7
自分の部屋に帰ってきた俺は、自分で作ったチャーハンをたらふく平らげた。
朝食ぶりの栄養は心地よく体に染み渡っていった。
咲乃から言われていたのだ。夢世界に行っている間、こちら側の体は普通に新陳代謝を行っている。
きちんとした栄養管理を行っていないと、いざというときに体調を崩しかねないとのことだ。
シャワーを浴びてべたついた汗を洗い流し、熱い風呂に体を埋めた。
髪を乾かすのももどかしく、ベッドの上に体を投げ出す。
耳を澄ましても、何も聞こえない。
一人部屋にいると、漫画を貸してとノックも無しに入ってくることも、慌ただしく廊下を走り回る音も聞こえない。
今、この家に俺はただ一人。
もう一人の住人は、今このときもベッドに横たわり、機械によって生かされている。
父さんと母さんを失い、面倒を見てくれていた祖父を失い、今妹までを失おうとしている。
寝間着にしているパーカーのポケットに手を入れる。
中から翡翠のペンダントを取りだした。
チェーンを掴んで掲げ、その石を天井にあるライトに掲げる。
緑色の光がきらきらと光る。
丁度そのとき、枕元にある目覚まし時計が電子音を奏でた。
「時間か」
咲乃から指定された時間は午後十時。
その時間になったら夢世界に渡るようにと指示を受けている。
好き勝手なタイミングで行って、また面倒なことに巻き込まれてはということだ。
手元にあるリモコンで明かりを消す。
ペンダントを首にかけ、再び横になる。
右手で、刃の形をした結晶を握りしめた。
「連れて行けよ。俺を、あの世界に」
すっと意識が掠れていくと同時に、視界に闇が閉ざし始める。
眠ることはまるで違う。
この世界、現世から、あの異世界、夢世界へと渡るのだ。
再び視界が光が入ってきたとき、すぐ目の前に少女の顔があった。
「うおぉっ!」
慌てて下がろうとしたが、俺はなぜかベンチに座っており、ベンチを伴って後ろに倒れた。
後頭部をしこたま床にぶつける。
「ぐっ、いっつぅ……」
呻きながら体を起こすと、俺の目の前にしゃがみ込んでおかしそうな笑う咲乃の姿があった。
「ふふふ、動揺しちゃって。蓮司君って意外に可愛いところあるね」
咲乃は細い指で俺の頬をふにふにと突く。
「……そりゃいきなり目の前に顔があったらビックリするだろうよ普通」
熱く火照る体を悟られまいと、頬をつつく指を押しのける。
立ち上がって、辺りを見渡す。
その場所は俺が夢世界から現世へと帰った場所だった。
一番初めを除いて、その後の夢世界に現れる場所は以前帰還した場所になるらしい。 だから咲乃は俺がここにくることを知っていたため、この場所に来ることができたのだ。
「時間通りね。さ、行きましょう」
咲乃は立ち上がると壊れた自動ドアに向かって歩き出した。
俺もすぐに後を追う。
「雫は、この近くにはもういないのか?」
「うん、いない。いれば戻ることができるのよ」
「どういうことだ?」
咲乃は銀行の外へと出た。
目の前に広がるのは、相変わらず退廃した街の景色だった。
崩れたビルや家屋、それを覆うように草木がお互いを押しのけ合うようにして茂っている。
「蓮司君、ちょっと護符に触れて見てくれる?」
咲乃はそう言いながら、自分も自らの護符であるヘッドホンに触れた。
「ん? これに?」
翡翠のペンダントに触れると、視界の隅が僅かに揺れた。
「見えるかな。空から色が漏れているの」
「ああ、わかるよ」
俺たちの上に広がる空は、薄い雲に覆われていた。
雨が降るような空ではないが、それでも見渡す限りの曇り空だ。
その空から、まるでオーロラのように淡い虹の光が漏れている。
それは大きな円を描いているようで、俺たちの少し前からずっと先まで広がっていた。
「あれが、私たち旅人の加護。私たちはあの加護の範囲からなら、護符を使って現世に帰還することが出来るの」
「そう言えば、雫が加護の範囲内とかって言ってたな」
