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 保健室の硬いベッドに転がる。

 消毒液の慣れた臭いが鼻を刺した。

 仕切りのカーテンを引き、白い天井を見上げる。

 飛行機事故だった。

 両親が仕事で海外に向かった飛行機が、太平洋に墜ちたのだ。

 生存者は一人もない。

 両親も例外なく、二百名を超える死亡者リストに名を連ねた。

 突然家族を失ってしまった俺と雫は祖父に引き取られたが、二年前、その祖父も病気で亡くなってしまった。

 両親は相当な額のお金を残してくれたため、俺と雫は二人だけで暮らすようになった。

 今住んでいる家も両親と以前から住んでいた場所で、親戚や中学校の先生に助けてもらいながら、俺たちは今日まで生きている。

 重くなるまぶたを何度も瞬きしながら、俺は思う。

 父さんと母さんが死んでからなのだ。

 俺が自分の人生に一生懸命にならなくなったのは。

 父さんと母さんは、ガキの俺から見ても全力で生きていた。

 毎日仕事に明け暮れ、俺と雫の世話も欠かさず行ってくれた。

 それなのに、それなのにだ。

 父さんと母さんは死んだ。

 どれほど鮮烈に、輝くように生きたとしても、一つの出来事で全てが終わる。

 それが人生なんだと、知ってしまったからだ。

 今日もまた、授業をサボって保健室に来た。

 常澤高校のレベルは決して高くない。適当に授業に出なかったとしても、追試を食らったり留年したりすることはまずない。

 今日は朝からずっとそうだったのだが、あまりにも強い睡魔に襲われてしまい、昼休みが終わると同時にこうして保健室に足を運んだ。

 午後の授業が始まるチャイムが鳴った。

 抵抗さえ許さないほど強引な眠気が、頭、続いて体全体を支配する。

 それと同時に、意識が少しずつ暗闇に溶けていった。


 目の前に、鏡があると思った。そうでなければ自分以外の視点から物を見ている。

 これが夢だということが、すぐにわかった。

 自らの姿が目の前にあるのだ。

 純白に染められた一面何もない世界に、一人佇んでいる。

 雫と同じ茶色の瞳に、平凡な顔。やや長めの黒髪の頭には、アホ毛のような寝癖がはねている。

 黒い長袖のジャケットに白いシャツ、よれたジーンズに見覚えはないが、細身の体付きや高校生にしては高めの身長は自分自身と全く同じだった。

 ただ、目だけは死んだ魚のようにやさぐれてはいなく、俺も昔はこんな目をしていたんだろうと、内心笑いが漏れた。

 目の前の俺は、真っ直ぐこちらを見返していた。

 様々な感情を放り込んだ鮮烈に光る瞳は、何かを訴えかけるように、欲するように、願うように揺れていた。

 その瞳を見たとき、悟った。

 ああ、これは違う。

 今、目の前の姿を見ているのは、俺自身だ。

 ましてや、目の前に鏡があるわけではない。

 俺は、俺自身の体から、目の前にもう一人いる俺を見ている。

 俺がもう一人、目の前にいる。

 不意に、目の前の俺が、ふっと微笑んだ。

 そして、ゆっくりと右手を差し出した。

