最高の刑罰
不吉な予感──というものを感じたことがあるだろうか。
今の私を襲っているのがそれだった。
特別なシチュエーションでもない。一家そろって朝食を食べ終わったという、いつものありふれた日常のさなかだ。
ごちそうさまを言い、食器を片付けようと茶碗を持った瞬間に、それが訪れた。
目の前が暗闇になるような感覚に襲われ、真っ青になる。
何か、とてつもなく不幸なことが起こる。何をしても防ぐことはできない、最悪の出来事が。
「あなた、どうしたの?」
妻の由紀が怪訝な顔で聞いてくる。
「いや、何でもないよ」
「でも、顔色悪いよ? 最近多くない?」
「パパ? だいじょーぶ?」
一人娘の亜美が小首をかしげて聞いてくる。その愛くるしい様子に、胸のつかえも多少はとれる。
「本当に大丈夫だよ。急にお腹がね」
私は無理に笑い、急いでリビングから離れた。トイレに駆け込むと、必死で嘔吐感に耐える。
問題は、私自身への予感ではなく、家族へのものだということだった。
私へのものだったら、どんなにいいことか……。
とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。
仕事に行かなければ。
私は商業施設やオフィスビル、マンション、ホテル……といったさまざまな建物を管理する会社に勤めている。
そこそこの規模の商業施設の副所長というのが私の肩書だ。
設備や清掃、警備、日々のメンテナンスのための業者の手配、テナントの対応、etc、etc……。
作業申請書にハンコを押し、売上報告書を提出する。
やることは多い。
世間ではAIに仕事が任せてどうこう言っているが、AIはエアコンのメンテナンスをしてくれるわけではない。
テナントの対応も頭痛の種だ。
細かいことにぐちぐち文句を言うテナントもいる。特にレストラン関係のオーナーは変わり者が多いという印象だ。
隣の店舗がバックヤードに物を置きっぱなしなどクレームを入れてくるが、自分たちだってやってるのだ。どういう神経なのかと思う。
まぁ、大手の傘に入らず、独立独歩で歩む人間は個性が強いということなのかも知れない。
オフィスがメインのビルならもっと楽なのだが、今度は残業が少なくなる。残業がなければびっくりするほど給料は少なくなる、そういう会社だ。
面白い仕事かと言われれば首をかしげざるを得ない。
もともと私は役者になりたかった。テレビ俳優などではなく、舞台俳優のほうである。
しかし結局は小劇場のそこそこ存在感のある脇役が精一杯なのだと悟り、夢を諦めた。妻の由紀と付き合い始めて数年たち、結婚を考えたことも理由のひとつだ。
仲が良かった大学の先輩のコネを頼って今の会社に中途で潜りこんだ。
今でもあのライトの眩しさを思い出すこともあるが、それもまれになりつつある。
やりたいようにやれる人生など、誰もが送れるはずもない。才能があり、努力し、運を味方につけた、選ばれた少数が送れる人生。
私はその一人になれなかったというだけの話。
まぁ、世の中そんなものだ。
今の私には、妻と子供を食わせていくのが第一の目標だし、それができれば十分だった。
「パパ! はやくかえってきてね」
亜美に手を振りながら、週末はどこに連れて行ってやろうかと考える。
望みどおりにはいかなかった人生だが、満足はしている。
つまらない人生だと言うやつは、亜美の可愛さを知らないのだろう。
「関口君? 聞いてる?」
所長が私の顔を見ながら何か喋っていた。
「あ、すいません。ちょっと心配事があって……」
「しっかりしてよ。最近ヘンだよ」
「すいません、気をつけます」
所長は少し不機嫌な表情で、いつもの脂ぎった表情がさらにてらてら光ってるように見えた。
いけないいけない。あとで機嫌を取らなければ。
所長とは仲が悪いわけでもなければ、良いわけでもない。何年か一緒にやって、それぞれ別の現場に行く。それだけの関係だった。
「所長、オーナーへの冷暖房切り替えの時期の件、私がやっておきますから」
「お、そうかい。じゃあ頼むよ」
所長は少し機嫌が良くなったようだ。
オーナーは神経質で、顔を合わせるたびに小言を言ってくるので、所長はできるだけ会いたくないのだ。
それは私も同じだが、仕方ない。
「ところで、心配事って何?」
「いやちょっと、戸締りが気になったもので……」
ビルについてから、戸締りを厳重にするよう由紀に言うのを忘れてたことに気が付いたのだ。
「ああ、あの件があるから? 量刑の変更。悪い奴が調子にのるんじゃないかって、ボクも心配だよ」
「ええ、まぁ……」
私は言葉を濁した。
量刑の変更? 何だ、それは。そんなニュース、あったか?
