2.残像
彼女には大切な人がいた。家族に恵まれず、周囲にも恵まれなかった彼女が唯一、心を傾けた人。彼女はあまり人を知らず、心を知らなかったせいで、自分の持つ感情をちゃんと理解出来ていなかったが、そんな彼女がたったひとり大切だと思った人。
その人のためなら命を投げ出すことだって構わなかった。むしろそうすることで彼が救われるのなら、彼女は喜んで命を差し出した。
そして、最後にその人の幸せを祈った。
純粋に。なんの見返りも、なんの思惑もなく、ただ祈った。それはいっそ盲目的だった。祈りよりも呪いと言った方が相応しいくらいに強く。ひたすら純真に。
赤黒い髪が目に入る。長く伸ばした前髪はこうして時折彼女、豊海朱音の瞳に突き刺さる。痛いと、ぼんやり思い、あと少し伸びるのを待とうと思う。前世とさほど変わりない容姿はこの世界だと少し浮く。
小学生の頃にそう学んでから彼女は素顔を晒して生きるのをやめた。前髪を伸ばし眼鏡をかける。いじめの対象になることもあったが、親に報告し、改善がなければ転校し、改善があれば皆腫れ物を触るように接してきた。
二度目の生を生きる彼女は以前よりも格段に逞しい神経をしていた。
誕生のころより前世の記憶を持っていた彼女は、前世というよりも前回の人生の続きを歩いているような気持ちだった。だから前世の後悔も辛さも我が身のように覚えているし、一度死んだのだから、次は簡単に死にたくはないと貪欲になっている。
そういうわけで彼女にとってこの世界は以前より、ずっと安全で、ずっと発達していて、理想の楽園と言ってもよかった。しかしそんな楽園に落日が訪れたのは、自然の摂理だったのかもしれない。
私立の進学校、遠凪学園は自身の目指す将来に有利に働くと思い入学した。入学早々、思わぬ出会いがあることも知らずに。
藤宮祀──かつての名とは似ても似つかぬ、今の彼の名前。彼が、あの王子だと一目見てすぐにわかった。容姿は以前と変わっていたが、タイプが違うというだけでやはり整った顔立ちをしている。
彼はあのころと同じように今も優秀なようで、選ばれたものだけが立てるところにいた。羨ましいとは思わなかった。ただ出来損ないだった自分とは違い今もなお、人の上に立つ人なのだと認識しただけだった。
気がかりがあるとすれば一つ。
──彼は自分の死後、きちんと幸せになれたのだろうか。
死にゆく女の戯れ言など彼は切って捨てたかもしれない。でもどこかで甘さを残した人だったから、心の片隅にでも『私』の言葉が住んでいたかもしれない。そして、幸せになったかもしれない。
どうしたって知ることの出来ないはずの答えを持っている人が目の前にいる。
朱音はもし、機会があれば、聞いてみたいと思った。相手に記憶があるかどうかはわからなかったけど、そのときはそのときで諦めればいいという気持ちで。
けれども朱音のそんな考えはすぐになくなった。お互いのいる場所があまりにも遠かったからだ。一年で生徒会入りした彼は部活動でも注目されるようになり、そもそも容姿がいいので女子はひっきりなしに彼の周りにいた。おまけに彼は多忙だった。
上記に加え、家の勉強もしていると聞けば、おいそれと近づくことも出来ない。彼が抱える役割が多すぎる。こんなくだらないことで彼の貴重な時間を奪うわけにはいかないと思った。
二年になって同じクラスにはなったものの状況的には変わらないどころか、朱音も進路のことなどで忙しくなる始末。気にはなるけれども、知らなければ生きていけないわけでもない。
そう自分に言い訳をして、彼女はひっそりとその願いに蓋をした。
「豊海さんは綺麗な赤い髪をしているね」
そう言ったのは、彼女が数少ない友だちに誘われて入った調理部の部長だった。男らしい大柄な彼は見た目に反して繊細で優しい味の料理を作る。
一人暮らしする際に役に立てばいいと軽い気持ちで入った朱音にも親切で、寡黙すぎて浮いてしまう彼女も自然に馴染むことが出来た。それはこの部長の人柄のおかげだろう。
「気味が、悪くないですか?」
もうずっと、長いこと言われていた。それこそ生まれるよりもずっと前から。そんなことを思いながら答える。
今世でも彼女の髪はパッと見は黒いのだが、よくよく見ると赤く光るのだ。光に透かしたりしなければ黒く見えるので気づく人間が少ないのは救われている。
「どうして? 綺麗でいいじゃないか」
「……そう、ですか。ありがとうございます」
「あ、そうだ、今日はマドレーヌを作ってみたんだ。一つどう?」
「いただきます。じゃあ私が紅茶入れますね」
調理部は自由出席のため参加人数はいつもまばらだ。今日は二人きりでのお茶会となった。朱音が持ち込んでいた市販の菓子も広げてるとなかなかいい感じにティーパーティーっぽくなっていく。
「豊海さんって良いとこのお嬢さんなのかな」
「え?」
唐突な質問に朱音は戸惑う。
「いや紅茶を飲む仕草がいつも優雅だなぁって思っててさ」
「普通の一般家庭ですよ」
「そうなんだ。じゃあ親御さんの躾がいいんだね」
違う。とは言えなかった。彼女に染み付いたその仕草というのは姫だった過去に得たものだ。前世の記憶があるなど誰にも言えない。もし言えるとしたら同じように記憶がある人だけだろう。……彼は、どうなのだろうか。
ふと心に浮かんだことを頭から振り払うと、残っていた紅茶を一息に飲み干した。
「すまない。急に人員が必要になってしまって。補助メンバーには一人ずつ役員が付く。二人一組のペアになって体育祭の準備に当たってくれ」
キビキビと指示を出す藤宮祀を見ながら朱音はどうしてこうなったのか考える。
今朝、ホームルームで担任が来月に予定している体育祭に大規模な不備が見つかったことを報告した。その遅れを取り戻すために成績上位者の何人かが生徒会の補助として駆り出されることになったという。
それにたまたま前期の成績が良かった朱音も選ばれた。ここまでは仕方ないと思うことも出来た。選ばれたのが自分の他にも何人かいたから。
体育祭はこの進学校ではあまり重要視されてはいないが、スポーツ系の部活に所属しているものたちには数少ない校内での活躍の場だ。中止するわけにはいかないだろう。それもいい。
──が。何故。
「じゃあ短い間だが、よろしく頼む」
「……よろしくお願い、します」
藤宮祀、その人とペアを組むことになったのか。朱音には理解出来なかった。