亜空間
障害者施設。そこでは狂気と混沌が繰りかえされる。廊下に漂う異臭、口から垂れ流されるヨダレ。何もない虚空を見つめて、上下にブンブンと振り乱される頭。それに、施設内のどこかから聞こえてくる、ウヒャウヒャと不気味な高笑い。
ここを初めて訪れた人間は間違いなく、とんでもないところに来てしまった、と後悔の念にさいなまれ、一週間もしないうちに辞めてしまう。
支援員。それは、障害のある人を支えるやりがいのある仕事です、などと可愛らしいうたい文句で求人誌に掲載される仕事ではない。思いやりのある人なら大歓迎、も真っ赤な大噓だ。優しさや慈悲といった、生ぬるい心構えは役に立たないし、それを抱き続けようとしても、ことごとく打ち砕かれてしまう。少なくとも、俺はそう思う。
この仕事を続けるために必要なものは、力だ。それは、支援業務のストレスに耐えうる精神力という意味でもあるし、文字通りそのままの意味でもある。
今、その後者の意味が不可欠であると証明する事態が目の前で起ころうとしている。
「違うんだ!違うんだぁぁ!違うんだよぉぉぉ!」
「t君、何が違うんだ?なんで怒ってるんだ?なぁ、なんで怒ってるの?」
職員の早川さんが冷静に、利用者のt君に向かって問う。t君は、暗闇につつまれた身体障害者用トイレの床に正座し、わめいている。トイレのドアが全開なので、彼の巨体が黒い影となってうごめいているのが分かる。まるでラグビー選手のような肉体を持つt君は、パニックを起こすと大声で叫びだし、やがて職員に掴みかかってくるという、厄介な特性をもつ自閉症の利用者だ。
俺は走って一旦、作業室に戻り、後ろ手に扉を閉めた。部屋で作業をする利用者たちに、第二扉から作業室を出るよう声掛けする。その扉の上の辺りには、だいにとびら、と平仮名で書いた色紙が貼ってある。そこからならt君の視界に入れずに一階に下ろすことができる。
背後の廊下からは、t君の雄たけびが響いている。俺はその声をかき消すように、色紙を指さしつつ作業室の全員に聞こえるように言った。
「みんなー、よく聞いてくださーい。今、t君がちょっと調子悪いみたいなんで、こっちの第二扉から降りてくださーい。分かりましたかー?」
「はーい」
と返事ができたのは比較的、知的能力のある利用者数人だけだ。他は、己の妄想世界に浸っていたり、意味もなく二ヤついていたりして、俺の言葉は届いていない。そういった、言語の理解に厳しい利用者たちは、職員が手を握ってあげたり、背中をやさしく押してあげるなどして誘導しなければならない。
そのとき、背後で一段と大きな雄たけびが聞こえ、何かガチャンと叩きつけられる音がした。俺は思い切り身体を反転させて振り向き、隣にいた男性職員の植松さんも、ヤバいヤバい、と焦ったように言い、俺たちは二人同時に走った。
扉を開け、その光景を見た。t君は立ち上がっていて、早川さんは髪の毛を掴まれ、トイレのドアに叩きつけられている。t君が腕を振りぬくたび、彼のピチピチのシャツの下で段々になった腹肉が揺れ乱れる。
俺は心臓がキュッと締め付けられる感覚を覚え、思わず一歩後ずさった。植松さんは、固まってしまって動かない。
「ちょ、痛い痛い痛い痛いっ。は、はなっ・・はなしなさい!」
早川さんは、極端に深くお辞儀したみたいな姿勢になっていて、髪の毛を掴むt君の手を両手で掴んで引きはがそうとしていた。
「お母さんがね!お母さんがね!おやつ嫌いだぜ!おやつなんだ!おやつなんだぁぁぁ!」
お母さん?おやつ?。お母さんにおやつを食べられたってことなのか。それで怒ってパニックになっているのか。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
早川さんを助けなけないと。でも足が恐怖で動かなかった。
すると、それまで固まっていた植松さんが動いた。植松さんは、早川さんとt君のもとに駆け寄って、その場でオロオロしつつも、t君に声掛けした。植松さんは引きつった笑みを浮かべて、子供をあやすときに使う、高めのトーンの声色で話しかけた。
「t君t君、お話ししよう。お、俺とお話ししようよ」
t君の動きが止まった。俺はとてもじゃないが近づくことはできなかったが、その場で絞り出すように、植松さんに続けて言葉を掛けてみた。