加護内であれば俺たち旅人は現世に帰ることができる。
遠くは掠れて見えなくなっているが、加護の範囲は相当広く見当が付かない。
しかし、わかったことが一つある。
「つまり、雫が帰って来られないのは、こちら側の世界で死んだからなどって言うことではなく、単純にあの加護の外に行ってしまっているから現世に帰って来られないってことか?」
「……その通りよ」
咲乃は気落ちした様子で頷いた。
「ひとまず、街に行くわ。詳しいことは、そこで話すから」
「街? ここじゃなくて?」
「こんな寂れた場所じゃなくて、本当の街よ」
咲乃はそう言って、退廃した街を歩き始めた。
その後を追いながら、俺はふっと湧いた疑問を口にした。
「これからすぐに雫を助けにはいけれないのか?」
すると咲乃は眉を曲げてじとっとした目を向けた。
「蓮司君。この世界を甘く見ちゃいけないよ。蓮司君が以前来たときにも見た魔物。あんな化け物がこの世界に跋扈している。この夢世界と現世の違いを挙げたらきりがない。蓮司君は雫ちゃんを助けに行くよりもまず、この世界のことを知らなければいけないの」
咲乃に言われた言葉に、ぐうの音も出なかった。
気がはやっていたことはある。
一週間近くも目を覚まさない雫の原因がわかり、それをどうにかできると言われる場所まで来たので、当然と言えば当然なのだが、それではダメだ。
雫が帰れなくなった理由や、この世界のことをきちんと学ばなければ、最悪雫の二の前だ。
「わかった?」
咲乃が確認を求めてくる。
「……わかった。すまん」
「いや、別に謝ることじゃないよ。はやる気持ちはわかるからね」
咲乃は苦笑しながら地面に転がっていた石を蹴り飛ばした。
「でも、本当に知ってもらわないといけないんだよ。この世界は、私たち人間に優しくない。現世とは似ても似つかないくらいに変わってるの。だから、蓮司君にはまずそこから知ってもらわないといけないんだ。ごめんね」
「いや、咲乃が謝ることでもないだろ」
先ほど咲乃が口にした言葉を俺も言って、お互いに笑い合った。
銀行を出てすぐの場所は、俺が初めてこの世界に来て魔物に襲われた際の傷跡が残っている。
俺は周囲に目を向けながら退廃した街に目を向ける。
十分ほど歩くと、建物の影に隠れるようにして一台の車が止まっていた。
迷彩色の軍用車、ハマーだ。
「乗って。これで街まで移動するから」
咲乃は助手席の扉を開けた。
「蓮司君は後ろに。こっち側からね」
咲乃に指示された通り、俺は後部座席の扉を開けて咲乃の後ろに乗り込んだ。
「……」
後部座席の奥側、運転席の後ろに毛布で包まれた塊がある。
ベージュの毛布によってぐるぐる巻きされた塊は、もぞもぞと奇妙に動いている。
気にするのはよそう。
俺はそそくさとハマ-に乗り込む。
「やぁ、ルーキー君。久しぶりね」
突然、毛布の塊の前、運転席から声をかけられた。
運転席に座っていたのは、小麦色の髪を持つ美女だった。
「姫神さん……見かけによらず、えらいカッコいい車に乗ってますね」
「……開口一番言うことがそれ?」
姫神さんは運転席で苦笑していた。
運転席に座っていたのは、俺が初めて夢世界にきた際にあった姫神真奈さんだった。
「あのときは助かったわ。巻き込んで悪かったわね」
「いえ、どっちかっというと迷惑かけたの俺なんじゃないですか? あの状況」
「……まあそういう面がないわけではないわね」
姫神さんはあの時近くに魔物がいることをわかっていた。つまりは隠れながら移動をしていたのだろう。
そこに事情も状況も全く知らない俺がのこのこと歩いていたため、見るに見かねて声をかけ、それをきっかけに魔物に見つかってしまったのだ。
「でも、篠崎君は初めてこっちの世界に来たんでしょ? なら仕方ないわよ。気にしないで」
そう言って、姫神さんはハマーのエンジンをかけた。
重いエンジン音が響いて、車がゆっくりと走り始める。
