鍔鳴り善兵衛
寛政二年七月。
天明の大飢饉に対する失策により老中田沼意次は蟄居の末、鬼籍に入っていた。
後任の陸奥白河藩主松平定信の手腕により、ようやく天明の飢饉に対する本格的な対策が穂を実らせ始めた。その頃である。
天領、駿州の安倍郡に中之郷と云う村があった。
寺社の荘園に端を発するこの村落の外れで、それは起こった。
駿河奉行所の与力、同心合わせて十四人が斬殺されたのである。
しかも死因と見られる太刀筋は一様で、すべて右肩から逆袈裟で斬られていた。
検分の結果、十四人とも抜刀はされていたのだが十手は懐にあった。
天領である駿州の奉行所の面々が十四人も斬られたとあっては、お上、即ち幕府が笑い者になる。
この事件は老中松平定信に重く受け止められて、江戸から十人ばかりの手勢が派遣された。
そうなると老中の支配である奉行所の面子は潰されたも同然である。
当番、非番問わずに同心は駆り出され、臨時雇いの岡っ引きまで雇い入れての大騒動となった。
事件から三日後。
若い同心、竹井善兵衛は中之郷村から四里ほど西、安倍川の河原で青空を仰ぎながら握り飯を食らっていた。
何ともやる気のないことである。
元々この善兵衛、読み書き算術を買われて仕官が叶った男である。以来三年もの間、黙々と、文机に向かう毎日を過ごしていた。
その様な男なのだから、幾ら奉行所総動員とは云え、ろくに町歩きもしない善兵衛にとっては、足を酷使する捜索は苦痛でしか無いのである。
故の職務放棄であった。
「鍔鳴り、働けよ」
二年先輩にあたる同心、杉本玄代がごちる。
この杉本玄代は、善兵衛とは正反対の評価を受ける男である。
善兵衛が五尺六寸ほどの枯れ木同様であるのに対し、杉本は六尺二寸の偉丈夫だ。
剣の腕前は奉行所随一と謳われ、一刀流は免許皆伝、抜刀術も目録まで修めている達人である。
涼しげな目と通った鼻筋は女子を魅了し、所帯を持つにも関わらず恋文を貰った数は、百から先は数えていないと云う。
惜しむらくは、既に四十路を超えていることであろうか。
この杉本玄代、何かにつけ善兵衛を構っては遊んでいる。
役所勤めと云えども武士は武士。読み書きだけで人が斬れるかと、善兵衛は事ある毎に杉本に揶揄されていた。
「いつまで休んでおる。とうに飯は済んだであろうが」
「火急の事が無い限り、飯のあとは四半時は動かぬ習慣でござれば」
「呆れるな。今はその火急の事が起きているだろうが。十四人だぞ、十四人。相当の手練れの仕業に違いない」
杉本の文句を耳に入れては流しつつ、善兵衛は安倍川の水面を見つめている。
「貴様と云う奴は。だから鍔鳴りなどと呼ばれるのだ」
実際に善兵衛を「鍔鳴り」と呼び始めたのは、杉本であるのだが。
善兵衛は扶持が少ない。つまり貧しい。腰に差した大小の手入れもままならない。
故に、拵えが甘くなった打刀の鍔も緩んでおり、歩く度にしゃりしゃりと鳴るのである。
それに加え、善兵衛は臆病であった。下手人が短刀を抜けばびくっと震え、鍔が鳴る。
要は、鍔鳴りというのは蔑称なのである。
「銭が無ければ、鍔でも鳴らして気を紛らす他は無いでしょうに」
掴み所のない、何とも捻くれた返しである。
「わかった、抜け。この場で叩っ斬ってくれるわ」
実際杉本は抜刀しておらず、口調も冗談めいてはいるが、目は笑っていない。
「はあ、わかりましたよ。私まで斬られたくはないですからね」
「ふん。分かればいい。さっさと行け」