「な、なぁ・・t君大丈夫?」
t君は俯いて何か独り言をしゃべっている。若干、泣き声にも感じる。だが、次第に低い声でうなり声を上げ始めた。
「うぐーーー、だ、だ、だぁっ」
まずい。変に刺激してしまったか。t君が俺の方を見た。自分の表情が一瞬のうちにこわばったのが分かる。俺は嫌な予感がした。それは的中した。
「玉田さん嫌いだあああああ」
「分かった分かった分かった!、ごめんごめんごめんごめん。t君、落ち着いて!」
俺の言うことを聞くはずもなく、t君は早川さんを放し、俺をめがけてダッシュし、胸ぐらをつかんだ。奴の顔面が俺の目前に迫る。俺はひるんで腕に力が入らなかった。奴は俺の肩に噛みついてきた。背中に悪感が走る。こんなふざけた野郎の、気持ち悪い唾液が服に染み込んでゆくさまを想像をすると、ぞっとした。その唾液が直接俺の皮膚に触れると、俺まで自閉症になってしまうんじゃないかと、怯えた。奴は肩に噛みついたまま口を開けようとしない。俺は横に飛び跳ねるようにして距離を取ろうとしたが、奴の憎たらしいほどに強い腕力が俺のシャツをぐしゃりと歪めただけだった。
「t君!やめろ!」
自由に動けるようになった早川さんが一喝した。そして、一瞬の隙をついて素早く奴を羽交い絞めにすると、奴は金切り声をあげ巨体をじたばたさせた。早川さんは必至にふんばって耐えている。早川さんが俺に早口で伝える、
「た、玉田君、作業室に戻って!みんながこっちに来ないよう誘導、誘導して!。こっちは俺と植松君でなんとかするから!」
「わ、分かりました」
「植松君は残って!僕が合図するまで、そこにいといて。危ないから!」
「はい・・」
植松さんは、そう短く返事すると、どうしていいのか分からないというように、ぼう然と立っている。
「うぎゃーあああああーーーー」
早川さんはt君を羽交い絞めにしたまま壁に押しつけて、落ち着かせようと話しかけた。奴は右手で、奴自身の髪を引っ掴み、左手の拳は壁を殴りはじめる。
「お母さんとお話ししたいのか?そうなのかt君?お母さんと話したいんじゃないのか?」
「どぉっせ!どぉっせ!。やったらねぇ!どうってねぇ、ゴフッ、飛んでったんだ!うごォうごォうごォ」
これが福祉なのか。本当にこんな奴が個性のある天使と言えるか。まともに言葉もしゃべれないお前を、俺は人間と認めたくない。お前は今何を考えている?取り乱してすいませんでした。そんな謝罪の言葉も言えないんだろう?だってお前、障害者だもんな。
「・・クソ野郎」
そうだ。こいつだけじゃない。ここの奴らは全員障害者だ。一般社会でまともに生きることができない連中。ホームレスとここの連中とではどっちがクズだろう。俺はお前らよりも優れている。俺は障害者たちを相手にしていることに妙な優越感を感じ納得した。
俺は二人が格闘している様子をいちべつし、唾液が皮膚に触れないように肩の部分をつまみあげて作業室に戻った。少しはホッとできるかと思いきや、やはりそうはいかなかないようだ。作業室でも何人かの利用者が不安定になっていて職員が対応に追われていた。泣いている者もいれば、両手で耳をふさいでしゃがみこんでキーキーと唸っている者もいる。こんな状況でも何が面白いのか、天井の一点を見上げて、うへへへへ、と笑い続けているるあの老婆は一体なんなんだ。お前もどうかしてるな。
チラリと噛まれた個所を見ると、黒く変色してべとついている。俺は即座に服を脱ぎすて、肌着一枚の状態になった。唾液の部分に触れないように用心しながら服をくるくるとたたんでいると、女性職員の前畑さんが声をかけてきた。自閉症の少女と手を握っている。少女といっても二十代後半なのだが、なぜか障害者たちの多くは実年齢よりも幼く見える。だが、健常者の若者のような、みずみずしさがまったくない。なんとなくこう、顔の骨格が原始的というか、大切に発達すべき何かが退化しているかのような印象を受ける。
前畑さんと少女はちょうど今から下に降りるところのようだ。
「玉田さん大丈夫?服破られたの?」
「はあー、もう最悪ですよ。肩噛まれて唾液付けられるし、早川さんなんか髪の毛掴まれてトイレの扉にぶつけられてましたからね。前畑さんもはやく降りた方がいいですよ」
