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後編


 あ? 弁当忘れただと?

 ギン、と鋭い視線を向けられて胃がきゅっとしたところで真知は飛び起きた。

 ドッドッドッと心臓がうるさい。真知はまだ明け方だとわかって、体の中の空気を全部吐き出して布団に倒れた。夢でよかった……!

 きちんとお米も炊けているし、昨日準備した食材もそのまま。あとは夢のように持っていくことを忘れないようにすればいいはずだ。

 真知は大きなお弁当箱を広げて腕まくりをする。

 誰かに作るのは初めてで、深呼吸を二回しても落ち着かなかった。それでも、やらねばらなるまい。


「狩野ちゃん! ほぉら、約束のお弁当ですよー」


 飛び出しそうな心臓のことは無視して、真知はにっこり笑って包みを取り出してみせた。

 ざわめく教室は賑やかなもので、きゅるんとした真知の声も違和感なく溶け込む。

 のっそり体を起こした狩野は、包みを一瞥すると真知へ視線を移した。


「……おまえのは」


 真知はうっと言葉を詰まらせる。じっと見てくる目は、弁当を忘れたと言ったときと同じくらいの強さのような気がした。

 誤魔化しは通用しないと感じて真知はおずおずと口を開いた。


「あ、あのう、お言葉にあまえて、食材一緒に使いました」

「あるなら別にいい」


 ちっこい自分の弁当箱を取り出すと、フンと鼻を鳴らされる。

 あ、別に怒ってはいないっぽい。よかった。真知はホッとしてから包みを開く。

 一段には梅干しと胡麻を散らしたご飯。

 もう一段には唐揚げ、卵焼き、アスパラベーコン、ゆで卵、焼きそば、ブロッコリーにプチトマト。

 迷いに迷った末、お弁当の定番というメニューになった。

 男子高校生相手にはとにかく、量。そして肉、炭水化物。そういうことらしい。

 隙間なくギュギュッと詰め込んで、こんなに食べれるものなのかと未だにドキドキするのだが、食べ切れなければ残してもらえばいいかと思い直し、真知は鞄を手繰り寄せる。

 味噌汁もあるよとスープポットを取り出すと、またたいた狩野はそれでも小さく返事をして器を受け取った。


「明日も作ってこいよ」

「はぁい」


 もぐもぐ食べ始めた真知の横で、詰め込まれていたはずのものはみるみる狩野の中へ消えていく。

 最後に残ったのは、空っぽの弁当箱。

 とりあえずのところは、命は繋がりそうである。






 狩野の専属弁当係はそれから毎日続いた。

 三日に一度くらいのペースで放課後に買い出しをして、それを使いながらやり繰りをするおかげで真知は毎日料理をして食事をした。こんな健康的な暮らしは初めてな気がしている。

 家に帰るとちょっとした家事をするだけだ。今までやれもしなかった宿題をやる時間ができ、悩んだ末に答えがわからなくても翌日狩野がやり方を教えてくれる流れまでできていて、真知はなんだか毎日が楽しかった。

 けれども、どう考えても狩野の弁当より真知の食事になる量の方が多いのに、狩野はそれでも食材を減らすことをしない。

 せめて食費を半分出せるようにアルバイトを早く決めないとと思っているが、なんだかんだで狩野と一緒に帰るので、タウンワークをもらいに行くタイミングがなかなか掴めないでいる。


「やは肌の、あつき血汐に、ふれも見で」


 古典の授業が終わった後で、真知は教科書を広げたまま狩野にため息をついた。

 出された宿題と、次回の予習のためのノート作りをこなすのが一般的とされているが、この高校では組の数字が大きくなるにつれてそんな意識は薄れている。

 普通はそういうものらしいぞ、と教わった真知は普通というものをかじっているところだ。

 平安時代以外にも読まれた歌はたくさんあるのだという教師の言葉を受けて、真知はまた舌足らずになぞりあげる。


「気持ちがあふれてたまらないのかな。大胆だし情熱的だよね。三十一文字しかないのに、こんなにたくさん思いがこもってるんだねえ」


 振り向いてくれない相手に対して、この体に触れもしないでいいのかと投げかける歌。細めた瞳と笑みを作った赤い唇が目に浮かんできそうだ。

 書かれた文字だけではなくそれ以外のことまで匂わせる、そんな世界があるとは知らなかった。

 すべて言わずに、含ませる。言えないからこそ、言わずに伝える。

 それも決まった文字数でやらねばならないなんて、到底無理だ。はあぁ、とため息がこぼれた。


「いろは歌くらいは聞いたことあんだろ」


 すると、隣から低い声が鼻を鳴らす。

 面倒臭そうなのに、狩野は毎度毎度、真知のこういう時間に付き合った。意外なことに、彼は勉強ができた。

 いろは歌と言われ、真知は首をかしげる。


「いろはにほへと?」

「そう。あれだって似たようなもんだ。――色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ 、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」