「まぁ、関口君の住んでるとこは外国人も少ないって聞くし、大丈夫でしょ」
「はい。私もそこら辺は結構気にしてマンション買いましたしね」
大丈夫だ、と私は自分に言い聞かせていた。
治安が悪い場所に住んでるわけではない。むしろ、良いほうだ。
たまに引ったくりだの泥棒といった事件を耳にしないわけではないが、それもたまにのレベルである。
だから大丈夫だ、と私は何度も自分に言い聞かせる。
そのとき、携帯が鳴った。
出る前に、もうすでに内容は分かっていた気がする。
なぜなら、重しのように頭や肩や胸に常にのしかかっていた不吉な予感が、綺麗さっぱりなくなっていたからだ。
それからのことは、あまり記憶にない。
身元確認のために病院に向かい、無残に変わり果てた妻と娘の遺体と対面するまで、私はどこか夢の中の出来事だと思い込んでいたフシがある。
そんなわけがないと。
そんなことが私たちに起こるわけがないと。
だって、私たちは何も悪いことはしていないのだから。
こんな目に遭う理由がない。なに一つ、ないのだ。
だから目の前の白い布をかぶせられた二つの死体は、絶対に赤の他人のものなのだ。
笑い話になるぞ、と私は思った。
あのときは本当に心臓が止まる思いがしたよ。お前たちが殺されたって聞いて泡くってかけつけて。そしたら全然別人で。腰が抜けちゃってさあ。
何年、何十年たってもウケる、鉄板の不謹慎な笑い話に。
「お願いします。つらいでしょうが……」
神妙な顔をした刑事にうながされ、私はゆっくりと手を伸ばした。
めった刺しにされたというには妻と娘の死に顔はあまりに穏やかなように、私には思えた。
妻と娘のいない世界の虚しさというのを、私ははじめて知った。
記者会見できないかというマスコミの申し出に、私は答えることにした。
両親も、義理の父も母も反対した。私を気遣ってくれたのだ。
しかし、引きこもって涙にくれるだけの私の姿など、天国の妻も娘も見たくないはずだった。
堂々とインタビューに答えて、いまだ捕まっていない犯人と対決しよう。
私はそう決意した。
……マスコミに囲まれた私は声を振り絞って答えた。
「私は犯人に与えて欲しい。一番厳しい罰を。──最高の刑罰を」
「ということは」
「もちろん、死刑です」
バカなことを聞くものだ。それ以外にないだろう。
しかし、記者は奇妙な顔をして、驚くべきことを言った。
「死刑は廃止されましたよ。ご存じありませんでしたか?」
「そんな、まさか」
では最高刑はなんなのだ。まさか一生刑務所に入るだけなのか? そんな生ぬるい刑で済ませられるのか?
私の最愛の妻と娘を奪った罪を、そんな──
「たいへんだ」
と、記者の一人が耳から携帯をはなして、大声で叫んだ。
「犯人が捕まったらしい」
現場が騒然となり、誰も彼もがその情報の真否を確かめる。
私は呆然と突っ立ってるだけだった。
記者が私にスマホを差し出した。
「これが犯人ですが……」
私は事態の急展開に戸惑いながらも、犯人の姿を、殺したいほど憎い犯人の姿を見た。
背中を曲げ、警察官にはさまれて連行されていく男の姿。
見るからに情けない、憔悴した中年男で、その顔は──
その顔は──
私の顔だった。
「え?」
私は目をつむり、もう一度見る。心臓が胸から飛び出しそうなほど動悸が激しくなっている。
しかし何度見ても、それは何百、何千と見た私の顔だった。
なぜ!?
