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俺の前に現れたのは、疑いようもなく、雫だった。
先ほど自室で眠ったはずの雫が、俺の前にいる。
これ以上ないほどの怒りを露わにして。
肩を怒らせながらずかずかとこちらに向かって歩いてくると、突き飛ばすようにしながら胸倉を締め上げられた。
「こんなところ何してるのよバカ蓮司!」
雫が本気でキレている。
「そ、それを聞くのは、せめて殴る前にしてほしかった……」
脳が揺れているからか先ほどの倦怠感がまだ残っているからか、体がまともに動かず立ち上がれない。
うまく立ち上がれずにバランスを崩してよろける。
そんな俺の近くに不自然な風が吹いたかと思うと、横から現れた誰かが倒れかけた体を支えてくれた。
「雫ちゃん、やり過ぎよ」
現れたのは長い艶髪にヘッドホンを掛けた咲乃だった。
「私たちの体が丈夫だと言っても、痛いものは痛いんだから」
痛いなんてもんじゃないがなというツッコミを入れたかったが、ついていかない頭にそんな余裕はなかった。
「それより、真奈さんの方をどうにかしてあげて」
咲乃の言葉に、雫は不満げに口を歪めたが、やがてそっぽを向いて倒れる姫神さんの元に向かった。
雫は姫神さんの側に駆け寄ると、体の様子を調べ始めた。
「蓮司君は大丈夫?」
「……全然大丈夫じゃない」
体ではなく、主に頭がついていかないことに関してだ。
見たこともない場所にいきなり来てしまったことに始まり、形容しがたい化け物に襲われ、理解ができない力を使った。
そして、その全てが信じられない今ここに、妹である雫とその友人である咲乃が現れた。
二人は状況を理解しているように、当たり前に振る舞っている。
雫は怒りを露わにしているのは間違いないが、それは状況が理解できないからではなく、俺がここにいることに関してのように思える。
雫は立ち上がると、咲乃に視線を向けた。
「咲乃先輩、真奈さんは大丈夫です。それはいいので、こちらをお願いできますか?」
ぞんざいな扱いをする雫に、咲乃は小さくため息を吐いて首を振った。
「それって……あんまりよ雫ちゃん。蓮司君、一人で立てる?」
「あ、ああ、大丈夫だ。俺より姫神さんを頼む」
咲乃は俺から体を離すと、姫神さんの元まで歩いて行く。
そして、入れ替わりに雫がこちらに歩いてきた。
俺の前に立つと、まったく嬉しくない上目遣いで下から睨み付けられる。
「……」
無言の睨みが非常に怖い。
「いつから、こっちに来てるの?」
有無言わせぬ雫が問うた。
「……いつからって何だ? お前は、何を聞いてるんだ」
雫の質問の意味もその真意も、俺にはまるで理解できなかった。
「……」
再び雫が閉口して睨み付ける。
「ここに来たのは、今日が初めてってこと?」
「初めても何も、どうやって来たかもしらん」
「……はぁ、バカ兄め」
雫は嘆くように深々とため息を吐いた。
そして茶色のコートのポケットからハンカチを差し出した。
「とりあえずこれで血を拭いて。血だらけの顔なんてみたくないから」
「……一応言っとくけど、半分はお前が原因だからな」
雫から受け取ったハンカチを顔に当てる。
血が流れ出して体の所々を赤く染めている。
すぐにハンカチが血を吸っていく。
受け取ったのはいいものの、ハンカチ程度で止血できるはずもない。
だが、裂けていた傷からは、既に血が止まっていた。
「……?」
指で触れてみると、雫に殴られて裂けた傷はまだ少し血が出ているようで濡れていたが、ほとんど血は流れていなく、痛みもほとんどなかった。
「この程度の傷大したことないの」
雫はハンカチを俺から奪い取ると、顔に押し当ててごしごしと拭き始めた。
「ちょ、お前待て待て! それはさすがに痛い! 傷がどうとうとかじゃなくて痛い痛い!」
「うるさいな! 文句言わないでよ!」
相変わらずこの妹は加減というものを知らない。
だが、だからこそやはり、こいつは俺の妹の雫なのだ。
