4.残光
二人がそばにいられた時間は瞬きの間と言っても過言ではないほどに短いものだった。限られた回数と時間で積み重ねたものはさほど多くない。
ただどこまでも孤独だった彼らが心を共鳴させたのは、無理からぬことだった。
端正だが無愛想な男が持つには些か愛らしすぎる薄紅の花を差し出された時の気持ちといえば、喜びよりもまず可笑しさが先立った。
流石に失礼だろうとこみ上げる笑いを我慢していたけれど、そんな彼女のことなどお見通しだった男は眉根を寄せて「いらないなら、いい」というものだから、彼女は慌てて……。
「ありがとう」
と、受け取ったのは花ではなくただの消しゴム。フラッシュバックした光景はここにはない。ここにいるのは、王子ではなくただの藤宮祀という男と、姫ではなくただの豊海朱音という女だけ。
二人の関係はごく普通のクラスメイトであり、今は生徒会役員とその補佐という役割だけ。
黙々と作業を進めるだけの気まずい時間が二人の間を流れていく。
「今日はここまでにしよう」
「いえ。まだ仕事が残っています」
「……そうだな」
先程から何度も朱音を見ては何かを言いたげにしている祀に朱音自身気づいてはいた。けれど、こちらから話しかけるのは躊躇われた。朱音は必要以上に声をかけるつもりはなかった。だってあれだけ過去を忌避するような態度だったのだ。姫の記憶を持っている自分がそばにいることだって本来なら避けたいのかもしれないと。だから祀が何も言わない限り、二人の重い沈黙は続く。
朱音は少しだけ懐かしい気持ちになった。あの二人が出会った当初もこういう重苦しい沈黙が続いたこと。立場が違いすぎた二人には共通の話題がなく他愛ない会話くらいしか出来なかった。そもそもお互いに話して聞かせるような話題がなかったのだ。
それでも少しずつ、王子の持ってきた花や、姫が読んだ本の話をぽつりぽつりと交わして、距離を縮めたこと。沈黙がやがて苦にならなくなっていったこと。
──今はもう望めない過去の、話だ。
朱音は祀の怜悧な横顔を見つめ、寂しいと思う気持ちをそっと心の中にしまいこんだ。
「やあ、調子はどうだい。我らが生徒会長殿」
そうやって祀に話しかけてきたのは前の生徒会長であり今は調理部の部長を務めている男だった。
「まあまあですよ、会長」
「おや、今の会長は君だろう?」
「異例の退任で今は楽隠居じみた生活を送ってる人に言われたくないですよ」
「そうかい? 僕は人を見る目には自信があってね。自分より優秀な人材がいればそちらに道を譲るのはそうおかしいことでもないだろう?」
「……どうだかな」
食えない笑みを浮かべた前会長に舌打ちでもしそうな雰囲気で言い返す祀だが、軽口を叩くくらいにはこの男に気を許していた。
「ところで悩める若人はこんな人気のない場所でどうしたんだ? よければ年上の僕にひとつ相談してご覧よ」
祀は前会長の人の機微に聡いところを尊敬していたが、また逆に嫌ってもいた。お節介焼きを自称する男がこういうことをするのは珍しいことではない。
カリスマオーラめいたもので勝手に人がついてくる祀とは違い、人に寄り添うことが上手く、人望で選ばれて会長になった男には今のところ適いそうになかった。
「……はあ」
「んんー、そのため息はもしや恋の悩みかい?」
さっくり図星をつかれ、思わず出そうになった嗚咽を無理やり飲み込む。
「……どうしてそんなに楽しそうなんですか」
「どうしてって、簡単だよ! 恋の悩みは人を弱くも強くもする。思ってもいない本性が飛び出すのが恋ってやつなのさ。ましてや君のような完璧超人の隠れた本性が気にならないやつはいない」
自分こそ恋をしても本性のひとつも出そうにない前会長の言葉にいまいち説得力のなさを感じつつ、見た目と違う押しの強さを知っている祀は素直に吐いた。
「手の届かないひとが、いるんです」
「……ほう。それは物理的に? それともメンタル的に?」
「どちらかと言えば、メンタル的に」
ある意味、物理的にも届かないといえば、届かないのだが。姫はすでに過去の人だ。
「おやまあ。無敵の生徒会長サマにもそんな相手がいるとは」
「茶化すなら帰ります」
「いやいや、すまない。そんなつもりはないよ。でもどこから見ても無敵な君が届かないなんて一体どんな高嶺の花なのか、想像出来なくてさ」
「俺は、その人に一度、取り返しのつかない仕打ちをしているんです」
「……過去に関係のあった人なのかい?」
「……はい」
「で、その人との復縁を望んでいる、と」
「まあ、端的に言えば」
「なら答えはひとつしかない」
「なんですか?」
「まだ君が好きなんだと、伝えるだけだよ」
「それだけ?」
「ああ。答えは相手が決める。君を許せなければ断られるだろうし、許したいと思っているなら受け入れてくれるだろう。君は出された答えを素直に受け入れるだけだ」
「振られたらあっさり諦めろ、と」
「当然だ。君は許しを乞う側なのだから」
「それは、なんていうか勝ち目のない勝負に挑んでいるようですね……」
「ははは。負け戦上等じゃないか。いつも勝ち組の君が無様に負けるさまを見てみたいとすら思うよ」
「傷に塩を塗るようなことを言ってくれますね」
「まあね。それに僕は知ってるからさ」
「何をですか?」
君が、負けたりしない、ってこと。
なんの根拠もなくそう言い切った一つ年上の先輩に苦虫を噛んだような顔をした祀だったが、不思議と反論する気にはなれなかった。
その言葉を信用したわけではないが、否定してしまえるほど強気でもないのだった。