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「何を、しているって……」
投げられた問いに咄嗟に答えようとしたが、知ってしまった事実にその先の言葉が出てこなかった。
意識すれば意識するほど、全てが鋭敏に感じ取れるようになる。
頬を撫でる風も、草木が揺れて奏でる音も、踏みしめたでこぼことしたアスファルトの感触も、あらゆることが夢とはかけ離れたものだ。
確かな現実に、今俺はいるんだ。
「いいからこっちに来て!」
有無を言わせぬ強い口調で言い放ち、女性は俺の手を引いて歩き始めた。
女性はおそらく二十歳手前ではないかというところ。茶色の帽子から零れた艶やかな小麦色の髪が項で結ばれて背中にたれている。今は口を結んで目を怒らせているが、相当な美人だ。
しばらく早歩きで退廃した街を進んでいくと、女性はぼろぼろになっているビルの一階に俺を引きずり込んだ。
壊れて止まった自動ドアをくぐり、女性は建物の奥に無理矢理俺を押し込むと、自分は入り口から体を覗かせて辺りをうかがった。
何かを探るようにあちこちに視線を配ると、安堵したようにため息を落とした。
「あなた、一体ここで何をやっているの?」
先ほどもした問いを、女性はもう一度投げる。
未だ状況が理解できずに混乱していたが、目の前の女性の真に迫った様子に俺は口を開く。
「わかりません」
しかし、口から出たのは素直な言葉でありながら、女性が求めていた言葉とは全く違っていただろう。
女性はきっと目を鋭くすると、こちらにずかずかと詰め寄ってきた。
「何がわからないって言うんですか?」
「……ここがどこかも、何をしていたかも、です」
自分で何を言っているんだと呆れるが、思ったことをそのまま話した方がいいと思った。
少なくとも、この人は悪い人ではない。そう感じたからだ。
この人が何を焦り何を心配しているのかはわからなかったが、俺の身を案じてくれているということははっきりわかったからだ。
少女は少し面を食らったように顔をしかめた。
そして目を見開くと、突然腕を伸ばして俺の腕を掴んだ。
女性の力とは思えないほど強力な力で締め上げられ、今度は俺が顔をしかめた。
続いて女性が息がかかるくらいまで近くに顔を近づけた。
綺麗な顔にすぐ近くで見つめられて、顔が熱くなるのを感じた。
やがて、女性がぽつりと呟いた。
「……あなた、【旅人】ね?」
俺は首を傾げて眉をひそめた。
「いや、別に旅をしてきたわけでは……自分探しをしているわけではありません」
女性はますますしかめっ面になり、嘆息を落とすとかぶりを振った。
「いえ、あなたは【旅人】よ。全く、なんでこんなところに……」
女性はぶつぶつと呟きながら腕から手を離して俺から離れた。
女性に掴まれた腕は赤くなっていた。
「あなた、名前は?」
「……篠崎蓮司です」
「篠崎? ふーん、まあいいわ。私は姫神真奈よ」
姫神と名乗る女性は、こちらを向いて言う。
「いい? よく聞きなさい。ここは――」
姫神さんの言葉を遮るように、轟音と衝撃が同時にやってきた。
先ほど俺たちが通ってきた入り口が吹き飛んだ。
ビルの外壁を突き破り、コンクリートやガラスの破片が散らばる。
「な、なんだ!?」
爆弾でも爆発したのかと思った。
炎こそ上がらなかったものの、ビルの入り口が丸ごと吹き飛んで空間全体を揺らしたのだ。
理解できないにしても、現象だけ見れば不意にそんな考えが頭によぎった。
だが、舞い上がった砂煙を突き破って現れたものに、俺の考えは完膚なきまでに否定された。
ビルを入り口を突き破って現れたのは、黒い体躯を持つ巨大な生物だった。
四つの手足で見るからに重量がありそうな巨躯を支え、後方には長い尾が生えている。
頭はワニのように突き出ており、いかなる物も簡単に噛み砕きそうな牙を持つ顎からはよだれが滴っていた。
全ての光に拒絶されたように、その体は全身が漆黒に包まれている。
体の半分はビルの外にあるため正確な大きさはわからないが、体長は十メートルを超えていた。