「事情は大体咲乃から聞いているわ。雫を助けに行くのでしょう?」
「はい。たった一人の妹ですから」
運転席に座る姫神さんが、バックミラーを通してこちらに視線を向けた。
「へぇ……頼れるお兄ちゃんね」
「からかわないでくださいよ」
「まあでも、篠崎って聞いた段階で疑問には思ったのよね。でも、まさかあの雫の兄だけとは思わなかったけれど」
姫神さんのその言葉に、隣に座っていた毛布の塊が動いた。
「私も……ビックリした……」
全身を毛布にくるんでいた影から、毛布がずり落ちる。
中から出てきたのは巨大なクマのぬいぐるみだ。
隣に座る小柄な子が抱えるほど大きなぬいぐるみだ。
その座っていた人物に、俺は再び目を丸くした。
「こんなところで何やってんだよお前……」
くせっけのようにあちらこちらに跳ねている茶髪の少女。
こちらに向けられている目は眠そうに垂れており、今にも閉じそうにうつらうつらとしている。
中学生と言われてもおかしくないほどの小柄な体系だが、胸には女性特有の立派な膨らみを抱えている。
ポロシャツの上から薄手のカーディガンを纏い、下は膝丈までのスカートだった。
そのアンバランスな出で立ちは、俺の知っている同級生に他ならなかった。
「よっ……蓮司」
「よっじゃねぇよ。お前なんでこっちにいんだよ音夢」
「だって……私旅人……だから……」
今にも寝てしまいそうに首をかくんかくんと落としながら、少女は呟いた。
「お前が、旅人?」
俺ははっきりと顔を引きつっているのを感じた。
彼女の名前は澄川音夢。
俺が通う常澤高校の生徒だ。
それも俺と同学年な上に、一年からのクラスメイトでもある。
俺と同じく授業を休む割合が非常に高く、問題コンビとして先生たちの間では有名だとかって野々宮先生から聞いている。
しかしもっぱら悪いのは俺で、音夢には理由があるので怒られたりするわけではないのだが。
助手席に座る咲乃が、笑いながら言った。
「さすがに音夢ちゃんとも知り合いだとも思わなかったわよ」
俺も思わなかったですよ……。
俺と音夢は保健室でよくさぼる中として、クラスの女子ではよく話す方だと思う。
しかしまさか、こいつも旅人であるなどと、誰が予想できるものか。
「お前はいつからこっちに来てたんだ?」
「三ヶ月……くらい前かな……」
音夢は本当に眠たそうにうつらうつらと呟いた。
単純に睡眠不足だからというわけではなく、こいつは前々からこういうやつなのだ。
超マイペースでつかみ所がない。
「蓮司より、先輩」
「やかましい」
事実先輩に当たるだろうがこいつを先輩と思うのはなんか嫌だ。
音夢はおっとりと笑うと、ぬいぐるみに顔を埋めた。
「雫ちゃんを、助けに行くんだよね?」
「当たり前だ。言ってやらないといけないことが山ほどある」
「はは……雫ちゃんもよくいってた」
嬉しそうでありながらどこか寂しそうに、音夢が笑う。
助手席から咲乃が顔を覗かせた。
「蓮司君、私たちは一人じゃないよ。皆で雫ちゃんを助けよう」
ハマーは退廃した街を一時間ほど走っていった。
魔物は結局一度も見かけることがなかったのは幸いだ。
ハマーが進んでいくたびに、景色は姿を変えていった。
退廃していた景色は進むにつれて薄れていき、徐々に廃れていない街が見え始める。
「この辺りは、普通に人がいるんだな」
「さっきまで私たちがいた場所は、魔物の襲撃を受けるから生活が出来なくなった場所なのよ」
運転をしながら姫神さんが説明してくれる。
「あなたたちが見えるっていう加護の範囲内は、あまり魔物が攻め入ってこないのよ。だから、街は反映したままの姿を保っていられる」
やがてハマーは綺麗なアスファルトで鋪装された車道へと入った。
そして、本当の街にやってきた。
「ここが私たちが住んでいる街、ミナトよ」
そこは俺たちの現世と同様の発展を見せた街だった。
ハマーなどと言う高性能の軍用車があったことからも予想していたが、この世界の技術力は決して低くはない。
