収束する世界
誰もが学校で習った事であろうが確率は収束する。
サイコロを振れば、試行数が少ない間は偏りも生まれるが、数千数万と降り続ければ1から6の目が出る確率は六分の一に収束していくという話なのですが、もちろんこれは正しい。
数学という学問が発達するにつれて、人間は様々なものを計算で導き出せるようになり、やがては自然さえも意のままにコントロールし、水不足の地域に雨を降らせ、作物に必要なだけの日射量を確保し、週末の行楽地は快晴であるような世界が訪れるとばかり思っていたが、いまだに世の中の出来事がどう変化するかは当たるも八卦当たらぬも八卦で、来月の天気さえ正確に予報できていないのである。
太陽、地球、月の動きを正確に計算し、潮の満ち引きや温度変化による動きなど周期的な動きを計算する事が出来るようになった。地球上のありとあらゆる場所を進攻衛星によって観測し、僅かな誤差なく正確なデーターを集め、テラバイトが常識となったコンピューターがあるにも関わらず、天気の最も正確な予報は、夕方西の空を見上げる事に他ならないのである。
そもそも地球の形状や公転周期などの動きを計算すれば、全球凍結――スノーボールアースという状態で安定するはずなのである。地表が凍り付き白一色に染まれば太陽の熱を最大限反射し続けられる、つまりサイコロの目が収束し限りなく六分の一に値数いた状態である。実際に地球の歴史上何度かそうなる可能性があったのだが、その都度、それこそ天文学的な確率で、隕石がぶつかったり、ぶつからずとも小惑星の引力にひかれて火山が爆発したり、タンパク質が知性を持ったりしたのであるが、これは偶然であるのだろうか?
計算上収束しようとする出来事を偶然が邪魔をして、でたらめな結果を導き出してしまっているのだろうか?
だが、実際にはそうではない事を知っているのである。
起こるはずもない確率の物事こそ当たり前に起こりうるのである。いつ起こるか分からないでたらめという仮面を被った秩序が私たちの前に存在している。
簡単に言えば、サイコロの目である。
百回千回なら振れるかもしれないが、一億や一兆回もサイコロを振れば、摩耗して偏った面しか出ないかもしれないし、割れてしまうことだってありうる。それに振り手が何度も降っている内に、房州さんのようにピンゾロしか出さなくなった場合は? 一億回も振れば誰であれ、そこまでは行かずとも何らかしかのテクニックを身に着けてしまうのではないだろうか。
そうなってしまえば、計算上導き出される丁度六分の一に収束するという確率自体が現実不可能な事象となってしまうのである。
計算された数字に収束されるには、絶対に割れないサイコロや房州さんにならない何度サイコロを振っても初めの一回のように経験を積まない振り手を用意するなど、現実では揃えられない限定条件が必要なのである。
しかし、現実には計算で導き出された成功例がいくらでも転がっている。
株の取引き、パチンコの必勝法、人生の成功例、そこに書籍の出し方なんてのも入れてもいい。現にその方法で成功した人物がいるのだからそれは正しい方法である筈であり、その方法を模倣した成功者が次々と生まれるという事は導き出された成功への正しいルートと言うものが存在するのではないかと思われるが、それを寸分変わらず実践したところで当たるも八卦当たらぬも八卦であるのは言うに及ばない。
なぜ先駆者の成功例が正しい方法であるとされるのか、それは簡単な確率の問題なのである。
その方法がどんな荒唐無稽な事であっても誰もが思いつくような方法であってもかまわない、どんな方法でも当たるも八卦なら同じ方法を試行する人間が増えれば増えるほど、一定の割合で成功する人物が出て来るのである。
世の中に氾濫するこうやれば儲かるもこうやって悟りを開いたも、元をただせばコーチ屋と同じ事をしているだけなのであるから、天才だろうが凡人だろうが善意も悪意でも関係なく世の中の他人から受ける影響は全てはコーチ屋に収束する。
成功するか失敗するかであるならば、その先には1%の可能性があるに過ぎないのだ。
実とも実らないとも言われる努力がまさにそれである。
どちらに進もうとも可能性があるのであるから、ゴールをどこに設定るるかでしかない。仮に金を稼ぐが目標であり一億円貯めたとしよう。かなりの金額ではあるが目標金額が一億ドルであれば達成率は1%しかなく、ゴールは遠く見えもしない。目標が数字で表されるものではなければなおさらだ。
無論、富も名声も際限はなく生きている限り先があるものだが、その過程のどこで満足するかによって多くの人は自らの努力の限界を位置づけるのである。
それは個々によって判断基準の違う幸せという曖昧なもので位置づけられるのだが、多種多様化しているにも拘らず、他者との比較という単純な相対的基準でしかない。隣りの人より少し稼いだ、一歩前に出たというだけの優越感から自らの努力を至高の物であるかのように肯定したり、これまでの道のりの正しさに浸ったりできるのであるが、多様性という言葉通り人の数だけ進む道があり、どちらを向いているかという違いでしか無かったりするだけの事で、実際はそれほど誇らしげに自慢できるものでもない。
全ての可能性を内包するカオスという秩序で成り立つ幸せという定義は、どこまで進んだかもさしたる問題ではないのであるが、比較し優越感に浸るために似たような方向に進んでいるように見える相手と比べて見ては、羨んだり蔑んだりを繰り返すのが人間である。それを比べるべき差であるのか、違いであるかを判断するのも個々の基準次第でもあるのだから。
努力が実ったという結果でさえ過程の中の一つの可能性であるにすぎないのである。
限定された特殊な条件の下でなければ、可能性はゼロにはなる事は無く、特殊な条件でおのれを縛るのもまた自分自身なのである。
天和上がって死ぬ人生も間違いではないが、正しくも無いですね。