見たこともない生物。
しかしそれは、紛れもない化け物。
時間が止まったように、周りの音も動きも感じられなくなる。
俺の意識を現実に引き戻したのは、化け物の咆哮だった。
ビル全体を揺らす巨大な雄叫びに、空気がびりびりと音を立て、体が震え上がった。
続いて、砂煙の中から姫神さんが飛び出し、俺の手を掴んた。
「走って!」
杭のように地面に打ち付けられていた足が引き剥がされ、俺たちはビルの中に向かって走り出した。
奥に続く扉を蹴り飛ばし、姫神さんが駆け込み、その後ろに続く。
化け物は、俺たちを追って走り出した。
ビルのコンクリートを爪で粉砕し、体全体でビルを潰しながら俺たちに向かって一直線に向かってくる。
俺たちは狭い通路に駆け込んだにも関わらず、化け物は構わず間の部屋ごと潰しながら向かってくる。
姫神さんは後ろを振り向くことなく駆け抜け、ビルの裏口を開けると外に飛び出した。
俺が体を投げ出すように外に飛び退くと同時に、後ろで化け物の大口がバチンと閉じられた。
化け物が無理矢理ビルに突っ込んだせいで、ただでさえぼろぼろだったビルが倒壊して崩れてきた。
「早く立って走って!」
轟音を斬り裂くように姫神さんの声が飛び、俺は腕を地面に叩きつけるようにして立ち上がった。
走り出す同時に、先ほどまで俺が立っていた場所に巨大な瓦礫が落ちた。
姫神さんは既に化け物から逃げるように開けた大通りを走り出しており、俺もそれに続いて走り出す。
荒廃した街を、一目散に掛けていく。
走るたびに息苦しくなる呼吸も、打ち身や擦り傷ができているであろう体全身がきしむように痛みも、五感全てが鮮明に現実だと叩きつけてくる。
にもかかわらず、今俺たちを追いかけている化け物は、俺の知る現実とはかけ離れた化け物だった。
ビルが崩れ落ち、体を押しつぶすように落ちたことで押し潰された化け物が必至にもがいている。
それを確認してもなお、姫神さんは足を止めず、俺も必至に着いていく。
あの化け物が瓦礫によって押さえつけられているとしても、それは一時的なものだ。
すぐに、また俺たちを追いかけてくる。
そんな恐怖が足を止めることを許さなかった。
だが、俺たちは足を止めざるを得なかった。
「くっ――」
姫神さんが勢いよく止まって飛び退くと同時に、大通りのアスファルトに真っ直ぐ傷が入る。
俺たちの前に、新たな化け物が立ちふさがったからだ。
俺たちが駆けていた大通りの路地から通りにあった破棄された車を蹴散らしながら、俺たちの前に化け物が現れる。
全身が黒く染まった巨大な生物であることはさきほどの四足歩行のワニと同じだが、今度現れた化け物は姿が違った。
二足で立つ七メートルほどの巨体に、歪んだ頭部。一見人の頭部のようにも見えたが、頭部には散らばった四つの目があり、裂けたように広がる口からは不揃いな歯がもれていた。
そして、体から左右に六本三対の腕が生えており、腕全体がカマキリのように鋭利な鎌を持っていた。
口から唾液とも血ともわからない体液を飛ばしながら、六本の鎌を持つ巨人は奇声を上げる。
後ろを走っていた俺は姫神さんに追いつくと、よろけていた姫神さんの腕を掴んで後ろに投げ飛ばした。
直後、姫神さんが立っていた場所に何本もの鎌が突き立てられる。
身をかがめると同時に、頭上を風をうならせながら大鎌が通り過ぎていった。
すぐに投げ飛ばした姫神さんの手を掴んで助け起こすと、路地に向かって走り出した。
大鎌の巨人もすぐに追いかけてくるが、巨体が邪魔をして路地に入ってこられない。
巨人は無理矢理入ってこようとするが、ビルに激突していた。
「なんなんだよあいつら!」
見たこともない化け物に、俺は動揺を隠しきれなかった。
明らかに敵意、殺意をむき出しにした化け物たちは、俺たちを狙っていた。
後方を走る姫神さんは、息を荒くしながらも口を開く。
「あれは、私たち人類の敵、【魔物】よ」
「【魔物】?」
ファンタジーやゲームでしか聞いたことがない単語に、俺は顔をしかめた。
「ええ。人ならざる、化け物。私たち人を殺すため、だけに生きる、殺人生物です」 俺は視線を後ろに向けた。