むしろ、現世と同レベルの技術がある。
街の中心には高層ビルがお互いを押しのけ合うようにして立ち並んでいた。
ビルから距離のある今俺たちがいる街の外れは、たくさんの民家が並び立ち、さらに外には広大な田や畑が見渡す限り広がっていた。
まるで、この街に全ての機能を詰め込んだように見える。
おそらくだが、あれだけの田畑があれば、自給自足で生活をすることは可能だろう。
住宅街が立ち並ぶエリアを抜けて、都心部の外れにあった大きな洋館の前で、ハマーは止まった。
一体どこの国から引っ張ってきたんだと思うほど大きな屋敷で、明らかに周りの建物より浮いていた。
「ここが私の家よ」
姫神さんがハンドルの横にあった装置を操作すると、洋館の扉が開いた。
ハマーは切り返して後退を始めると、そのまま洋館のエントランスを潜って中に入る。
「さてさて、今日のお宝を降ろすから手伝ってもらえるかしら」
姫神さんは車を降りると、バッグドアを開けて後部座席のさらに後ろに積まれた荷物を手に取った。
俺もすぐに降り、積まれていた荷物の一つを手に取る。
古い木箱には、ガラクタのような大量に詰め込まれていた。
「何ですかこれ」
「だから言っているじゃない。お宝よ。お宝」
どうみてもガラクタにしか見えないんですか……。
というのは目をきらきらとさせる姫神さんには言えなかった。
箱に積まれたガラクタ、もといお宝を見る姫神さんの目は、まるでおもちゃをもらったばかりの子どものように見えた。
咲乃は慣れているのか残っていた小ぶりな箱を掴んだ。
「大丈夫か?」
「うん、慣れてるから」
やはり慣れているようだ。
音夢は車からぬいぐるみを引っ張り出しながらのそのそと出てくると、ふらふらとした足取りで俺たちの後を付いてくる。
さらに奥に進んでいくと、やがてドックのような部屋に出た。
いくつもの作業台に、工具などが壁に掛けられており、俺たちが持って帰ってきたようなガラクタが所々に並べられている。
「さ、その箱は作業台に置いてくれる?」
俺よりを大きな荷物を持っているはずの姫神さんは軽々と作業台に箱を降ろした。
俺と咲乃も箱を作業台に降ろした。
「一体これは何なんですか?」
「だから、お宝だよ。私はトレジャーハンターなの。そして――」
箱の一番上にあった壊れた電動ドリルのようなものを取り出して手に取った。
それは光を放つと、徐々に形を変えていった。
やがて俺が驚く視線の先で、光が消えた。
「【復元】の能力所持者よ」
姫神さんの手の中には、電動ドリルが新品のような綺麗な姿で修復されていた。
近くにあったコンセントにコードを繋ぐと、先程まで明らかに動く状態でなかったにも関わらず、先端のドリルが回転して機械音を奏で始めた。
「復元の……能力?」
姫神さんは電動ドリルを別の作業台に移し、新たに壊れた携帯電話を手に取った。
「そうよ。あなたたちの世界では、こういう能力ってないのよね? まあ、こっち側でも昔からあったわけではないけどね」
再び携帯電話が光を放ち、液晶が割れていくつかのボタンが飛んでいた携帯電話は、電源が入る状態にまで復元された。
「異能力……?」
不意に口からそんな言葉がもれた。
「まあ、そんなものよ」
姫神さんは次々に壊れたものを手にとって、過去にあったであろう綺麗な状態に復元していく。
「もしかして、この間魔物に襲われたときに槍を持ち出したのも……」
「その通りよ。槍を砕いた破片を持っていたの。それを基点に元々の姿を復元したのよ。ま、戻せるものや数にも限度があるのだけれどね」
姫神さん曰く、たとえば槍の破片から復元できる槍の数は一つのみらしい。
姫神さんの能力はそのものが過去に存在していた姿まで遡り、その姿にトレースすることで過去の状態に復元するのだそうだ。