俺の顔の血を拭き終わると、雫はハンカチを丸めてポケットに押し込んだ。
そして、雫は右手で左手首を触れた。
「……ぎりぎり範囲内、かな」
何事かを呟くと、雫は咲乃の方を振り返った。
「咲乃先輩、今日は帰ります。後はお願いしてもいいですか?」
「ええ、大丈夫よ。真奈さんはこちらで街まで送っておくから」
「すいません」
雫はそう言って咲乃に頭を下げると、俺の腕を掴んでぐいぐいと引っ張っていく。
そして、近くにあったビルに引きずり込まれた。
銀行のビルだったようで、百十二銀行という名前のポスターが貼られていた。
中は草が至る所に生えて溢れかえっている。
壁には広告や標語などのポスターも貼られており、それらは全て、日本語で書かれていた。
そんな光景に目を見開いていると、半ば突き飛ばされるようにして、待合室にある椅子に投げ出された。
「いってて……」
椅子の角に背中をぶつけて顔をしかめると、俺の目に雫が腕を組んで仁王立ちをした。
「で、持ってるものを出して」
「持ってるもの? 今何か持ってたっけか……」
身ぐるみを剥がされている気分だったが、素直に従ってきていたパーカーやズボンの中を探るが、眠りに就いたはずだったので特に何も入ってない。
「そうじゃなくて! ここ最近新しく身につけたものとかないのって聞いてるの!」
「いや聞いてないだろ……。新しいって言えば、これ……」
首に掛けているペンダントに触れる。
「拾いものだけど、これ?」
「どう考えてもそれ!」
どう考えてるんですか……。
雫の言っていることが理解できず、俺は呆れるしかなかった。
雫は俺の前に膝を突くと、そっと俺の手を掴んで、ペンダントを握らせた。
「お兄ちゃん、よく聞いて。ここから帰る方法は、たった一つしかないの」
「帰るって、俺どうやって来たかもわからないんだけど」
雫は小さく頷くと、子どもを諭すように告げる。
「自分がどこから来たのか思い出して。お兄ちゃんが最後にいた場所はどこ?」
雫の言葉を聞くと、不意に意識が掠れた気がした。
「俺は、自分の部屋で……」
「そう、自分の部屋で眠った。そのときのことをよく考えて」
まるで暗示に掛けられていたようだったが、徐々に意識が薄れていった。
眼前にある雫の顔が歪み、瞼が重くなっていく。
「お兄ちゃんは、帰るんだよ。自分の、私たちの、世界に――」
雫のその言葉を最後に、俺の視界は暗闇に閉ざされた。
Θ Θ Θ
「おわっ!」
叫び声を上げながらベッドから飛び起きる。
起きるとそこは、退廃した街などではなく、俺の部屋だった。
点けっぱなしの明かりが視界に入って目を細めた。
自然と息が荒くなり、先ほどまで忘れていた胸の動悸が激しく打つ。
苦しみ軋む胸を服の上から握り潰す。
「なんだ今のは……夢……か?」
つい先ほどまであったことが、鮮明に思い出される。
体に走った痛みも血の感触も、全てはっきりと思い出すことができる。
最初こそ夢と疑ったが、退廃した街で起きたことは、到底夢だとは考えられないほど現実味を帯びていた。
しかし、裂けて血が滴っていた頭部の傷も、所々破れていた服や血のシミも、跡形もなくなっていた。
「勘弁してくれよマジで……」
情けない言葉とともにため息を落とす。
と同時に、隣の部屋で乱暴に開けられる音がして、廊下を駆ける音が数歩分聞こえた直後、俺の部屋の扉が蹴り開けられた。
「あ、しず――」
現れた妹の名前を呼ぼうとした瞬間、駆け寄ってきた妹の拳が、顔面に振り抜かれた。
「ぐぱぁ!」
ひどいデジャブを感じたが、痛みのあまり何も言えなかった。
今度の痛みは、明らかに一度目に殴られたときよりもずっと痛かった。
「こんのバカ兄!」
あの場で聞いた怒声を再び耳にしながら、雫は馬乗りになって俺の体を押さえ込んだ。
「なんで来たのよ! あの世界に!」
雫の涙声が、胸に突き刺さる。
それと同時に、悟った。
やはり、先ほどまでのことは、夢でも幻でもない。
紛れもない、現実なのだと。