善兵衛は、追い立てられて河原を後にした。
「なあ、鍔鳴りよ」
枯れ枝の様な善兵衛の後を、大木の如き杉本が追う。
「もし俺が連中を斬った下手人だとしたら、お前はどうする」
「まず逃げますな」
間髪入れぬ即答に、杉本は高笑いを上げる。
善兵衛は、そんな杉本を訝しげに見ていた。
ー ー ー
事件から五日。
杉本玄代が駿府の城下町から消えた。
ー ー ー
既に薄暮だった。
中之郷村での聞き込みの帰り、善兵衛は氏神を祀る小さな神社の境内に腰を下ろして休んでいた。
これから奉行所に戻ったら、もう暮六つ(18時頃)を過ぎてしまうだろう。
かといって慌てないのが善兵衛である。昼時に飯屋に拵えてもらった包みを膝に置き、握り飯を頬張り始める。
神社に来たのは、実は手水舎の水が目当てである。
握り飯をかじり、手水舎で汲んだ水で流し込む。
それを繰り返す。
社の中でごとりと音がした。鼠か、それを追い掛ける猫だろう。
普段ならそれで片付けてしまうのだが、善兵衛は立ち上がり、社を覗く。
目が合った。
瞬間、善兵衛は腰から崩れ落ち、社から転げて地面に突っ伏した。
社の中から巨躯を折り曲げながら男が出て来た。
「す、杉本殿……か」
地面に這い蹲ったまま、善兵衛は社から出て来た男を見据える。
「鍔鳴り……手柄が欲しいか」
「まあ、欲しいと云えば欲しいですな。扶持も増えるやも知れませんので」
「ふん、お前ならその程度か。所帯を持たぬ奴の強味だな」
「まあ、そうですな」
社から出て来た男は、やはり杉本玄代だった。
高床造りの社から善兵衛を見下ろすその姿は、世が世なら己の力で這い上がり戦国大名になれるのでは、と思わせる程の迫力を放っている。
「鍔鳴りよ、聞いてくれるか」
「私で良ければ」
「俺はな、許せなかったのだーー」
杉本玄代は、所謂「御目見得以下」と呼ばれる下級の御家人の四男であった。家は三十俵二人扶持。貧しかった。
貧しさを憎んだ幼い杉本は銭を盗んで、その銭で道場に通い詰めた。
体格に恵まれたこともあり、道場では敵なしとなる。
その後、剣の腕前を買われて仕官を果たすも、そこで杉本は現実を知った。
そこは、個々の能力よりも家柄がものを云う世界。杉本がどんなに優れていようとも家柄だけの無能な上役に手柄を取られてしまう。
「鍔鳴りよ。俺は口惜しかったのだ。俺よりも無能で弱い輩が家柄だけで上役に収まっているのが。俺は、そんな状況で我慢してきたんだぞ。五年もだ」
握り締めた杉本の拳の隙間から血が落ちる。
「だから斬って捨てた。奴等がいる限り出世は無い。だが」
そこで杉本の語気が柔らかくなった。
「だが、違った。奴等が消えた途端、お上から人が寄越された。つまり、俺に未来は無いんだ」
言い分は分かる。悔しさも解る。だがしかし。
「やはり無為な殺生は良くないです。杉本殿がそうである様に、斬られた方々だって生まれる家を選べなかったのですよ」
生まれ落ちた家の貧富、貴賎の差は如何ともし難い。
だが、それは他の身分の者も同様だ。
特に武士は、百姓に食わせてもらう身分である。
武士であること以上の出自を望むのはお門違いなのだ。
少なくとも善兵衛は真面目にそう思っている。
だが、その理論は目の前の半人半鬼には通用しまい。
「ふん、詭弁だな。お前も俺と同類だろうが。読み書き算術は全てお前に押し付けられ、その間奴等は大店に袖の下をせびる有様。謂わば俺の行いは粛清だ」
更に杉本は饒舌に語る。