先ほど大鎌の巨人は路地に無理矢理体を入れようとしているが、追うことを止めようとはしない
姫神さんの言うとおり、俺たちを殺すためだけに向かってきている。
「あんなのから逃げられるんですか!?」
「逃げなければ死ぬだけです! 主に私が!」
「いや俺も死ぬよ!」
冗談にもならない冗談を言いながら、俺たちは路地を抜けた。
また広い通りに出てしまったが、あいつらが確実に俺たちを狙っている以上、狭い路地に逃げ込んでばかりでは、挟み撃ちにされたら終わりだ。
あいつらが俺たちを見失っている隙にできるだけ広い場所で距離を稼ぎ、ある程度距離を取ることができたらやり過ごす。
咄嗟に、それが一番いい方法だと思った。
あんな魔物などと言う未知の生物に相対する方法など、俺は知らない。
ひたすら逃げるしかない。
しかし、化け物たちに俺の浅はかな考えなど通じなかった。
突然、俺たちが走るビルの屋上で何かの衝撃が走ったように瓦礫が飛んだ。
弾かれたように視線を上げると、ビルの屋上に先ほどの巨人の姿があった。
ビルをよじ登ってきたのだ。
信じられない思いで見上げたと同時に、巨人がビルの屋上を蹴って飛び上がった。
「――ッ! 止まれ!」
姫神さんの前に腕を伸ばして遮る。
俺たちが止まると同時に巨人が俺たちの走っていた進行方向に着地した。
足下のアスファルトが陥没し、俺の足が地面から浮いた。
その躱せないタイミングで、巨人の大鎌が俺に向かって薙ぎ払われる。
死ぬ――。
そんな絶望が頭を支配したそのとき、俺と鎌の間に姫神さんが入り込んだ。
間に割って入った姫神さんは手に何かを持っていた。
それは、棒状の金属だ。先端には大きな鏃のような物がついており、鋭く尖っていた。 銀色に光るそれは、二メートル近くある槍だった。
姫神さんは槍で薙がれた鎌を防いだが、受け止めきれるわけもなく、俺を巻き込んで吹き飛ばされた。
俺と姫神さんの体はビルの壁に叩きつけられる。
「がっ――」
肺の空気が一気に吐き出され、頭から流れ出した液体が顔を伝って地面に落ちた。
それは赤いシミとなって広がっていく。
鈍い痛みが全身に走っている。
霞む視線を動かすと、すぐ側で姫神さんが倒れていた。
俯せで倒れている姫神さんは気を失っているのか、ぴくりとも動かない。
俺たちの体を、影が覆った。
大鎌の巨人が、俺たちのすぐ前に立っていた。
歪んだ口がニヤリと笑ったように見えた。
嘲笑い、蔑み、見下す巨人は、緩慢な動きで鎌を振り上げる。
俺は痛む体を叩き起こして姫神さんの前に立ちふさがった。
だが、俺の体など何の盾にもなりはしない。
俺の体ごと切断されるだけだろう。
自分が死ぬ。
俺という存在が、父さんと母さんと同じように、消える。
あいつを、置いて――
そんな考えが頭をよぎると同時に、立ち上がった拍子に首に掛けていたペンダントがはねて揺れ、視界に入り込んだ。
緑色の結晶。
その向こう側にあるのは、今まさに俺に振り下ろされたいくつもの刃。
――そうだ。
結晶の、刃が、あれば、いい――。
頭の中で断続的に流れた言葉が、イメージとなって構築される。
そして、体の中から一気に溢れてきた。
視界で踊るペンダントの鉱石が光を放つ。
「がッッああああああああああああああッ!」
沸き上がってきたものを抑えきれず、それは砲声となって吐き出される。
放たれる。
眼前のアスファルトを貫いて、地面から無数の刃が飛び出した。
ガラスのように透き通る、緑色の結晶の刃。
何メートルにもなる結晶の刃は、鎌が俺たちに到達するより早く、巨人の体中に貫いた。
体中を串刺しにされた巨人は、体中から黒い血液のようなものを吹き出す。
振り下ろされた大鎌は、俺のすぐ目の前で制止している。
「ハァッ……ハァッ……」
突然体全体をひどい倦怠感が襲った。
立っていることができず、その場に崩れ落ちる。
体が軋むように鈍い痛みが走り、息が乱れる。
そんな俺の目の前で、巨人の体は砕け散るようにして飛散した。