 握手を求められているのだと、遅れて気づいた。

 戸惑った俺は、自らの右手に手を抜ける。

 夢であるはずだ。

 しかし、手が震えているのがはっきりと感じ取れた。

 なぜ体が震えているのかはわからなかった。

 ただ、その震えは恐怖から来るものでも、怯えているからでもない。

 目の前の俺自身から、悲痛な感情がひしひしと伝わってきたからだ。

 憂いに満ちた表情に吸い込まれるように、俺はもう一人の俺の手を握った。

 一切体温を感じさせない、氷のように冷たい手。

 血の気のある俺の手とは対照的に、もう一人の俺の手は青白く生気が感じられなかった。

 また、もう一人の俺が微笑んだ。

 今度は何かを喜ぶような、嬉しそうな子どもの笑みだった。

 俺も心の底から笑えば、こんな風に笑えるんだろうか。

「俺を使え」

 もう一人の俺が、唐突に言った。

 自分の声なんてほとんど聞いたことはないが、きっと俺と全く同じ声だったのではないかと思う。

「こんなことに巻き込むのは、悪いと思ってる。でもお前の力が必要だ。俺の世界を頼む」

 もう一人の俺が何を言っているのかわからなかった。

 口を開こうとも、俺の口は吐息を吐き出すだけで、音にならずに消えていく。

「でも、きっとお前は――」

 その先に紡がれた言葉に、俺は目を見開いた。

 そして突然、もう一人の俺の体が輝き始めた。

 純白の世界に溶けていくように目映い光を放つ。

 ――頼んだぞ。

 自らが放った光にかき消されるように、もう一人の俺は姿を消した。

 世界だけでなく全てが白に包まれ、同時に俺の意識も消えていった。


「――ッ」

 飛び起きると、目の前にはまた白があった。

 しかしそれは先ほどまでのような純白ではなく、影の入ったカーテンのものだった。

 保健室のベッドの上だ。

 大量の汗が浮いた額に前髪が張り付き気持ち悪い。

 心臓が早鐘のように打っており、きりきりと痛んだ。

「はぁ……はぁ……」

 熱い吐息とも呼吸が乱れていることがわかった。

「なんだ今の……」

 夢であったことは間違いない。

 しかし、いやに具体的で鮮明な夢だった。

 ベッド脇のかごに放り込んでいた鞄からスマホを取り出し、現在時刻を確認する。

 時刻は午後四時。三時間くらいには寝ていたことになる。

 だが体は寝る前よりもずっと疲れていた。

 ベッドから体を起こす。

 不意に、右手の中でカチャリと何かが鳴った。

 同時に冷たい感触が伝わってくる。

 違和感を覚えて右手を布団の中から引っ張り出した。

 手の中には、緑色の鉱石によって作られたペンダントが握られていた。銀色のチェーンに結ばれたの先端にあるペンダントトップは、刃のように尖った三センチほどの鉱石がついている。

「なにこれ……」

 俺は眉をひそめて目の高さに掲げてみる。

 緑色の鉱石はおそらく翡翠ではないかと思うが、輝くばかりの光を放つ緑はとても安価な物には見えなかった。ピンキリだろうが翡翠とて宝石と扱われる鉱石だ。そこらにほいほい転がっている物ではない。