しかしそれは基本的に一度しかすることができないらしく、たとえば一度槍の破片を復元してしまえば、他の破片から槍を作ることはできないらしい。
「とまあ、私はこれで壊れたものを直すのが私の仕事」
「……」
驚きのあまり言葉が出なかった。
「さあ、私はこれから仕事をするから、ガキンチョどもは上で話しなさい。咲乃と音夢。蓮司にしっかりここのことを叩き込んどきなさいよ。あんたたちの世間知らずには毎回苦労させられてるんだから」
「わかってるよ」
咲乃は慣れたように言うと、工場の奥にある扉へと向かっていった。
俺が次々に復元されていくジャンク品に目を奪われてると、背中をぬいぐるみで押された。
「さっさと言って、遅刻魔」
「お前にだけは言われたくねぇ」
毒づきながらも、俺は咲乃の後を追って扉まで歩いて行った。
音夢は俺を急かしておきながらのんびりとした足取りでマイペースに歩いている。
俺はため息を吐いて速度を落とし、音夢の隣に並んだ。
「お前、病気の方は大丈夫なのか?」
「んー? 問題……ない。こっちだと、そういうのないから」
「そうなのか?」
「うん、この体、借り物だし」
「借り物?」
音夢の口から出た不可解な単語に思わず眉をひそめる。
音夢は大きくあくびをすると、抱えているぬいぐるみに頭を押しつけた。
「蓮司も、咲乃の話を聞いて……。ちょっとした、パラダイムシフト」
確実ちょっとではない気がした。
咲乃は扉を開けて待っており、親しげに話す俺たちを意外そうな表情で見ていた。
「音夢って、本当に蓮司君と知り合いだったんだね」
「疑ってた……の?」
「いや、そういうわけじゃないけど、それでも、旅人同士が元々の知り合って、中々ない確率だと思うから」
「……確かに私も雫とも咲乃とも、あれとも知り合いではなかったけれど」
あれという人物が気になったが、どうやら俺たちの他にも旅人はいるらしい。
咲乃は苦笑しながら扉を入っていき、俺と音夢も続く。
そこから階段を上っていき、おそらくは屋敷で一番高い部屋へと入っていた。
通されたのは執務室のような部屋だった。
中心にはしゃれた机と椅子があり、大きなソファーやカップや食器などが収められた戸棚、書物などが並べられた本棚もある。
正面と左右は一面が窓になっており、周囲の街が一望できるようになっている。
「適当に座って」
咲乃が言うよりも早く、音夢はのそのそと動き出しており、ソファの上に倒れ込んだ。 俺は、中央にある椅子を一つ引いて腰を下ろした。
高そうな机にすっと指を滑らせる。
つるつるの肌触りのいい木が指を撫でた。
だが、指先には少しの埃がついていた。
「あはは、ごめんね。こういう場所の掃除はいつも雫ちゃんがやってんだよね。だからどうしてもほったらかしになっちゃって」
「そんなところにけちをつけるつもりはないけど、アイツの役割なら俺が代わりにするよ」
端にあった流しで布巾を濡らして机の上を綺麗にしていく。
雫はこういう汚れが嫌いなやつだった。
ただそれを口にしようとはせず、単純に自分が嫌だからという理由で掃除を行う。そういうやつなのだ。
ここに、このにわかには信じがたい世界に、あいつはやってきていた。
その傷跡が、はっきりと残っている。こういうところにも、ここにいる人たちの中にも。
咲乃はケトルで湧かしたお湯でコーヒーを三つ入れると、俺のところとソファー脇にある明らかに音夢用のキャビネットの上、それから自分が座る俺の正面にコーヒーを置いた。
「砂糖とミルクはいる?」
「いや、このままで大丈夫だよ。いただきます」
咲乃が淹れてくれたコーヒーに口をつけた。
さっぱりとした苦みが口に広がっていく。
「おいしいな」
「そう? ありがと」
咲乃は照れたように笑うと、自分もコーヒーに口をつけた。
横目に音夢を見ると、ソファーに横になったまま仰向けにちびちびと器用にコーヒーを飲んでいた。
なんともお行儀の悪い光景だったが、いつもの光景なのか咲乃は何も言わなかった。