「老中様も言っておろう。倹約に努め、公明正大を旨とすべしと。奴等のやってきたことは前老中の田沼と何ら変わらん」
善兵衛は肩を落とした。
「……そんなに田沼様はいけませんか」
「いけないな。奴は金も権力も欲した。あんな奴の治世では、金も家柄も無い俺には浮かぶ瀬も無いのだ」
元より沈んだ目をした善兵衛の瞳から光が消えた。
「ーーあんた、駄目ですね」
「なっ……」
突然善兵衛の纏う空気が変わったことに杉本は僅かな戸惑いを見せた。
が、それは善兵衛の次の言葉で霧散した。
「あんたは自分のことばっかりだ。あんたこそ欲の権化にしか見えない」
怒りに震えて杉本の形相が変わっていく。あとは角が生えれば、本物の鬼である。
「鍔鳴り。そんなに斬られたいか」
「無理ですね。あんたには」
「そうか。ならば試してみろ。命を賭してな」
身を屈める杉本を見て、すぐに善兵衛は立ち上がった。
「本当はな、俺はお前を斬りたくないのだ。ただお前は全てを知った。故に、斬るっ」
だんっ、と社の床板を蹴る。
跳躍で一足飛びに間合いを詰めた杉本は、着地の瞬間に大刀の柄に手を掛け、鯉口を切る。
一閃。
勢い良く飛び出した刀身は鋭い斬撃となり善兵衛の首筋にーー
「なっ!?」
杉本の抜刀が首に届く前に善兵衛は身を捩りながら半歩引いた。杉本の大刀は何も無い宙を泳いだ。
多少の驚きを見せたものの、流れんばかりの動きで杉本は上段の構えに移行、先程よりも速い斬撃を善兵衛の右肩目掛けて袈裟懸けに振り下ろす。
斬られた十四人の身体に残った太刀筋と同じ軌道である。
だが。
「……お前、何者だ」
杉本の渾身の斬撃は善兵衛が身を捻った動作だけで躱された。
「杉本殿、奉行所で全て話してください」
「たわけっ、もう後には引けぬわ」
じっと杉本の目を見る。
その目は赤く血走り、瞳孔は開いていた。
救うには鬼籍に送るしか無い。そう善兵衛は判断した。
「ーー分かりました。ただ、そこまで貴方を追い詰めたのは御自身だと云うことを承知の上で、冥土へ行ってください」
「ふん。俺の斬撃に抜刀の余裕も無いお前が何を云う」
余裕が無いのは杉本である。なればこそ、善兵衛が抜刀しなかった理由も見落としていた。
「抜きますよ。次は」
「やって見さらせ、鍔鳴りめっ」
杉本は中段に構えた。
対する善兵衛の刀は未だ鞘内にある。
「どうした、抜かないのか。やはり口先だけの臆病物か」
「試してみれば分かりますよ」
「ほざけっ」
中段の構えから杉本が繰り出したのは、刺突。
その切っ先は確実に善兵衛の喉元へと迫る。
その刺突を左手で抜いた逆手の脇差で払い上げる。
両腕ごと大刀を跳ね上げられた杉本は最早攻めも守りも叶わない。死に体である。
善兵衛は左手の脇差を離し、同時に右手を大刀の柄に掛ける。そのまま抜刀された刀身は杉本の右脇腹に吸い込まれて身体を斜めに遡る。刀身が左肩から宙に抜けたその瞬間、大刀の鍔が、しゃりんと鳴った。
「お、お前……は……」
我が身を冥土へ送る者の名を知りたいと思うのは武士の本能ならば、またその問いに応えるのも武士の本能と云えよう。
「元相良藩主、田沼意次が庶子、井上善実」
名を聞いた杉本は、その場に崩れ落ちた。
翌朝、杉本玄代は村の外れで発見される。筵に寝かされた杉本の亡骸の枕元には十五本の線香の燃えかすが供えられていた。
そこは、奉行所の同心十四人が斬殺された場所でもあった。
以来、竹井善兵衛の姿を見た者は無い。