいしか出来なくなっていた。それは周辺にいた誰にも、目の前で思いも寄らない自爆テロを急に引き起されたような、たとえようのない震撼として音速並に周囲へ伝染していった。
歩道の至る場所で悲鳴が上がった。見る間もなく交差点内が地獄絵図の如く唐突に変異していく。
環八右手から進入して来たタクシーと、並走していたアウディがつんのめるみたいな前傾姿勢になるほどに急制動を掛け、悲鳴にも似たタイヤが裂けたような甲高い音が交差点上空を覆った。その二台の鼻っ面寸前を、逃げるBMWと追うクラウンが刹那に掠めた。その束の間、どうにか停車したアウディの真後ろを走っていた荷が満載の十トントラックは全く急減速させる事が不可能だった。ゴムが痛烈によじれる音と、金属と金属が無理に擦れて何かが壊れるような不快な音を撒き散らし、アウディのトランクを運転台下部で潰しながら交差点を渡った先の中央分離帯へ斜めに押し上げた。その斜めに向いたトラックのアルミの荷台の後部扉へ、急停車したタクシーをぎりぎり避けたはずの七五0CCの大型バイクが突き刺さった。衝突した瞬間に、何か膨らんだ物が破裂するような生々しい音が辺りに散った。
金属が無理にひしゃげたり、折れたりするような破壊音が止まなかった。タクシーとトラックには次々と後続を走行していた車が不様に折り重なって突っ込み、特にトラックに衝突したバイクとライダーはスクラップみたいに潰されてしまった。瞬きしただけのような僅かな時間しか経過していなかったが、交差点周辺はいつも通りの日常の風景から、死を簡単に予感させる修羅場へと様相を変えていたのだった。
瞬く間にBMWとクラウンの二台は、環八の反対車線側へ差し掛かる。左手から来た大型スクーターは、すでに反対車線の惨状を認めていたのか、慌ててブレーキを掛けたせいでタイヤをロックさせ、車体を斜めに滑らせたまま交差点へ飛び込んで来た。周辺を走行していた数台のセダンやワゴン車がそれを見て、急制動で大きく姿勢を乱した。
スクーターはそのまま斜めに転倒し、アスファルトで焼けるように擦られた男性ライダーは、幸運にもスロットルグリップから手を離す事が出来た。乗り手を失ったまま滑り続けるスクーターは、交差点を猛スピードで抜け掛かったBMWの左フロントバンパーへ当たって弾けた。大きな鈍い衝撃音を発しながら歩道の角のガードレールに叩きつけられた。
BMWはバランスを崩し、右側へ一瞬だけ振られたが、速度を落とさずに駆け抜けた。早乙女は、ガードレールに叩きつけられて車体が真っ二つに割れたスクーターを尻目に、BMWの後部から決して離れなかった。
ライダーは軽装だったせいで、鑢と化したアスファルトで猛烈に擦りつけられた腕や脚は、悲惨なほどに焼けて肉が削げ落ちていた。
転倒したライダーには更に追い打ちが掛けられた。車線の真ん中で転がっていた為に、不意な急制動で車体を滑らせて制御不能に陥った大型SUVが襲い掛かった。SUVは無残にも彼を轢いて身体を一瞬にして引き千切って四散させてしまった。風船が破裂したように路面に鮮血が四方八方へ飛び散り、そこへ反対車線の惨状と同じように後から後から乗用車やトラックが吸い込まれるようにぶつかっていった。中山道と環状八号線の交差点全体は、僅か数秒の内に日常とは掛け離れた戦慄の光景へと姿を変えてしまっていた。それは凄絶な速度で走り去る二台にとって、冷淡にも既に過去の出来事となっていた。
追われるBMWの青い塗料の中に塗された光沢の粒子が、太陽光を細波みたいな反射光の飛礫に数限りなく変え、追い掛ける早乙女の目を執拗に威嚇し続けた。目前のテールランプは、その反射光の中で右に左にと、何かに戸惑うみたいにふらふらと揺れていた。
周辺の穏やかな景観や雰囲気を全く無視し、周囲から完全に浮いた存在となっていた二台が、偶然にも青信号だった志村坂下の交差点を稲妻のように通過した。中山道は、もうじき並行していた隅田川を渡る志村橋に差し掛かるところだった。
中山道が緩やかに右へターンする坂下交番前で、一瞬だけBMWが速度を何故か失ったようだった。早乙女は本能的に青い前走車のウインドウ越しに先を睨んだ。前方の二車線には、路肩側にタンクローリー、自分達がいる中央車線に四トントラックが並走していた。早乙女はそれをチャンスだと瞬間的に捉えた。
シフトダウンで一際甲高い咆哮を上げたクラウンが、路肩側の車線へ出て一気に並び掛けた。前方を走るタンクローリーと四トン車に追いついてしまう前にBMWの前へ出たかった。両側に建ち並ぶビルやマンションが後方へあっという間に飛び去る。