 無論、俺の持ち物などではないことは確かである。

 ベッドから這い出ると、靴を履いてカーテンを引き開ける。

 常澤高校の保健室にはベッドが全部で四つあるが、俺がいるベッド以外は全て空いていた。

「あら、起きたのかね」

 机に向かって日誌をつけていた保険医である野々宮先生がベッドから下りてきた俺に目を向ける。

 今年で三十路に突入する独身女性で、長い髪を項で縛って背中に流している。

「野々宮先生、ベッドの中からペンダントが出てきましたよ」

 結晶のペンダントを掲げながら野々宮先生に告げる。

「これは人知れず俺に好意を寄せていた先生からのプレゼントですか?」

「はははっ……寝言は寝て言え」

「ですよね」

 真顔で言われてすごすごと引き下がる。

「じゃあこれ誰かの忘れ物ですかねこれ」

 野々宮先生はペンダントをしげしげと見ると、首を傾げ眉をひそめた。

「今日そのベッドを使ったのは、いや保健室を利用したのは君だけなのだがね」

 ということは、誰かが俺の手に握らせていった可能性もないわけか。

「じゃあ昨日より前の人ですか?」

「いやそれはもっとない。毎日ベッドの手入れは欠かさず行っているからね」

 そう言って野々宮先生は俺にペンダントを返した。

「……あの、返されても困るんですけど」

「私も困る」

 いや、だからといって教師が生徒より自分を優先するのかよ……。

「はぁ……まあいいです。落とし物として職員室に持って行きます」

 かごから制服の上着と鞄を手にとる。

 ベッドの布団や枕を簡単に整える。

「篠崎君、大丈夫かい?」

「別に先生の代わりに職員室まで忘れ物を持って行くなんて大したことじゃありませんよ」

「いや、そうではない。ここに来るときは大丈夫そうだったが、今は本当に体調が悪そうだ。だから大丈夫かと聞いているんだ」

 言われて、俺は入り口近くにある洗面所に備え付けられた鏡に目を向ける。

 髪はシャワーでも浴びてきたようにぐっしょりと濡れており、顔色は青白く生気が抜け落ちて見えた。

 それは、夢で見た自分の姿によく似ていた。

「……その言い方だと、普段の俺は体調が悪そうにないのに保健室に来ているように聞こえますね」

「え? 体調が悪くて保健室に来てたのか? サボりたかったんじゃなくて?」

 素で聞き返されて、俺は苦笑しかでなかった。

「大丈夫ですよ。今日は早めに帰って休むようにします」

 俺はそのまま保健室を出て行った。


 家に帰ってスマホを開くと、雫からメールが入っており、明日の夕飯の材料を買っておいてと連絡があった。どうやら何かの用事で遅くなるらしい。

 俺と雫は二人で暮らしているため、ご飯は二人で適当に作っている。朝食はもっぱら雫任せだが、夕飯は俺が作ることが多い。

 とはいえ、お金の管理はほとんど雫が行っているため、買い出しなどはほとんど雫が行っている。

 日が沈んでもしばらくした頃、雫が帰ってきた。

 帰るなり風呂場に直行し、少し経つとリビングにやってきた。

「おかえりー」

「ただいま。お兄ちゃんなにやってんのこんなところで」

「大切な妹の帰りを待ってたんだよ」

「あーはいはいありがとー」

 雫は適当に流しながら冷蔵庫まで歩いていき、牛乳を取り出してコップに注いだ。

「というかお前、もう風呂に入ってるみたいだけど、もう寝る気なのか?」

「んー? 風呂上がりの妹に欲情してんの?」

「……今の質問をどう曲解したらそんな言葉が出てくるの?」

「だってお兄ちゃんだし」

「俺はシスコンでもなければ妹に欲情したりもしねぇ。そんな面倒なこと」

「面倒じゃなかったらするんだ……」

 どん引きされた。

 雫は肩幅に足を開いて腰に手を当て、男らしく牛乳を一気飲みした。

「お前、最近なんか困ってることでもあるのか?」

 俺の言葉に、雫の動きがぴたりと止まる。

 こちらの様子を窺おうと首を傾げたが、途中で止めて流しでコップを洗った。

 洗い終えると逆さにして水切りに置くと、また冷蔵庫に手を入れた。

「今朝も似たようなこと聞いてたけど、なんなの?」

「いや、別に。ばたばた忙しそうにしてるから」

「そうかな」

「そうだ」

 深々と体が沈んでいくソファーは去年雫が商店街の福引きで引き当てたものだ。

「怠惰なお兄ちゃんがそんなことを気にするなんて珍しいね」

「ばかお前、怠惰を舐めんな。あらゆることを削ってこそ怠惰でいられるんだ。兄が妹のことを心配するのは当たり前。でも極力心配したくないから困っていることがあるなら今のうちに摘んで起きたいんだ」