そして灰のように崩れていくと、すぐになくなってしまう。
俺の前には、地面から突き出た無数の刃だけがオブジェのように残っている。
ペンダント同じ、緑色の結晶によって作られた刃。
空から注がれる光を受けて、きらきらと輝く刃は、とても綺麗に見えた。
だが、一瞬のうちに全体に罅が入ると、途端に砕け散った。
俺の周りを光の粒子のように降り注ぎ、それらもすぐに消えていった。
「一体、なに……が……」
何が起こったのか全く理解できなかった。
魔物という化け物の存在から始まり、目の前に突然現れた結晶の刃も、俺の平凡すぎる頭では理解できるものではなかった。
ただ、わかることが一つだけ。
あの結晶の刃は、紛れもなく俺の意思によって作られた物であるということだ。
咄嗟に俺の頭によぎったイメージが形になって現れた。
それだけは、なぜかわかっていた。
足ががくがくと震えている。
腕で額をぬぐうと、赤黒い血が伸びていた。
痛みも、感触も、何もかもが夢ではあり得ないものた。
しかし、とても現実とは思えないほどのことが、目の前で繰り広げられた。
「どうなってんだよこれは……」
俺の呟きは風邪に流されかき消され、誰にも届くことはなく、答えが返ってくることもなかった。
不意に、耳に地鳴りのような音が響いた。
リズムよく響く地鳴りは、左手から聞こえてくる。
ずっと遠くから、黒い塊が土煙を上げながら走ってきている。
それは、初め俺たちを襲ってきた魔物だった。
ワニのような姿の魔物は、さらながらトラックのようなにその塊が向かってくる。
「迂回してきたのか……」
あの四足歩行の体で壁面を登ることは無理だ。
だからあいつは体が通る道まで行ってきたのだろう。
また路地に入れば逃げるのは簡単だ。
しかし、姫神さんは気絶している上に、俺は体に力が入らずまともに立ち上がることさえできない。
「くそっ!」
どうにか立ち上がろうと力を込めるが、震えるばかりで役に立たない。
魔物はすぐ目の前まで来ていた。
もう一度、やれば。
震える指先が無意識にペンダントを掴む。
だが、俺が何かをする必要はなかった。
魔物が、突然地面に叩きつけられたのだ。
何かに躓いたようにバランスを崩している。
見れば、魔物の後ろ足が鋭利な刃物で切断されたように地面に転がっていた。
俺たちの前に、影が落ちてきた。
小柄な体はどこから降ってきたのか、大通りのど真ん中に綺麗に降り立った。
膝辺りまである丈の長いコートに身を包み、活発的なジーンズのショートパンツを穿いている。
栗色の短い髪とともに、茶色のコートが揺れる。
「――ッ」
言葉を失った。
ワニの魔物は、押さえつけられながらも立ち上がろうともがく。
少女が腕を引いた。
ワニが巨大な口を開けて吠える。
次の瞬間、少女は引いた腕を何もない空間に向かって、まるで何かを殴るように突き出した。
目には見えない力が魔物に向かって放たれ、魔物を穿つ。
魔物の体はその力を受け、体がばらばらに斬り刻まれた。
数え切れないほどの肉片に刻まれ、真っ黒の血液とともに降り注ぐ。
先ほどの巨人の魔物同様、肉片は灰になて消え失せた。
陥没した大地を前に、その魔物を倒したであろう少女がこちらを振り返る。
その形相は鬼のように見えた。
実際には、とてつもなく怒っていた。
紛れもなく。
途端に、少女は走り出した。
まだ百メートル近い距離があったにも関わらず、あっという間に俺の前まで来ると――
一切躊躇のない拳が、顔面へと穿たれた。
うめき声を上げる暇もなく、体がピンボールのように弾き飛ばされる。
アスファルトの上を十メートルほど転がったところで、ようやく止まった。
額が割れてさらに血が流れ初め、視界が真っ赤に染まった。
それでも俺は、体を震わせながらも無理矢理顔を上げる。
俺を殴り飛ばした彼女は、何かを耐えるように必至に拳を握りしめていた。
「こんなところで、何やってるの? 私のことに関わったら、顔面グーパンだって、言ったよね?」
殺気が混じるほどの怒気を孕んだ言葉が、目の前の少女――
「お兄ちゃん」
妹の、篠崎雫から発せられた。