「さて、蓮司君にはまず、この世界のことから説明しないといけないね」
咲乃はコーヒーを飲みながら話し始めた。
「まずこの世界は、私たちが夢世界なんて呼んでいるけれど夢ではない。きちんとある、一つの世界なの」
それは十分にわかっている。
今感じている感覚が、夢であるはずがない。
「この世界は、私たちが住んでいる世界の、パラレルワールドなんだ」
「パラレルワールド? 平行世界ってことか?」
「その通り。十年くらい昔までは、ほぼ完全な同じ世界だったんじゃないかって言われてる」
十年前。
その間に何があったのかは、なんとなく想像がついた。
椅子に深く背を預け、小さく息を吐く。
「その十年前に何かがあって、この世界は退廃した場所があるってことか」
咲乃は寂しそうに頷いた。
「一体、何があったんだ?」
「今から十年前、この世界の九割の人間が、一夜にして消滅したの」
消滅。
死亡したでも行方不明になったでもなく、消滅したと、咲乃は言った。
この世界には、十年前までは俺たちと同じ程度の人口が存在していたらしい。
しかし、たった一晩の間に、全ての世界が作り替えられた。
「魔族。それが全ての始まり」
咲乃は苦々しげに呟く。
「あの生き物は、そもそもこの世界に存在していい生き物ではない。魔物は、他の世界からの侵略者なの」
「他の世界? パラレルワールドじゃなくてか?」
「そうだよ。平行世界なんて近い世界じゃなくて、本来行き来すらできない世界。その世界から無理矢理こちら側の世界を侵略しようとしてやってきた。私たちは魔族って呼んでいるけれど、その侵略者が世界を歪ませて侵略してきた。魔物なんかがそうだね。その結果、この世界のバランスが一気に破壊されて、この世界の人間の大部分は一瞬にして消えた。世界のキャパシティが大幅に減少してしまったんだ」
世界のキャパシティ。
一つの世界には、何かしらの存在を収容できるキャパシティがあるのだと、咲乃は言った。
無限に存在できるものなどない。
だから世界は平行世界や異世界という形で分岐を繰り返し、キャパシティの限界をカバーする。
しかし、その絶対普遍のルールを、魔族は破った。
世界を超えて、別世界に侵攻した。
その結果、キャパシティが大幅に減少し、溢れた人類が消滅したのだ。
「百の内九十くらいを人類が閉めていたのに、そこに侵略者がやってきた結果、キャパシティが十くらいに減っちゃったんだ。そして、九十の内の八十が世界の収容量を追いやられて消滅した」
あの退廃した街。
あそこには間違いなく十年前までは人々が生活していた。
しかし、抵抗すらできないまま世界から追い出されるようにして、消滅した。
さらに魔物の出現により、ここ十年でずっと減少している。
このミナトという場所は、世界で数少ない人類だけによって築かれた砦なのだという。
咲乃は右手でヘッドホンに触れた。
「そして、この世界の人間の存在は、あやふやなものになってしまったの。でもその代償として、人類はある力を手に入れた」
咲乃が手を空中に向ける。
「自身の存在の力を操り、それを力に変える力」
俺は目を見張った。
咲乃の手のひらに、白い渦のようなものが渦巻いているのがはっきりと見て取れた。
それは、風だ。
咲乃は自身の手に渦巻く風を見て笑った。
「私は【風】の能力者だよ。魔族に対抗するために最も有効な力。全員ではないけれど、私たちはこの力を用いて、戦うの」
異能力。
常識外れの存在に立ち向かうための、常識外れの力。
咲乃は風を握りつぶすように消すと笑みを作って俺に向けた。
「ここまでは大丈夫?」
「ああ、俺的には、その話からどうやって雫が帰ってこれなくなたかってのが気になるな」
「まあそうだろうね」
咲乃は苦笑してコーヒーを一口飲んだ。
「蓮司、今咲乃が話している話は、重要なんだからしっかり聞く」
「……ソファーでごろごろしているお前にそんなこと言われたくねぇぞ」