「……なんか、後ろ向きに前向きだね」

「エコだろ?」

 雫は乾いた笑いを浮かべながら冷蔵庫からペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出した。

「別に、特に困っているわけじゃないよ。ちょっと最近アルバイトで忙しいだけ」

「アルバイト? ほとんど家にいるお前が?」

 ぎくりと雫が肩を揺らした。

 取り出したばかりのペットボトルを落としそうになり、慌てて空中で弾いてなんとかキャッチする。

「い、家にいてもできるアルバイトなんだよ。これから寝る前もそうなのっ」

 わずかに焦りを見せながら雫は濡れた髪を揺らす。

「ふーん。ちょっとのぞきに行っても?」

「部屋に入ったり私のことを勘ぐったり関わったりしたら、顔面グーパンだから」

「承知しました」

 俺は即座に首を振る。

 雫は基本的に冗談を言わない。

 やると言ったらやる。それが雫というやつだ。

「ま、本当に困ったことあったら言えよ。面倒なことでなければ助けてやる」

「なにそれ。そこは兄ならどんなことでも助けるって言ってよ」

「だから今のうちに言えって言ってんだろうがよ」

 雫はちょっと驚いたふうに眉を上げた。

 そして、乾いた笑いをこぼしたあと、冷蔵庫から何かを取り出して扉を閉めた。

 雫はちょこんと俺の横に立つと、机の上にアイスを置いた。雫の好きなソーダバーのアイスだ。

「はいこれ。お使いのお駄賃」

「……サンキュ」

 雫は自分の分のソーダバーの服を破くと、中からアイスを取り出して口にくわえた。

「ごめん、でも大丈夫だから」

 そのまま楽しげに笑いながらリビングを出て行った。

 俺は机の上に置かれたアイスを手に取り、中から青く冷たい結晶を取り出す。

 一口かじると、口の中に甘い心地よさが広がっていった。

 雫は冗談は言わない。

 でも、必要に迫られれば嘘は吐く。

 あの顔は、絶対に嘘を吐いている顔だった。

 雫は気づいているだろうか。

 大丈夫だから。

 その言葉は返せば、何かあると言っていることに。

「はぁ……」

 俺はため息を落としながら、ソファに横になって体を埋める。

「まったく、やれやれだな……」

 アイスが口の中で溶けて甘く広がり、熱い物が渦巻く体へと滑り落ちていった。

 しばらくリビングに転がってバラエティ番組を眺める。

 大して面白くもないお笑い芸人の一発芸に失笑しながら時間を潰した。

 睡魔がやってきて時間を確認すると、針が午後十時を指していた。

 昼間に三時間も寝ているにも関わらず、もう体が寝ろと急かしてくる。

 重くなった体をソファから持ち上げ、リモコンでテレビの電源を落とす。

 食べ終わっていたアイスの包みとハズレと書かれた棒をゴミ箱へと投げ込み、リビングの明かりを消して戸締まりをしたあと、俺の部屋へと行く。

 廊下の電気も全て消せば、誰かの部屋に明かりがついていれば、廊下まで光は漏れてくる。

 しかし、どの部屋からも光は漏れていなかった。

 雫の部屋からも。

 生まれて何回も廊下を歩いていれば、明かりなどなくても部屋の位置くらいわかる。

 明かりが消えて部屋の扉を通り過ぎながらノックしてみる。

 しかし、返事はおろか文句すら帰ってこなかった。

「アルバイトはどうしたよ」

 ぼそっと呟きながら、俺は自室へと入った。

 翌日の授業の教科書を入れ替え、宿題のプリントは授業直前にやるから放置。

 目覚まし時計をいつもの時間にセットし、おそらく起きないだろうがベッドの脇に置く。

「本当に眠い……」

 明日の朝、起きられる気がしない。

 また雫に叩き起こされる未来が見える。

 何か悩みか問題を抱えている妹にこれ以上迷惑を掛けたくはないが、朝起こしに来る程度に元気であればそれはいいのだが。

 半ば倒れるようにして、ベッドの上に体を投げ出す。

「ん?」

 ポケットに固い感触を覚えて、手を突っ込む。

 そこから引っ張り出されたのは、結晶のペンダントだ。

「ああ……まさか、職員室でも受け取ってもらえないとは思わなかったぁ」

 結局家まで持って帰ってきてしまったペンダントを掲げた。

 LEDの照明に照らし出されて緑色の結晶が鮮やかに光る。

 最後の授業だけをぼぉーとしながら過ごし、帰りのホームルームが終わるとその足で職員室に向かった。

 しかし、そんなよくわからない物を職員室に持ってこられても、寝ぼけていたんじゃないのかとか散々言われた。

 こういうときに日頃の行いというのが出るんだろうなと、しみじみと思った。

 これが雫なんかなら笑顔で受け取ってもらえたに違いない。雫は保健室でサボるということをまずしないが。

 知らず知らずに手に取ってしまったとは言え、高価な物のように見えるし、誰かに取って大切である可能性もないわけではないので捨てることもできない。

 帰って着替えるなり、ズボンを洗濯かごに放り込んだときにズボンに入れ忘れたのを拾ってパーカーの上着に入れていたのだ。

「……思い返すと結構雑に扱ってるな俺」

 持ち主に返しにくくなってしまう。

