前編
真知は心が無になった。
スン、と音がしたのかしてないのかわからない擬音語を背負って、デコボコしている背中の海を、目を細めて眺める。濃紺のブレザーたちは、俯きがちだったり傾いていたりさまざまだけど、唯一共通しているのは学園長先生の話を聞いていないところだ。
髪型も、色も、好き勝手な彼らは、そう、どこを見渡しても“彼”らでしかなかった。
――女子、いない。
ひとりだけ女子の制服は、控えめに言ってもものすごく浮いていた。
初めはダルい、眠いと言っているだけだった男子の視線が、真知の存在に気づくのはそう時間はかからない。だって暇だから。おい、見ろよ、なんて声と一緒に集まる視線を感じながら、真知は無表情の下で冷や汗を流しまくった。
この学園が共学になったのは去年のこと。
素行が悪く、ガラも悪く、頭も悪いと自他共に認めるために、もちろん評判はよくなかった。
三次募集までするくらいだ、生徒が定員にまで満たなかったことは真知にだってわかるし、そうともなれば女子は避ける。女子じゃなくたって避ける。たぶん。
真知も本音を言えば別の学校がよかった。
が、入れる学校がここしかなかったという残念すぎる頭の持ち主だった。
親は真知にこれっぽっちも興味がなく、浪人して再チャレンジは無理。周りの学校はすべて落ちたが、高卒の肩書きを諦めきれずに見つけた三次募集だった。なんとか滑り込めたのが、ここだったのである。
「おっはよー! 狩野、今日も朝から眠そうねえ」
真知は教室に入るなり、隣の席のでかい塊をバシンと叩いた。
不良しかいないのに、女子がひとりだなんてお先真っ暗じゃないか。
どうやら昨年は何人か入ったようだが、喧嘩、乱闘、恐喝は日常茶飯事とあまりの事態に転校したらしい。そしてその噂も流れて今年は真知しかいない結果だ。
真知には、転校も中退も選択肢にない。
どうにか三年間過ごして卒業しなければならない。そうなると、まず必要なのは身の安全。ぶりぶりな高い声を弾ませるしかない。
塊はのそりと体を起こして、目つきの悪いつり目を真知へ向けて眉を寄せた。
「……朝っぱらからキンキン声だしてんなよ」
「やだぁ、マチのかわいい声にひどーい!」
うるきゅん、とこれでもかと瞬いて上目に唇を尖らせると、相手はおざなりに手を振る。
慣れた調子でさらりと流すと、あくびをしながらライオンみたいに伸びをした。
「野郎にかわいいとかねーだろ。早く座れ」
「はぁい」
男子しかいないのだ。それなら、男子になればいい。
昨今の風潮ではこういう趣向の男子もいる。女子ではない。そういう、男子。そういうことである。
隣の席の狩野は、短いアッシュグレーの髪を逆立て、でかい図体には黒いTシャツに辛うじてワイシャツと制服ズボン。シャツのボタンは二個くらい開けて裾が出てる着こなしなので先生も注意するけど、すっきりした一重に睨まれるとたちまち言葉を詰まらせてしまう。不良を絵に描いたような男であった。
入学式でたまたま隣の席になった彼は、教室でも真知の隣に陣取った。席順は決まっていたが、この学校ではあってないようなものだった。
とりあえず自分の組にいれば御の字。授業で騒ぐなら別の場所へ行ってくれと教師が言うくらいのレベルである。思った以上に荒れていた。
一応、今までの成績や内心、素行を加味してクラスを組んでいるらしいが、真知は真ん中の三組。問題児が集められた七組でなくてよかったとしか言えない。
「夢と知りせば、覚めざらましを」
教科書を前に、舌を噛みそうになりながら真知は和歌の文字を声でなぞった。
がやがやする教室は、魔法の呪文のような言葉から解放されて、あちこちで伏していた背中が目覚め始めている。
真知はかろうじて、眠りの魔法に屈せずにいられた。この日最後の授業で、かなり眠気と戦ったが勝利を収めたのである。
そんな授業のなかでさらりと教師が読み上げた短歌を、真知は真新しい教科書から拾い上げてみた。
夢だとわかっていたなら起きなかったのに、と想い人が出てきた夢を惜しむものだと平坦な教師の言葉が教えてくれたものだ。
「すごいねえ、狩野。聞いてた? もっと夢を見ていたかったってことでしょ、昔の人もおんなじなんだねえ」
睡眠時間と考えられているこの授業は、週に一度の選択科目である。
真知は自分が何を選んだかもあやふやだったが、寝れそうだと狩野が選んでいたので一緒にしたことは覚えていた。受けてみたら昔の日本のことだったから、古いはずなのに新鮮で不思議な気持ちになっている。
「そんな感心することか? 古典なんて去年もやっただろ」
「そうだっけ、あんまり覚えてないなあ」
中学でも、こんな授業があっただろうか。