音夢は俺の言葉など意に介さないようにぬいぐるみを抱いたまま大あくびをした。
咲乃は目を細め、手元のコーヒーに落とした。
「最近、魔族の動きに変化が生じたんだよ」
「最近ってのがまずわからないんだけど」
「ただ単純に人を襲って、殺す。それが魔物の行動原理」
音夢が熊のぬいぐるみに拳を当てる。
「人だけを狙い、人だけを殺す。栄養源を一切必要とせず、ただ人を襲う。魔物の行動は、たったそれだけ」
「ちょっと待ってくれ。魔物はってことは、魔族ってのは魔物ことだけを言うのか? あいつらにあんな頭があるとは思えないけど」
俺が初めてこの夢世界に来た際に襲われた魔物。
ビルを乗り越えたり、迂回してきたりと少しは知能のある行動をしていたが、全て俺と姫神さんを殺すためだった。
そこに敵意や殺意、野生のような本能は感じられたが、知性というものが感じられなかった。
音夢が体を横に倒し、熊の顔をびよーんと引っ張って言う。
「魔物は、そう。でも、魔人は違う」
「魔人……?」
「異世界からの、侵略者、魔物を操る人ならざる、人」
「私たちの敵だよ」
席を立った咲乃は書棚から一冊のファイルを取り出して俺の机の前に広げた。
そこには何枚感かの写真が挟まれていた。
全身を黒い影で覆ったような異形な姿。
体全体に赤い炎を纏い、魔物を引き連れている姿が遠くから映し出されていた。
「魔人は存在の力を扱う。私たちが使う力は、元々は魔人が使っていたものなんだ。魔人が世界を歪めた際の余波でこの世界、夢世界の存在は著しくダメージを受けた。そして、それによって、異能力を使える人間が現れたこと以外にもう一つ、世界を超えてある変化をもたらした。それが――」
「旅人の出現、か」
「その通り」
咲乃が満足そうに笑って頷いた。
「私たちがこの夢世界から帰還できる、加護と呼ぶ存在。あれは、この世界に空いた、空間の穴なの。私たちが夢世界に戻るための唯一の道。それが加護の範囲になるの」
無意識に右手が翡翠のペンダントに伸びていた。
窓の外に視線を向けると、遙か彼方に微かに加護が見える。ここは加護の範囲内。ここからなら俺たちは現世へと戻ることができるのだ。
「現世側には加護は存在するのか?」
「私たちが知る限りの範囲では存在しないね。現世から夢世界には、現世のどこからでも行くことができる。でも、夢世界からはこのミナトを中心とした半径数十キロの範囲からしか現世に行くことはできない」
数十キロ。
その言葉が俺の中に重くのしかかる。
その範囲にいれば、どんな状態からでも戻れるということは、雫はその範囲にすらいない。
この世界のどこかにいるのかは、間違いなのだろう。
しかし、その距離はあまりにも遠い。
「ああ、それと、夢世界と現世では、昼夜が完全に逆転しているの。だからこっちの世界で日が沈み始めたら帰らないとダメだからね」
俺の心中を察してか、咲乃は射貫くように言った。
「蓮司君がこちら側でご飯を食べることも飲み物を飲むこともできるけど、現世にある体はただ眠っているだけ。今の雫ちゃんのようにね。だから、絶対に帰らないといけないからね」
「一日二日もの食べなくたって、人間は死んだり――」
咲乃が取り上げたファイルで俺の頭を叩いた。
「ダメったらダメだから。そんなことしてたら体を壊すから」
そう言って咲乃はファイルを書棚に戻した。
「私たちはなんとしてでも雫ちゃんを助けなければいけない。それは、一日二日で終わるものじゃない。常に、万全の状態を保てるようにするの」
「私を、見習うといい。常に、万全の状態。体力、マックス」
「……そりゃそんだけ脱力してたら体力もありあまっているだろうよ」
この部屋に入ってきてからソファで横になったまま最低限の動きしかしない音夢の姿は、正直現世以上に堕落している気がする。
咲乃は俺たちのやりとりを見て楽しそうに笑うと、再び席に腰を下ろしてコーヒーを飲んだ。