 明日、また持ち主を探し、持ち主が見つからなければ野々宮先生に押しつけ得しまおうと、陰険なことを考えた。

 この緑色の結晶は、どこから来たものかと、不意にそんなことを思った。

 日本でとれる鉱石なのか、それとも俺が行ったこともない場所から来たのか。

 宝石に興味があるわけではない。

 しかし、これを持っていた持ち主は、きっと気に入っていたんじゃないかと思う。

 俺に、返せる日が、来るだろうか。

 次第にうつらうつらとし始め、やがて俺の意識は、真っ暗な眠りという海底に沈んでいった。


    Θ    Θ    Θ


 退廃した建物の数々。

 草木が無造作に生えて荒れ放題になった一面の景色。

 そんな、非現実な光景が俺の目の前に広がっていた。

 家を突き破るようにして大木が生え、倒壊したと思われるビルの壁面には植物がはびこっており、徐々に建物のコンクリートを浸食している。

「ここは、一体……」

 さっきまでベッドの上で眠りに就いたはずだ。

 それなのに、気が付くと辺鄙な崩壊した街に立っていた。

 寝る際に着ていたパーカーと半袖のカーゴパンツを穿いた状態で突っ立っている。

「ああ、夢か」

 単純に、最も可能性の高い推測へと辿り着いた。

 明晰夢。

 自分が見ている夢を夢だと知覚することができることが、しばしばあるという。

 場合によっては、夢を自在にコントロールするなんて言われることもあるが、少なくとも俺の思い通りに動いてくれることはないようだ。

 世の中都合よくはなっていないものだ。

「いや、それでも、夢は深層意識が具現化するってきいたことがあるけど、それなら俺の心って世界の破滅でも望んでんのかね」

 目の前にある光景は、まさしく世界が崩壊したものに見えた。

 人が世界から全ていなくなって、何年もたったらきっとこういう風になるんじゃないかと思う。

 体は問題なく動いた。

 俺は自分の夢の中を、ゆったりと歩き始めた。

 夢でなくても体は不自由であるわけではないが、なぜか体が軽いような気がする。

 崩れた建物の間を、俺は進んでいく。

 人っ子一人見当たらない。

 しかし、動物は普通にいるようで、犬や猫、鳥やウサギといった野生動物が多く見受けられた。

 驚きだったのは、動物たちがほとんど俺という人間に警戒心を抱いていないということだ。

 すり寄ってくる猫までいた。

 猫を抱え上げると、喉をごろごろと言わせながらじぃーとこっちを見返す。

 猫の体はふわふわな体毛に包まれていて、暖かい体温が伝わってくる。

「……」

 俺は、怖くなって猫を地面に降ろした。

 手を見ると、薄ら汗が浮かんでおり、小刻みに震えている。

 本当か、と自分に問う。

 再び歩き始めて、街の中を進んでいく。

 歩けど歩けど、景色は変わらず退廃した街が広がっている。

 空は、どこまでも高い青い空が広がっており、やや傾いた太陽が俺の体を焼いていた。

 心は落ち着いている、と思う。

 心臓はビックリするぐらい冷静だ。

 それでも、体が熱くなっている感覚は、徐々に動揺を呼んだ。

 これは、本当に夢なのかと。

 体に浮かぶ汗がパーカーに張り付き気持ち悪い。

 半ズボンから覗く足を草がかすめていき、かゆくなる。

 地面を踏みしめる感触も、荒廃した街を吹き抜けていく涼しい感触も、全て鮮明に感じ取れた。

「夢なら、どうすれば覚める……?」

 夢の覚め方など、これまで考えたことなどなかった。

 見たくないものはそもそも夢に出ることは少ないし、怖い夢を見ればその段階で覚める。

 金縛りとは訳が違う。

 当たり前にただ見ている夢に、疑いを持つ。

 不意に、ちゃりっと何かが揺れる音が耳に入った。

 音がした方に目を向けると、首にあの保健室で拾ったペンダントがかかっていた。

 緑色の光る鉱石は、ここでは一層光を放って見える。

 ここ、と表現する通り、徐々にわかってきた。

 ここは――。

 突然、腕を引っ張られた。

 建物の影を通り過ぎようとしたとき、現れた腕が俺の二の腕を掴んで建物の影へと引き入れたのだ。

 あまりに唐突だったため、体の筋繊維が悲鳴を上げる。

 体が建物の壁に押しつけられる。

「こんなところで何をやってるんの!?」

 押し殺した怒気が向けられる。

 これで俺が女で相手が男だったら、魅力的か危ういシチュエーションになっただろうが、この壁ドンはそんな甘い状態にはならなかった。

 なぜなら立場がまったく逆であったからだ。

 壁に押さえつけられているのは俺で、押さえ込んでいるのは俺よりも少し歳が上くらいの、茶色の帽子を被った女性だったからだ。

 そして、決定的な事実を知る。

 女性が怒っている理由も、焦りを見せている理由もわからない。

 ただ、壁に押さえ込まれ、体がはっきりと痛みを感じていた。

 はっきりとした感触が、感触が、鮮明に事実を叩きつけた。


 これは、夢じゃない。


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