文学の塵芥
毎日文字を書いていると、誤字や、タイプミスは、必ず起こると言ってもいい。だが、その中で気が付くものと気がつかないものがある。意識して、ミスや、しくじりを無くそうと文章を書いているつもりでも、後からさっと見渡すだけで見つけられるものもあれば、何度も見返すうちに、発見できる、本人では気づきもしない失敗もある。
失敗の発現率は個人差による影響が大きいだろう。
単純なキーボード上の配置場所による、失敗の偏りも考えられる。慣れによる失敗の習慣化だ。
しかし、文章を書く上で、タイプミスをすれば意味が通らなかったり、別の意味になってしまったりするため、極力タイプミスを減らそうとし、習慣や努力、訓練によって、技能が向上し減らす事は可能である。
スポーツや楽器の演奏にも同じことが言えるだろう。
限りなくミスを減らし、自分の思い通りに体を動かすことで、最高のパフォーマンスを生み出すが、トッププレイやになればなるほど、意識する前に、体が指が、勝手に動くという到達点を示すものが出てくる。
まったく同じ動作を体に刷り込むことで、多種多様な状況に対応する。一見努力のたまものであるような気がするが、過程と結果の逆転、意味の違いが生まれてくる。ボールを投げる打つ、弦をはじく、何でも良いのだが、同じ動きを寸分違わず意識して動かせるものにとって、意識外の動き、通常では失敗が、個性や持ち味、相手の意表を突く切り札ともなりえるのである。
意識とは何ぞや? という話は、難しいのでどこかで調べてもらいたいが、簡単に言うと、意識して何かをしようとする少し前に、準備物質なるものが脳で生成されるらしい。意識する前に無意識下で、決定が下されている。そうなると、意識して文章を書き出そうとしているのも、実は無意識化の思念的なものから紡ぎ出されたものを記録しているだけなのだろうか、という疑問と、もう一つ、失敗も決定された事柄であるのではないのか、という疑念が生まれる。
予め無意識化で、失敗する行動が決定されているのでは?
それがどういう意味を持つのか考えれば、優れた楽器の演奏者なら癖や個性となるかもしれない。本人さえ意図しない変化球を生み出すのかもしれない。しかし、ただ繰り返される単純作業の中での失敗は、どんな意味を持つのか。まったく同じコピーを生み出す細胞分裂。そこには意思の介入もなくただ物質の化学変化があるだけのはずだが、時折、失敗する。分子同士がくっつくという、失敗しようがない作業であるはずが、失敗する。電子の受け渡し、イオン化も失敗してるかもしれないし、素粒子の失敗が、事象の逆転として観測されているのかもしれないが、それは量子コンピューターを作ってる人が教えてくれるかもしれない。
注意力散漫や未熟さを除いたとしても、どれだけ訓練を積み重ね注意深く意識を集中しても、一定確率で失敗する可能性があるのではないだろうか。失敗を気づかせない失敗因子なるものが働き、単純作業の繰り返しの中に、ランダムな変化を残す。多様性化しようとする可能性というものがあるのではないか。
そこでタイプミスの話に戻ろう。
無意識の思念というものから文章を紡ぎ出し、それを意識として記憶しているが、無意識の出力時に置いて、意識ではミスと判断すべき文字が打ち出されているのである。そう、つまり、本人が気づけないミス、技能の未熟さや不注意ではなく引き起こされるミスに、無意識の意識と呼べるものが含まれているのではないのだろうか?
人間の意識の先、無意識からのメッセージは、決して消せない塵のような存在として残された警告かもしれない。だが、そこには、何らかの可能性が示されているのではないだろうか。
意識に左右されない、しくじりを拾い集める事で、愛・希望・欲、様々な概念を言葉として、形作ってきた文学は、無意識の意識という形に出来ない概念を言葉として解き明かす事も可能ではないだろうか。