 淀みなく響く低い声。

 真知は、頬杖でこちらを向く相手から目が離せず、音に耳を澄ませる。

 教室のざわめきは遠いところへ行ってしまったようだ。


「綺麗に咲いてる花もいつか散るように、いつまでも生きられるわけじゃない。無常な人生を日々越えて、酔ってもねーのに儚い夢なんて見たくもない」


 切れ長の目が、真知をとらえる。

 鋭さがほんの少しだけ、ふっとやわらいだようなそんな瞳で、彼はなんてことないと言いたげに肩をすくめた。


「だいたいこんな意味だろ。そんで、今の五十音と同じだ」


 すべての仮名を一度だけ使って作られたものを誦文と言うのだと、続ける声にまたため息がこぼれる。


「へええぇ、おもしろいねえ。言葉って、すごいんだねえ」


 きちんと文になっているのに、このなかに、全部の音が入っているのか。昔の人はすごい。粋とはこういうことなんだろうか。

 はあぁ、と大きく息を吐いて、真知はまっすぐと狩野を見つめた。

 顔が、熱い。いきなり目の前が鮮やかに絵の具で塗られたみたいに、とてもとても綺麗に見えた。

 そんな言葉を、普段自分たちは使っているのか。昔から今になるまでに積み重なったものは、きっとたくさんたくさんあって、繋がっていることは当たり前なのに奇跡みたいだ。


「狩野、ありがとうね」


 狩野は、すごい。

 当たり前なのに立ち止まってそれを気づかせてくれる。今までこんな風に真知の横に立ち止まってくれる人なんていなかった。


「……帰るぞ」


 そんな真知からふいと顔をそらした狩野は、がしがしと襟足を混ぜるとガタンと椅子を揺らした。慌てて真知も鞄を持ってその背を追う。

 夕焼けで真っ赤に染まった狩野の背中を一直線に目指した。






 あんな不良なのに。

 狩野は懐が深く、頭が良くて、頼れる男であった。

 学校で彼の存在は目立つのか、元々どこかで噂でもあるのか、生徒たちから一目を置かれているように思える。

 だから狩野といると真知も目立ったが、初めから女子制服だからそこは問題ない。どっちにしろ目立っているわけだ。

 変に目をつけられるかとビクビクしていた真知をよそに、狩野の存在は他を寄せ付けない形となった。


「……おい、具合悪いんだろ。座ってろ」


 終礼で配られた進路希望の紙を前に棒立ちしていると、隣からぶっきらぼうな声が飛んできて心臓が飛び跳ねた。

 真知はいそいそと席について椅子の上で足を折りたたんだ。

 いくら男子を装ったとしても、避けて通れないものがあるわけで。

 食生活が安定したからか、月に一度生理に悩まされる体になっているらしい。お腹が痛いなあとさっきトイレに行ったらそんな結果だったので、急いでこっそり処置をしたところである。