「と、とりあえず落ち着け!」
俺の上で暴れる雫を無理矢理引き剥がす。
雫はきつく口を結び、揺れる瞳を下に落とす。
ぺたんとベッドの上に座り込み、布団を握りしめる。
俺はベッドから下りると、殴られた顔を押さえる。
吹き飛ばされることはなく、雫の細腕の力だったとは言え、鼻がひりひりとして、たらりと鼻血が垂れた。
「いってぇな……」
床に置いていたティッシュで血をぬぐい取り、ゴミ箱に投げ込んだ。
雫が突撃してきた際に開けっ放しにした扉を閉める。
机から椅子を引いて腰を下ろすと、その上で足を組んで雫に向き直る。
雫はベッドにへたり込んだまま、顔を上げようとしない。
何かを耐えるように、押さえ込むように体を震わせている。
そんな妹の姿に、俺は鼻を押さえながら嘆息を吐いた。
「あれは、夢じゃない。そうだな」
雫は何も言わなかった。
しかし、それは答えには十分すぎるものだ。
沈黙はすなわち肯定に他ならない。
にわかには、信じがたいことだ。
あの世界のこともそうだが、化け物のこと、不思議な力のこと、雫たちのこと。
わからないことが、あまりにも多く、それと同時に理解ができない。
思い返すだけでも夢だと疑いたくなる。
だが目の前の雫はもちろん、あの世界で体験したことは、とても夢では片付けられないほどのものだ。
「お兄ちゃん」
黙っていた雫が口を開いた。
顔を上げ、微かに揺れた夢をこちらに向ける。
「あの世界のことは、お兄ちゃんは気にしないで」
「気にしないでって、気にするだろ」
雫に言ったことに俺は苦言を呈す。
「大体、またあの世界に行ったらどうすればいいんだ? 行き方すら俺は知らないんだぞ?」
雫はベッドから下りながら首を振った。
「だい、じょうぶ。お兄ちゃんがあの世界に行くことは、もうないから」
言葉を選ぶように視線を揺らしながら、雫は言った。
「そんなこと言ったって、どうやって行ったかもわからないのに、知らないうちに行ったらどうするんだよ」
「それは絶対にないから安心して。あの世界は、行こうとしない限り行ける場所じゃないから」
「それは、俺があの世界に行こうとしたから、あの世界に行ったって、ことか?」
「……たぶんそういうこと、のはず」
雫でも全てがわかっているわけではないのか、曖昧に言葉を濁した。
「一体、あの世界は何だったんだ?」
もう行くことができないのであれば、もう気にすることはないのかもしれない。
でも、尋ねずにはいられなかった。
あの世界で感じた痛みや血が、今でも記憶に焼き付いている。
生まれてこの方、あんな大量の血を見たことなどない。
それは恐怖以外の何者でもない。
だからこそ、怖いが故に知りたかった。
雫はベッドの上で膝を抱えると、顔を埋めて首を振った。
「もう、お兄ちゃんはあの世界のことは忘れて。考えるのもダメ。絶対に関わっちゃダメ」
「そんなこと言われたって――」
言い終わるより先に、枕が投げつけられて顔に当たった。
「忘れてっていってるでしょ! これ以上聞いたら、絶対に許さないから!」
雫は顔を真っ赤にしてそう怒鳴ると、俺の部屋を飛び出していった。
そしていつの間にか、緑鉱石のペンダントは、なくなっていた。
それからしばらくの間、雫とはほとんど会わない日が続いた。
雫が俺のことを避けていたのだ。
会っても生返事をするばかりで目を合わせようとはせず、あの世界の話など持ち出せる状態ではなかった。
朝起こしに来ることもなく、俺は寝坊をして連日のように遅刻をした。
どうにか早起きをして雫と一緒に行けるようにしようとしたが、俺が起きると雫はもう家にいないことが多かった。
朝食や夕食は、ほとんど雫が作っておいており、一緒に食べるということもない。
幸い、雫の言った通り俺があれからあちら側の世界に行くということはない。
寝れば普通に朝を迎えるし、本当にただの夢を見るだけだ。
そして、俺が初めてあの世界に行ってから、十日ほどが経った日のことだった。
雫が、眠ったまま目を覚まさなくなった。