はてと首をひねると、狩野は興味なさげに頬杖を作った。彼もまた、眠りの魔法に打ち勝ったようだ。それでも名残はあるのか、気怠げにあくびをこぼした。
「まあ、通年じゃないだろうけど。つっても、おまえどの科目も基礎が全部抜けてる」
「うーん、そうねえ、今の授業もさっぱりわかんないもんね~」
じとっと向けられた視線に、真知は己の生活を振り返ってけらけら笑ってみせる。
勉強は本当にできなくて、教師の手を焼かせるばかりだった。頭を抱えた元担任の顔が浮かんで、そういえば元気かなあと思う。
「今までは授業まともに聞いてなかったからねえ。お腹減って死にそうになってるか、眠たくて死にそうになってるか、そればっかりだったから」
「あ?」
「うちの親、忘れっぽいからボクのこともたまにじゃないと思い出さないの。だからお金もないし食べるものもないから、ゴミ漁ったり廃棄もらいにいったり、いろいろしてるうちに気づいたら朝とか」
ゴミはゴミでも、真知の狙いは料理雑誌だったけれど。立ち読みだけでレシピは覚えられないから、資源ゴミの日は早起きして古雑誌や読めそうな本を頂戴していた。読めない漢字は多かったが、本は真知の楽しみでもあった。たまに漫画なんかが捨てられていたらラッキーだ。
さすがに食べ物はゴミからではなく、賞味期限切れの惣菜や弁当をもらうことが多かった。
これもまた、元担任の知り合いが経営しているコンビニにお世話になっていた。先生が真知の生活に見かねて頼み込んでくれたのである。
「家には滅多に帰ってこないから、お金をもらいそびれちゃうんだ。学校も高校までならお金出してくれるって言うからなんとか滑り込めたし、あとはどっかでアルバイトしたいなあと思ってるんだけど」
環境の変わり目なら、親と顔を合わせることが多い。
学校の手続きやら制服などを不機嫌に買い揃えるのに、そっと食費がないことを匂わせたから今ならまとまってお金がある。
それが尽きる前にどうにかして収入を確保しなくては。男の娘を名乗るなら、美容面も怠ることができない。お金は大事である。
勉強はできれば頑張りたいけれど、真知は食費やらを工面しないと生きて行けなくなる。頭の基礎を補修するのは当面無理そうだ。
なんて、やる気のないことを言ってしまったからか、黙って聞いていた狩野の視線がやたらと痛い。眉間が谷を作って凶悪な顔面になっている。
びくりと肩を揺らした真知は、慌ててへらりと笑ってみせた。
「ご、ごめん。あんまり聞いてておもしろい話じゃないもんね、もうしないってばぁ」
怒らせてしまったかと冷や汗をかきながら、わざと鼻から抜ける高い声を出して首をかしげる。
じっと向けられる視線は、なおも厳しい。落ち着かなくてそわそわしていると、狩野はため息をついて頬杖を崩した。
「小柴。おまえ、飯作れんだろ。材料渡すから弁当作ってこいよ。余ったやつはやる」
「へ?」
な、なんで弁当。
いきなりの言葉に真知はかわいい声も忘れて目を点にした。それでも不機嫌な低い声は容赦なかった。
「やれよ。おまえ俺の弁当係な」
こ、これが噂のパシリか! 真知は雷に打たれたようにピシッと姿勢を正した。
そうだった、ここは不良の溜まり場だった。強い者が常に勝つ。とりあえず弱い者は彼らに従うのが平和なのである。
目の前にいる狩野はどこから見ても立派な不良で、真知は改めて認識せざるを得なかった。仲良くなった気でいたから油断していた。危ない危ない。油断ダメ絶対!
放課後ツラ貸せよ、なんて言われればブンブン首を縦に振った。財布には三十一円しか入っていないのだけど、命は助かるだろうか。
そわそわして眠気も吹っ飛んだ真知だったが、そのままスーパーへ連行されたときにはガッサガッサと食材をカートに乗せられ、手早く会計も済まされ、荷物も家まで運ばれてしまってはなす術もなかった。
「狩野、多すぎない?」
でかい弁当箱まで買った狩野は、ふんと鼻を鳴らす。
「食いたいもんが多かっただけだ。俺のはこれに詰めてこい。あとの材料はそのままやるから好きにしろ」
「で、でも」
パンパンなスーパーの袋がふたつに、五キロの米。弁当箱は真知の三つ分ありそうな大きさとはいえ、弁当ひとつに対してこの量はすごい。
こんな大量の食材は久しぶりに見た、とまごついていると、ぎゅっと狩野の視線が鋭さを帯びる。
「返事」
「はいっ」
反射的に出た声に、腕組みした狩野がひとつ頷く。
じゃあなと手を振って、彼は大きな背中をあっという間に黄昏時に溶かしてしまった。
残されたのは食材とポカンとした真知。
好き嫌いを聞き忘れてしまったと気付いても、もう背中は跡形もなく消えてしまっている。
作ったものが嫌いなものでありませんように! 一晩のうちに何十回も祈りながら、真知は弁当係を全うすべく古びた雑誌を開いた。