「い、いやだな、狩野ちゃん。何言ってるの」

「顔色悪い。被ってろ」


 鞄に丸めて詰められていたジャージを、 バサリと真知に投げ渡す。

 自分のとは比べ物にならないほど大きいそれは、広げるとすっぽり真知を覆った。返そうにもそっぽを向かれてしまったので、真知はそっとそれを羽織る。

 あたたかさに、少しだけ痛みが和らいでいく気がした。

 ありがとうと背中に言えば、ふんと鼻を鳴らされる。それで、十分だった。


「おまえ、卒業したらどうすんだよ」


 もぞりと動いた塊が、机の上に伏したまま、片目だけで真知を見上げる。

 ジャージの中で、真知は息を飲んだ。

 目の前の紙に視線が戻る。まだ一年生なのに進路を聞かれて憂鬱なのに、重たい体が余計に気持ちも沈ませた。

 もしも、もっと違う出会い方をしていたら、また違う関係だっただろうか。高校だけだと割り切っていることがなんだかもやもやして、本当はこんな自分じゃないと言えたら――

 唐突にそんなことがよぎって、真知は思わず頭をふるふるした。


「どうするって、働くよ。生活できないもーん」


 へらっと笑って声を弾ませると、少しの沈黙を返される。

 じっと見つめてくる静かな瞳に、真知は思わず笑みを引っ込めた。狩野は、ゆっくりと口を開く。


「……古典、もっとやりたいんじゃねーのか」


 真知の手にしたプリントが、かさりと音を立てた。


「そ、んなわけないじゃん。べんきょーなんてできないよ~」


 バカな真知が進学するなんて、そんな無駄金はどこにもない。

 初めから高校までと言われている。あとはもう出費ではなくて稼がなくてはならないのだ。

 狩野はどうにも真知の家のことを気にしているようだった。やさしいからきっと哀れに思ってくれているのかもしれない。

 でも、こんなことに狩野が頭を悩ませる必要なんてないのだ。


「いいんだよ、本は図書館でも借りれるし。ちょっとおもしろいなって思っただけだし」

「ちょっとおもしろいって思うことは、動機として十分だろう」


 不機嫌な声が腕の隙間から届けられたのに、真知はお腹の痛みがやわらぐような気がした。

 夕日が教室に差し込んで、狩野のつんつんした髪を橙にしていく。やわらかな光が鋭い目を染めて輪郭を溶かしている。

 大きなジャージの下で、真知は鮮やかな色彩を焼き付けた。笑いたいような泣きたいような、どうにもできない気持ちでいっぱいになってしまう。

 こんな気持ちも、昔の人たちは決まった文字数できちんと表したのだろうか。バカな真知には到底できそうもない。

 ああ、残念だ。残念だ本当に。


「……料理」


 こんなにいい奴とも、あと二年と少しでお別れしないといけないんだなあ。

 目の前の進路の紙は白紙なのに、もう決まった道しか真知にはない。そう思うのに。

 また低い声が容赦なく真知を捕まえる。


「料理できるだろ」

「へ? で、できるよ。普通のなら」

「掃除と洗濯は」

「しないと困るでしょ、それ」


 ぽかんとしたまま聞かれたことに答えると、狩野はのそりと起きて腕枕を頬杖に作り変えた。


「月、十万。衣食住込みの仕事なら紹介してやる」

「なにそれ! やる!」


 椅子の上でうずくまっていたことも忘れて、真知は元気よく手をあげる。

 ベシッと額を叩かれ、落ち着けと低い声が続けた。


「……詳細も聞かずにのってんじゃねーよ。他のやつの話は鵜呑みにするな。契約書できちんとかわせ。そんで中身は隅まで読め」

「難しい話はわかんない~」


 チッと舌打ちされたが、真知はへらりと笑って頭をかいた。今はちっとも怖さなんてない。

 ジャージをぎゅっと抱き込むと、息を吐き出した狩野は襟足をガシガシ混ぜてから、眉を寄せたまま口を開いた。


「俺は東京で四年間暮らす。行き場がないなら、その間ハウスキーパーで雇ってやる」

「え」

「なんだ、不満か? ちょっと金貯めれば、通信で授業受けれるようにもなるだろ」


 じっと見つめてくる、瞳。

 いつもは茶色いそれは、夕焼け色のまま真知を映している。

 心臓が跳ねたのに慌てて真知は唸った。


「い、いや、あの、狩野のとこで?」

「ほかにあんのかよ」

「あー……うーん、あのう、相手が狩野だと、ちょっと無理かなあ、なんて」

「あ?」


 狩野とこれから縁が切れずにいられることはうれしい。けれども、真知はこれでも周りを騙してここにいる。

 それは三年間という期限があるからできることで、卒業すれば真知は小柴真知というひとりの女子として生きていくつもりだ。

 狩野が真知をこうして気にかけるのは今の関係だからであって、今後の真知は含まれてはいない。含んではいけないんだ。

 それに、雇うとなると話はまた大きくなる。そもそもそのお金はどこから出てくるんだ。

 ぐるぐるといろんなことが頭を巡るのに、それを止めるのはやっぱり容赦ない低い声。


「余計なこと考えるんじゃねーよ」


 狩野は、真知が何を思うのかも見透かしてしまうみたいに、まっすぐと視線をそらさずに見据える。


「俺はおまえに不利なことはしない。それに急いで決めなくていい。――だから、心配しないでちゃんと高校生してろ」


 フンと鼻を鳴らすと、でかい背中はまたあっちを向いてしまった。

 いいのか。

 そうか、いいのか。

 真知は低い音が自分の中にじんわり染み込んでいくのを、不思議に思いながらまたたいた。

 もしかしたら、あとの二年で違うものも見えてくるかもしれない。言葉だけじゃないもので伝えることが、真知にもできるかもしれない。

 狩野がいいと言ってくれるのなら、真知は頑張るほかない。気持ちに応えたいなと素直に思える。

 帰るぞ、と席を立つ赤い背中を、真知は慌てていつものように追いかけた。


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