「おっけ、分かった。あ、kちゃん大丈夫大丈夫。前畑さんと一緒におりましょうねー。ほらー、こっちこっち」
「フンフン」
奴と同じ自閉症のkちゃんは、フンフン、としか言語をしゃべれない女の子だ。ひょろひょろで痩せていて、奴のようなパワーはないが、生理になると情緒不安定になり、職員の腕に爪を立てる行動をする。生活全般の支援や不調時の対応は女性職員が対処することがほとんどだ。kちゃんは前畑さんと一緒に第二扉から降りていった。他の利用者たちも職員に導かれてなんとか作業室を出ていく。
さて、奴はどうなった。作業室に人が残っていないことを確認すると、俺は振り返って扉のガラス越しに廊下の方を見た。早川さんは奴の後ろから回した手を、奴の腹のあたりで組んで暴れないよう防いでいた。早川さんは落ち着かせようと言葉を投げかけているようだ。
奴はなぜか泣いていた。さきほどまでの馬力は消え失せ、ただの泣き虫のクソガキに姿を変えていた。助かった。もう大丈夫だ。奴のパニックは涙をもって完結するのがお決まりだ。
俺は壁に掛けられた時計の時刻を確認した。午後三時。それは、利用者たちが作業所での仕事を終え、送迎車に乗って帰る時間帯であることを意味する。
俺は扉を恐る恐る慎重に開けて、様子をうかがった。早川さんの穏やかな声掛けが彼をさとしている最中だった。
「な、帰ろうな。今からおうちに帰ろうな。早川さんと一緒に帰ろう。早川さんが車運転してあげるから」
「帰る・・うぅうぅ・・帰ったんだぁ・・帰ったよぉ・・ひぐっ」
早川さんがt君から身を離すと、彼は手で自分の腹の脂肪を鷲掴みにつかんで、ふぐ、ふぐ、ふぐ、とうめいたのち、エレベーターの方に歩き始めた。早川さんがそのあとを追う。
それまで、きっと何もできずに棒立ちだったであろう、植松さんが歩く二人の脇を小走りで先回りしてエレベーターのボタンを押した。
二人がエレベーター前に着くと同時に扉が開いた。二人が乗り込むと、ドアが閉まります、とアナウンスが聞こえ、閉まった。
廊下には俺と植松さんだけが残された。今頃、一階の玄関付近では、送迎車に乗り込む利用者たちでごちゃごちゃしているはずだ。その証拠に下からは、利用者を誘導せんとする職員の大声が響いてくる。そこに混じって聞こえてくるのは、やはり狂気の笑い声。この声から察するにおそらくd君の声だろう。あと、誰かがぴょんぴょん飛び跳ねまわっている気配もある。
植松さんがため息交じりに、ぼそりと言う。
「いやー今日はしんどかったなー。玉田さん、肩大丈夫ですか?」
「ああ、まぁ一応、大丈夫ですけど、散々な目にあいましたよ。t君、なにが原因で怒ってたんでしょうね。なんか、お母さんとか、おやつ、とか言ってましたけど」
「さぁ・・」
「分からないですよねー・・・」
しばしの沈黙。ここにいても仕方がない。俺はt君が正座していた、身体障害者トイレの開けぱなしドアを閉め、植松さんに言った。
「じゃ、僕らも下おりましょか」
俺たちは早歩きで階段を下った。
ひとまず、今日という悪夢の一日がこれで終わる。利用者たちを送り届ける車は全部で四台だ。キャラバン車が二台、車椅子の利用者も乗せることが可能なリフト車。そして、t君が単独で乗る、ごく普通の商業車、となっている。送迎車の背面を見送ると、俺は大きく息を吸ってはいた。作業所には自宅の車で送り迎えされている二名の利用者だけが残っているが、この二人は目を離しても特に問題行動を起こさないので実質的に、いないといっても同然だ。一人は自閉症のs君。いつも食堂の壁の方を向いて、手の平をグーパーグーパーと開いたり閉じたりして母親の迎えを待っている。もう一人は下半身不随の車椅子の女性障害者のyさん。知的にはまったく問題がないため、健常者と変わりなく会話が成り立つ。
俺はこの瞬間が好きだ。連中の乗る車が遠くに小さくなって、道を曲がって見えなくなる瞬間が。歪んだ世界が元通りになってゆく、身体にのしかかった重たいお荷物が消えてなくなっていくような軽やかな感覚につつまれた。俺は思いっきり伸びをして、事務所に入ろうとしたが、さっきt君に噛まれて脱いだ服を洗濯していないことに気が付き、急いで作業室に取りにいった。