なんだ、これは──
「そんなわけが……」
私は、顔を押さえてよろめく。
そうだ。そんなわけが……あれが「私」のわけがない。
あれは、「俺」だ。
俺の名前は堤康夫。
昔から、俺は恵まれなかった。私とは大違いだ。何をやってもうまくいかない。顔も悪い、頭も悪い、運動神経もない。なにもないだけがあった。
学校でも社会に出てからも友達もできたこともないし恋人などは論外だ。
親が悪いのだ。
父はギャンブル三昧、借金だけ作って逃げ出した。
母は父親のようになるなと何度も俺に言い聞かせ、勉強を強制した。俺は頭がよくないのに。父も母も頭はバカないのに、俺が頭がいいわけないだろう。
どちらも俺に愛情のかけらも注がず、いや、そもそも愛情が何なのかも知らなかったのだ。
当然、俺も知らない。
仕事も転々とした。
ロクなことはできないから、当然底辺の仕事ばかりだった。
誰にでもできるような、その底辺の仕事の、何をやっても俺はグズで上司に媚を売ることもできなかったし、同僚とも打ち解けることができなかった。
呼吸をして飯を食ってクソをするだけの人生だ。
きっかけは、忘れた。
通りすがりの高校生のカップルにすれ違いざまに笑われたのがそうだった気がするし、十も若い同僚に「堤さんみたいになりたくないッスね」と冗談めかして、だが本気の目で言われたことだったのかも知れない。
どうでもいいことだ。
時間の問題だったのだ。
こうなるのは。
でも、だからといって。
そう、だからといって、
たまたま夫の出勤を見送る幸福そうな一家を見かけたからといって、
その瞬間、俺の中の何かが切れて、
包丁を買って戻っていなかったら止めようと思って、
いるわけがないと俺は思ったんだ。
そんな偶然はない、だからこの包丁を使うことはないと。ちょっとした悪い冗談、いたずらみたいなものだと。
きっと俺は引き返してクソみたいな一生を過ごすのだろうと。
でも俺は自分がすさまじくツイてないことを忘れちまってて、
二人が外出するときに出くわしちまって、
だからといって、
たまたま幸福そうな一家を見かけたからといって、
俺は目の前が真っ赤に、真っ暗になった気がして、
何で俺が、俺だけがと俺はでかい声で叫んで、
びっくりした母親が俺をやっぱりバカにしたような目で見て、
俺は手が砕けそうなほど固く包丁を握りしめて──
俺は何てことを──
何てことをしてしまったんだ。
俺は私の手で私の最愛の妻と俺の大事な大事な世界で一番大事な娘を殺して殺して殺してしまった。
「許してくれ……」
俺はその場にひざまずいて、許しを乞うた。
まわりの記者は黙ったまま冷たい目で俺を見つめている。
「頼むから……もうこんなのは嫌だ……」
涙で視界がゆがんでいる。
俺は涙を流しながら、地面に身体を投げ出して、ただひたすらに同じ言葉を繰り返していた。
「そろそろ時間だな」と、記者の一人が時計を見ながら言った。
急速に目の前が暗くなっていった。
◇
二人の刑務官がモニター監視の業務についている。
若いほうの刑務官が不満げな表情で、
「しかし政府も弱腰ですよねぇ。死刑廃止なんて、いくら国連にいわれたって気にすることないのに」
「そうもいかんのさ。なにせあのアメリカさんが廃止したからにはな」
頭の半分は定年以後の生活を思い浮かべているような刑務官が、コーヒーカップになみなみと注がれたコーヒーを一口すすって答えた。思ったより苦かったらしく、顔をしかめる。
「こいつなんか、自分が報われないからって他人を殺すような最低なやつですよ。特に五才の子を殺すなんて……」
目の前のモニターを睨みながら、若いほうは憤懣やるかたないといった態だ。
モニターのなかでは、男がベッドに横になっていた。
頭にはヘッドギア、他にもやたらと線が身体中についていて、かたわらの機械につながっていた。
「しかし、死刑の代わりに仮想現実で自分が起こした事件を追体験させるなんて……効果あるんですかね」
20XX年。国連から度重なる死刑廃止の勧告を受けた日本政府はついにその要求に屈した。
その後に起きたのが堤康夫による関口家母娘殺しである。
彼の理不尽な理由による殺人は世論の激昂を呼び、政府は終身刑以上の刑を作らざるを得なかった。
それが仮想現実による被害者家族の追体験である。
堤康夫は、その刑の被執行者第一号となった。
「終わったようですね」
ブザー音に若い刑務官が反応した。モニターを見て、異常がないのを確認する。刑の執行が終わったのだ。
「次は一週間後。被害者の父か」
年長の刑務官は、コーヒーを飲んでまた苦い顔をした。今度は味のせいだけではないらしい。
「俺にも孫がいるからな。気持ちはよく分かる。同じ立場になったらと思うと、ぞっとするよ」
「三食つきで病気になってもすぐに診てもらえる。そんな生活すらできない人が今のご時世、どれほどいることか。ヘッドギアをつけるだけでその生活ができるんですからね。本当に反省してるのか分かりゃしない」
若い刑務官が吐き捨てるように言った。
「僕に言わせりゃ、最高の刑罰ですよ」
◇
私は目覚ましがなる前に止めると、大きく伸びをした。
「あら、おはよう。まったく、この日だけは起きるのが早いんだから」
妻が食卓に着いた私に苦笑まじりの笑顔を向けた。
今日は一人娘の由紀の家に行く日だ。
正直、売れない役者と付き合ってると聞いたときはどうなることかと思ったが、何とかやってるようで、一安心しているところだった。
それに、そう、初孫の亜美。
亜美が可愛くて仕方なかった。まわりからはあまり甘やかすなと言われるものの、それは無理な相談だ。「じいじがきた!」と叫んで駆け寄ってくる亜美に甘やかす以外のどんな選択肢があるのだろう。
目に入れても痛くないとはよく言ったものだ。
しかし、どうも最近、嫌な気がしてならない。
何か嫌なことが起こりそうな予感で胸がつぶれそうなのだ……。