3.残影
「じゃあ豊海はこの書類を順番毎にホチキス止めしてくれ。俺は足りない分の書類をコピーしてくる」
「わかりました」
他の役員が出払った生徒会室で黙々と作業を進める。茜が射す教室は物悲しいノスタルジックな雰囲気に満ちている。朱音は夕日が好きだった。どうして自分の髪と同じ色なのに、こんなにも美しく、綺麗なのだろうと思う。
朱音、と自分の名前の由来を知った時、なんて皮肉なんだろうと思った。両親はこの髪にちなんでその名をつけたのだと笑っていたけど。天然で珍しい髪色を気味悪がるどころか、長所として愛してくれる両親に感謝が尽きない。
早く恩を返したいと思う彼女の心とは反対に、どんどん自立していこうとする娘に一抹の寂しさを両親が感じていることなど彼女は知らなかった。
「祀くん! ……は、いないみたいね」
「今は職員室でコピーしてますよ」
「そうなの。ね、豊海さん……」
突然現れた斑目ひまりは朱音の苦手なタイプだった。天真爛漫でズカズカと人の心に踏み入ってくるような無邪気さが怖かった。その目は知りたくない自分の胸の内まで探られているような気がする。
「違うとは思うけど、一応聞いておくね?」
「……何をですか」
「豊海さんって祀くんのこと、好きじゃないよね?」
──ああ、五月蝿いなぁ。
ひまりの声のことではない。自身の胸の音だ。ざわざわ、ざわざわ。嵐の前の静けさにも似たざわめき。
私が好きだったのは、彼じゃない。
それは一体誰に言い聞かせるためだったのか。朱音は気づいていない。
「会長は、素敵な人だと思いますけど、お二人のことを邪魔するつもりはありませんよ」
校内で有名な噂を朱音も知っていた。だからひまりが牽制してきた理由もなんとなくわかる。自分の好きな相手が違う女と二人きりでいるのだ。気にならない方が嘘だ。
だから朱音は正直に答えた。王子の面影を残した祀は、彼女にとってどうしたって特別な人間だ。でもそれは朱音だけの思いであってひまりには関係ない。祀がひまりのことをどう思っているかは知らないが、その邪魔をするつもりはなかった。なにより、朱音自身、祀とどうなろうという想像すら出来ないのに邪魔など出来るはずもなかった。
ただ自然に祀の名を呼んだひまりを、少し羨ましく思う。その距離にある二人を。そう呼べるひまりの明るさを。
「おい、何サボってる? そっちは終わったのか、斑目」
「あ、祀くん。違うよサボってたんじゃなくて報告しにきたの。いなかったからちょっと雑談してただけ」
「……そうか。で、そっちの進捗は?」
「とりあえず今のところ問題なし、塚本くんの方に人員が足りないみたいだから手伝いに行こうかと思ってるんだけど、大丈夫?」
「ああ、そこらへんは各自でうまく調整してくれ。またこまめに報告頼む」
「うん、じゃあまたね」
意味ありげに朱音を見るとひまりは綺麗な黒いロングヘアーを靡かせて去っていった。その後ろ姿を見送ると朱音は止まっていた手を再び動かす。
「……なんの話をしていたんだ?」
こうして祀に声を掛けられるのは初めてだった。指示でも指摘でもない言葉は、今世では初めてのこと。
「なんでも。ただの雑談です」
思っていたよりも素っ気ない言葉が出た。
「俺には言えないことか?」
「というより、いうほどのことでもないです」
「君は……昔からそういうところがあるよな」
「え……?」
今の二人に昔からと言えるような時間の経過はない。祀のいう昔が意図するものに思い当たることはひとつしか朱音にはなかった。
「まさか……」
驚いた彼女を見て祀もまた驚いた顔をする。
「覚えて、いるのですね……」
「……君も覚えているのか」
朱音にとってそれは僥倖だった。半分は諦めていた気がかりの答えを得ることが出来るのだから。
「あの……あなた様は、お幸せになれましたか?」
祀にとってそれは奇禍だった。再会からようやく邂逅して、やっと言葉を交わした少女から再び呪いの言葉を聞くことになろうとは。
「そんなこと、聞いてどうする?」
祀は絶望にも似た思いで聞き返した。自分の末路は今更話したところで楽しいものではない。彼女の願いも叶えられていない。そもそも彼女がいなくては成立しないのに、それを知らず、己の幸せを今も願おうとするとは。
急に雰囲気の変わった祀に戸惑い、朱音はつい俯いた。触れてはいけないものに触れたのだと思った。
「どうも、いたしません……。申し訳ありませんでした。私が尋ねてもいいことではありませんね」
ただの同級生には使わないだろう敬語を使い、今にも頭を下げそうな朱音に慌てたのは祀の方だった。
「気にするな。簒奪者の最期なんて聞いても面白いものじゃない。君は奪われた側なのだから尚更」
「いいえ……差し出がましいこと聞いてしまい誠に申し訳……」
「やめろ! ……っ、すまない。俺たちはもう、昔とは違うんだ。今はただのクラスメイトだろう……そんな話し方は不自然だ」
「あ……そう、でしたね。すみません……」
「謝るな……君は何も悪くない。何も悪くないんだ……」
こうして一度目の過去との邂逅は二人に苦い思い出として残り、終わった。
朱音はこう思った。王子は、いや藤宮祀は、もう過去のことを自分などに触れられたくないのだと。ならばやはり彼の幸福の行方は、自分の知る由のないことなのだと。不幸の象徴のような自分などは彼のそばにあるべきではないのだと。
一方の祀は自分の失敗に頭を抱えていた。いくら自分の一番弱い部分を、一番触れられたくない相手に触れられたのだとしても、あの態度は間違っていた。自分は、彼女に今世もそばにいてほしいと思っていたのに。
そして二人は、ああ、と。ため息を漏らす。
どうしてこの胸は、こんなにも痛むのだろう、と。
やり場のない思いに二人は懊悩する。矛盾と焦燥を抱え、それでも望むことさえできなかった未来を夢に見て。