一階の裏口を出てすぐ、施設の外に設置してある洗濯機に服を投げ込み、洗濯粉をすくってスタートボタンを押した。蛇口から水が注がれ、ゴロゴロと音を立てて動き始める様子を俺はその場で立って見守った。そういえばもうすぐ梅雨の季節だな。適度に温かい風が心地よい。今日は晴れているから服はよく乾くだろうが、これから先どんなことでまた服が汚される日がくるかわからない。俺はその日も晴れた日だったらいいのになと思った。いや、そもそも汚されるような事態がもう起こらないことを心から願った。
さて、そろそろ事務所に戻って仕事をしないと。俺が施設に入ると、後ろで裏口のドアがパタンと閉まった。
基本的に俺は送迎の担当から外されているので、この時間は事務所の自分の机でサービス提供記録を書く。これはいわば、タイムカードのようなもので、利用者の来所・退所時刻、作業した合計時間などを記入し、これをもとに彼らの給料が支払われる。自己管理はおろか、読み書き、ごく単純な足し算もできない利用者がほとんどなので、事務的な処理は職員が肩代りしなければならないのが現状だ。
彼ら利用者たちの帰る場所は、自宅であったり生活支援ホームだが、s君やyさんように、作業所の送迎に頼らずに保護者が自家用車で迎えに来るパターンもある。
俺の隣の机で提供記録を記入している福田さんはこの時間の俺の主な話相手だ。おそらく四十歳前半だと思うが、きれいにカットされた茶髪のボブヘアが若々しく見せている。笑顔を絶やさないほわほわとした人だが、言うことを聞かない利用者を注意するときに出す穏やかな低い声は、相手をハッとさせてしまう威圧感がある。年下の俺にもいつも敬語を使って話かける人だ。
「福田さんお疲れさまです」
「ふふふ、玉田くんお疲れさま。今日はなんだか大変だったみたいですね」
「そうなんですよ。俺は肩噛まれて服つかまれて。早川さんは髪の毛掴まれてトイレのドアに叩きつけられてました」
「ええー」
福田さんは目を見開いて驚いてくれた。俺としても、期待どおりの反応が返ってきてうれしくなった。俺が痛みつけられたこと、とにかく誰かに理解してほしかった。職員から利用者への暴力は虐待として、世間では敏感に反応されるのに対し、利用者が職員へ加える傷害行為は、仕方のないこととして抑圧される。まったく理不尽だ。
「私は一階でmちゃんのトイレ介助入ってたんで、上でそんなことが起こってたなんて全然知らなかった。なんかすいませんねー、大変だったのに」
「いえいえそんな」
ああ、そうか。そっちはそっちでキツい仕事をしていたんだな。
mちゃんは車椅子の女性利用者だが、彼女以外にも車椅子は四人いて、しかも全員が女性だ。当然、介助に入るのは女性職員となるので、俺には、トイレ内で一体どんな手順で支援が行われているのか分からない。ただ時々、福田さんと前畑さんが、抱きかかえて持ち上げるの重たいわー、と楽しそうに話しているところをよく目にしたことがある。正直、利用者が用を足す行為を間近で見なくて済んでいる俺はラッキーだと思っている。
「玉田君、怪我はなかったんですか」
臭いとか音とか、とてもじゃないが俺には無理だ。それに利用者の方だって職員に至近距離でジロジロ見られながら排泄行為をするとか、どんな神経しればできるんだ
s君の母親はいつも笑顔で、こんにちは、と挨拶して迎えに来る。
今だってそうだ。事務所の窓の向こうで、作業所の駐車場に車を止めるs君の母親が見えた。俺はボールペンを置いて席を立ち、食堂へ向かう。食堂の、ちょうど壁と壁が九十度に交わるあたりの片隅で、壁のほうを向いて立つs君に、お母さんが来たよ、と声掛けした。すると、いつものように、きたよ・・きたよ、と俺の言葉をマネし、床に置いてあったリュックを背負って歩き出す。言葉をオウム返しするのは、どうやら自閉症の特徴らしく、この作業所に来ている他の自閉症の利用者たちにもみられる行動だ。
s君は今日も元気に作業をがんばっていました、本当にいい子ですね、と母親に報告する間、s君はずっと目をつむって独り言。母親は満面の笑顔を浮かべているのに、顔の法令線や目尻のシワが深く刻まれているのを見ると、ああやっぱり苦労しているんだな、とつい勝手ながら解釈してしまう。
障害者。それはしばしば、個性という、あまりにも変哲なく、残酷で、美しい言葉で片付けられる存在。