5.或る二人の結末
本編完結です。
「アンネリーゼ姫」
そう呼ぶ人間は一人しかいない。今も、昔も。懐かしい響きに朱音は少し泣きそうになった。
「今だけ、そう呼ばせてほしい」
「……はい。ラモン様」
正面に向き合った男の顔を改めて見つめるとその瞳が黒々とした闇色だと気づく。こんなところも変わっていない。
「お話とはなんですか」
なんとなく、呼び方からして過去の話だろうということはわかった。でも、内容はめっきり思いつかない。それに祀はその話題を避けていたはずだ。だから不思議な気持ちで尋ねた。
「ずっと言いたかったことがあったんだ。でも、俺がそれに気がついた時にはすでに君はもう……。失って、初めて気づいた」
普段は凛々しい姿の祀がだんだんと俯いていくのを見て朱音の胸は疼きを覚える。そんな悲しい顔をしないでほしい。そう思って慰めるように言葉を探した。
「あれは、仕方なかったのです。あなたは何も悪くない。私は何が起こるのかわかっていてあそこに留まっていた。でも私はそれでよかった。だからあなたも気に病まないでください」
「それじゃ俺がダメなんだ。俺が君に許されたい」
「許す? 何を許すというのですか?」
「君を手にかけたことを………………君を、愛してしまったことを」
「え……?」
思ってもみない話に朱音は目をぱちくりとさせた。ややあって、朱音は自分のことではなく、アンネリーゼの話だったことに思い至る。そうか、アンネリーゼは愛されていたんだ。前世でたったひとり、大事に思っていたその人に。
──私は、アンネリーゼは、幸せだったのだ。
「……許すも何も、初めから怒っても恨んでもいません。あなたは、私の唯一でしたから。そう言ってもらえて、アンネリーゼは幸せです」
彼女は確かに今、報われた。生まれた意味も生きている理由も見つからなかった彼女に、ようやく意味がついた。彼に愛されるために生まれたのだと。朱音は泣いてしまいそうだった。しかし祀の次の言葉に涙は出かかり止まる。
「……じゃあ、俺が今も君を愛してると言ったら? いや、俺は君を愛してる。ずっとそばにいて欲しい。これから先、同じものを見て生きていきたい。あの頃の俺達にはなかった未来を、二人で歩きたい」
祀の目は真剣だった。冗談の欠片も一切なく、茶化してる様子もない。過去に浮かされているのかとも思ったが、その目ははっきりと朱音を見ている。
「……待ってください。あなたも私ももう過去は終わったのです。私たちはもう孤独じゃない。二人でいる理由もない。結ばれる必要もないのですよ」
そう朱音が告げると、祀は苦しげに呻いた。
「わかってる。……わかってるよ。君はもうアンネリーゼじゃない。アンネリーゼの記憶を持った違う人だって。俺だってラモンじゃない。でも、どうしても君が欲しいって心が言うんだ。君がそばにいないと、苦しくてたまらない」
胸を掻き抱くようにして言葉を吐き出す祀の姿に、朱音は胸が突き刺されるような痛みを感じた。
この人を、苦しませたくない。そう強く思った。
──ずっと、思っていた。もし、私がアンネリーゼではなく、忌色の姫でもなく、ただの王女で、ラモン王子と普通に結婚できたなら。
どんなに、幸せだっただろうと。
けれどそれは現実には叶わない願いだった。だからアンネリーゼは願ったのだ。自分のいない世界で、ラモンが幸せになること。せめて、自分が好きになった人だけでも、幸せになって欲しかった。
「……君は俺の幸せを問うたよな」
「はい」
「俺の幸せは君とともにある。今も昔も」
朱音はその強い眼差しに目を背けることは出来なかった。そして、心の底に沈めていた思いをなかったことにしてしまうことも、もはや出来そうになかった。
「……これはきっと、私がかけた呪いなのですね」
「そうだ。だから君がそばにいて、その呪いを叶えてくれ」
朱音は夕日が照らす坂道を歩いていた。隣には祀がいる。二人の間には繋がれた手。
「綺麗だな」
「そうですね、私は夕日が一番好きです」
「いや、朱音が」
「え? な、何言って……」
「ずっとそう言いたかったんだ。あの頃も今も、君は綺麗だ」
「……ラモン様って、そういうこと言う人だったんですね」
「昔は言えなかっただけだ。立場的に。それに今はラモンじゃない」
「あっ、そうでした。藤宮……さん?」
「なんで名字でさん付けなんだ。祀って呼べ」
「祀……様」
「様もダメだ。だいたいなんで様だ」
「え、だって、その呼び捨てなんて畏れ多いというか」
「いいから祀って呼んでくれ。君に呼ばれるならこの名前も好きになれそうなんだ」
祀り。意味、まつりあがめる。人の上に立つべく付けられたその名前が、祀はずっと好きじゃなかった。
「そうですか? 私は好きですよ。お祭りは赤い提灯が並んで綺麗ですからね」
「そうか……君がそういうなら、夏休みには一緒に夏祭りに行こう」
「わあ! 本当に!? 嬉しいです。楽しみです!」
あの頃とは違った初めて見る喜びの表情に祀の顔は自然と笑みを作る。そんな祀に気付いた朱音は夕日に負けないほどに頬を赤くした。
「子供っぽいと思いました?」
「ううん、可愛い」
「またそんなことを言って!」
今度は違う意味で赤い顔をしている朱音に祀は愛しさが止まらなかった。ぷりぷり怒る彼女も可愛いが機嫌を損ねたままでは嫌なので、祀は話題を変える。
「この国では朱は魔除けの色らしいな」
「そうみたいですね……不思議なものです。あの国では、忌色だったのに……」
「この国でも血の色というのは変わらないが、恐ろしいものほど崇め奉ってしまおうというその精神は、極めて興味深いよな」
「……はい。そんな国に生まれてよかった」
「そうだな。こうして誰にはばかることなく君と歩ける」
そこにいたのは、暗い影のある王子でも、忌み嫌われた姫でもなく、ただ普通に生まれ、育った二人の男女だった。
「で、君はいつになったら敬語がなくなるんだ?」
「え? なくさないといけないのですか?」
「むしろこのままでいるつもりだったのかとこっちが驚きなんだが」
「えっと……それは……」
「このままでいるつもりだったんだな」
言い淀んだ朱音に、祀はふうと大げさにため息を吐いて恨めしげな視線を向けた。
「もうそんな必要はない。お願いだから、もっとそばに来てくれ」
それは哀願だった。朱音はうっ、と言葉に詰まると頷いた。
「……でも、徐々にということでは」
「いいよ。徐々に、ね」
心も体も、もう二度と離れられないのだから。
まるで磁石のように、二人の未来は今、ぴたりとひとつに重なった。
短い間でしたが、ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました!
このあとおまけを更新して終わります。