運転席同士が平行に並び掛け、抜き去る寸前に早乙女は瞬時に右側を向いた。運転者の風貌を確認しようとしたが、黒のニット帽にサングラスを掛け、白いマスクで口の周りを覆っていて、僅かな瞬間でははっきりとした容姿は掴めなかった。
クラウンのエンジンが一段と狂おしく唸った。BMWを抜き掛かった時、そのメタリックブルーの車は故意に幅寄せしながら車体を凄まじく体当たりさせた。更に数回当てた後に、車体を離さずにそのままガードレールへ無理に押し寄せようとした。青いセダンの運転者は構わずにステアリングを左へ切ったままスロットルを踏み続けていた。
早乙女は溜まらずにパワーを掛けて離れよう試みた。だが不幸にも右バンパー角がBMWのフロントフェンダー内に引っ掛かってしまい、どうする事も出来なかった。押され続けているクラウンは全くバランスを失っていた。早乙女は逃げようと後輪にパワーを掛けているせいで車体は斜めに傾き、クラウンの左リアフェンダーやリアバンパーがガードレールに叩き続けられた。車内の早乙女に酷い衝撃が襲い続ける。
《くそっ!!》
絡み合うように志村橋に近付いていった二台の前に、タンクローリーの後部が迫っていた。そのまま進めば、二台共々にタンクローリーに激突しかねなかった。端から見たら、その状態だけでも完全に常軌を逸していた。
本線が二車線になってからは中央分離帯がなくなった為に、隅田川を渡る志村橋の手前からは安全上の問題なのか、センターライン上に、赤いポールが等間隔で立ち始めた。
スピードが余りにも出ていたせいで、幾らか上り坂になった橋の手前の継ぎ目にあった僅かな段差で二台が同時に小さく跳ねた。その拍子に引っ掛かっていたバンパーが外れたが、フルパワーを掛け続けていたクラウンは、前のめりの姿勢からBMWの前面格子の方へ運悪く回り込んでしまった。最悪な事にそのままでは真横の姿勢からBMWに前へ押し出され、タンクローリーとの後部で挟まれるように衝突させられてもおかしくなかった。
《やれるか!?》
一か八か早乙女は、差し掛かった志村橋で踏み込み式パーキングブレーキを躊躇なく踏んでタイヤをロックさせ、車体を強引に滑らせた。凄烈に白煙を巻き上げながら、断末魔の叫びの如くに四つのタイヤが悲鳴を撒き散らした。
その動作でBMWは幾らかつんのめるように減速させられ、クラウンは中央車線側へ回り込むみたいに絡み合ったメタリックブルーの当該車のフロント部分から回ってずれていった。瞬間的な素晴しい判断と運転技術だったが、その間に一八〇度回転しながら中央車線の赤いポールを幾つも無残に薙ぎ倒していった。
瞬き一回分の時間でパーキングブレーキを踏み直して解除した早乙女は、車体の向きが戻ったところで再度フルパワーを掛けた。だが、リアを振りながら姿勢が直った場所が余りにも悪過ぎた。
クラウンが反対車線側の中央車線上で姿勢を回復させた刹那、避ける間もなく対向車のワンボックスカーが正面から早乙女に向って来た。不可抗力で突進して来たワンボックスカーは急制動を掛けながら衝突する寸前で右へ回避したが間に合わず、クラウンの右ノーズとフェンダーを潰しながら早乙女の後方へ過ぎていった。
エアバックが作動したが、衝突の衝撃で早乙女は意識を失い掛けていた。コントロールを失ったクラウンは、中央のポールを再び倒し続けながら明後日の方を向いたまま橋の中央を漂った。
そこへコンテナを積んだトレーラーが、減速する事もどうする事も出来ないんだ、というような勢いで後方から飛び込んで来た。思いも寄らない事態にトレーラーの運転手はまさしくパニックに陥ってブレーキペダルを激しく踏んでいた。制動力を失ったトレーラー部分が運転台を軸にして追い越しそうな勢いで、振り子のように斜めに左側から外側へ滑り出した。鼓膜を裂くような音で後輪二軸のダブルタイヤを橋の外へはみ出させ、路肩のガードレールと橋の高欄を次々となぎ倒していった。トレーラー全体が回転し始め、重力に全く逆らえなくなっていた。
耳を覆いたくなる不協和音を引き連れ、トレーラー部分が回転しながら無残にも早乙女が乗ったままのクラウンに衝突した。そのまま反対車線側を横切り、ガードレールと高欄を壊しながら、ぼろぼろとなった白い車を橋の外へ勢い良く押し出してしまった。
クラウンは、弧をゆっくりと描くように志村橋から隅田川へ落下していった。その光景は、隅田川の反対岸に鎮座する大型パチンコ店の立体駐車場の中へ埋め込まれていくような非現実的な錯覚を、その場に居合わした誰にも抱かせていた。
爆発したかのような大きな着水音だった。早乙女を閉じ込めたままのクラウンは、夥しい気泡を周辺に数限りなく立て始め、水責めの拷問に掛けられたようにじわじわと沈み込んだ、そして水面から消えてなくなっていった。