21
目が覚めた頃には、全てが終わっていた。
譲原さんを倒した俺は、そのまま静止することができるはずもなく、その勢いを殺すことができずに地面に突っ込んだ。
落下する直前で大刀は消したので被害は出なかったのだが、超高速のまま地面に叩きつけられた俺の体はぐちゃぐちゃになった、らしい。
体が修復された頃にはすっかり日が昇っており、ミナトを明るく照らし出していた。
街は俺たちの戦いを物語り、至る所が破壊されているという凄惨たる状態になっていた。
街には地下シェルターに入っていた街の人たちや、烏丸さんたちも出てきていた。
皆、街が壊れたことに最初は悲しんだが、魔物の被害が今後激減するだろうということを告げると、手放しで喜んでいた。
魔物は完全に消えたわけではない。
譲原さんが世界中にはなった魔物が、まだまだ残っているのだ。
しかし、魔人たちはそのほとんどを倒し、最後に投降したごく一部の魔人たちが残るだけとなっている。
世界のバランスが崩れてしまったことによるキャパシティはおそらく元には戻らない。
でも外部からこれ以上別の存在が侵入してこない限りは、この世界の人たちのリソースが食い荒らされることはない。
魔人の脅威はひとまず去ったのだ。
でも、ミナトが復興するには時間がかかるだろうし、魔人たちの影響でこの世界がどのように変化していくはわからない。
問題はなくなったわけではないが、自分たちの存在を直接脅かす魔人たちがいなくなっただけで、当面の問題は解決しただろう。
そして、俺たちも元の世界に帰らないといけない。
こちらで日が昇ったと言うことは俺たちの世界では夜になったのだ。
つまり日中全てをこちらにいたことになる。
とりあえず目を覚ました俺は、雫に詰め寄って言った。
「お前はどれだけ心配させれば気が済むんだこら。いい加減にしろよおい」
雫の頭に拳を当ててごりごりと押し当ててる。
さっきまでは急いでいたこともあり、文句をいくつかしか言うことができなかったが、これで安心して文句を言える。
「痛い痛い痛い! ご、ごめんごめん! 本当に悪かったと思ってるから! ぐりぐりするのだけは止めて!」
雫は涙目になりながらもだえる。
昔からこいつには頭をぐりぐりすることで相当なダメージを与えることができる。
もっとも、俺が怒られる機会の方が圧倒的に多いので使う機会は微々たるものなのだが。
「いいや止めない。今回の件はこれまでお前に怒られてきたことを仕返しするいい機会なんだ。だから絶対に止めない」
「それって今回のこと関係ないじゃん!」
そうとも言う。
雫をいじり倒していると、側で見ていた咲乃がやんわりと仲裁に入ってきた。
「れ、蓮司君。気持ちはわかるけどそのくらいで……。無事だったんだからよかったじゃない」
「……まあ、咲乃が言うなら許してやらないこともない」
実際今回の件は、俺だけでなく咲乃たちにも多大な迷惑を掛けている。音夢も夕樹も、烏丸さんたちもだ。
旅人側は雫同様に自分の世界に帰れなくなるという危険があった。
烏丸さんたちに至っては、単純に死ぬ可能性があったのだ。
そのことを本当に申し訳なく思う。
俺が手を離すと、雫は脱兎のごとく逃げだし、咲乃の後ろに回ってその背後に隠れた。
「うぅー、咲乃先輩、お兄ちゃんがいじめるよー……」
頭を押さえながら雫が呻く。
「雫ちゃん、蓮司君は本当に雫ちゃんのことを心配していたんだから、そんな風に言っちゃダメだよ。いくらお兄ちゃんって言っても、世界を超えてまで助けてきてくれるなんて普通ないよ?」
普通そんな手段がないからな。
咲乃にまでたしなめられ、雫はしゅんと肩を落とした。
「わ、わかってますよ。これでも反省してるんです。本当に、ごめんなさい」
涙声になりながら言葉を口にする雫。
こいつのことだから本当に反省しているに違いない。
むしろ自分を追い込んですらいるだろう。
それほどの期間を、一人で過ごしていたのだ。
だから、これ以上は言うまい。
俺は雫に近づくと、その頭に軽くチョップを落とした。
「もういいから気にするな。とりあえずは全員助かったんだ」
俺は側の瓦礫に腰を下ろしていた音夢と夕樹に目を向けた。
「二人も悪かった。ここまで協力してもらって、本当に感謝している」
夕樹は笑いながら手を振った。
「別に僕も気にしてないよ。仲間が捕まれば助けにいく。当然のことだよ」
夕樹にしては珍しくまじめな発言だったが、こいつは戦闘狂なだけであって、いやそれだけでも十分おかしな点ではあるけれど、人格破綻者というわけではない。
むしろ戦闘時以外なら至って常識人だ。
音夢はぐっと親指を立てながら言う。
「私は、蓮司と違って性格や性根が悪くないから、初めから雫ちゃんを責めるつもりはないよぉ」
なんだとおい。
俺が文句の一つでも言ってやろうかと思っていると、咲乃が打ち切るように手を叩いた。
「ささ、とりあえず雫ちゃんは帰らないとだね。もちろん手元に護符はあるよね?」
「ありますあります」
言って、雫はぼろぼろになった服の袖を捲って手首を出した。
そこには、様々な色の糸で作られたミサンガが結ばれていた。それが雫の護符だ。
糸を操る異能の根源となった護符だ。
「あ、ちなみに雫ちゃん、今生命維持装置に繋がれてるから。帰ったらちょっと苦労すると思うけど頑張ってね」
「……マジですか」
「当たり前だろ。何日意識不明になっていたと思ってるんだよ。やせ細って当分ダイエット気にしなくていいだろ。よかったな」
思いっきり頭を叩かれた。
「いったいな。なんで叩くんだよ」
「デリカシーがないからだよ!」
うん、それは否定しない。
「とりあえずお前はここにもうちょっと残ってろ。先に俺が病院に行く。三十分以内には行くから。お前は一時間くらいしたら向こうの世界に戻れ」
おそらく問題はないかとは思うが、雫が目覚めた際に側に誰もいないという状況にはしたくない。
俺が行って雫が目を覚ますと同時にナースコールを押せば、そういった問題は最小限に抑えられるだろう。
「だったら私もすぐに行くよ。蓮司君一人だと何かと困る問題もあるかもだから」
「俺って信用ないなー」
事実誰かがいてくれると助かるは助かるが。
咲乃は苦笑しながら俺の背中を小突いた。
「そういうことじゃないって。音夢ちゃんと夕樹君はどうする?」
音夢は穴が開いてしまったドラゴンのぬいぐるみを縫いながら、眉を下げた。
「私は、帰って言い訳。ホテルに泊まってごまかしたけど、学校は、サボりだから」
「マジか。そこまでしてくれてたのか。帰ったらホテル代出すよ」
「別にいい。今度、ケーキバイキングでも、ごちそうして」
「……それくらいでいいのか?」
「それくらいで、いいの」
音夢は小さく笑って答えると、またぬいぐるみを縫う作業に戻っていった。
「夕樹君どうする?」
「僕も似たようなもんだね。ネットカフェになんとか泊まったから、とりあえずは家に帰るって両親に言い訳かな。こっぴどくしかられるだろうけど」
口ではそう言いながらも、夕樹はからからと笑っていた。
「夕樹も悪かったな。音夢と一緒にケーキバイキングおごるから許してくれ」
「甘いもの大好きだからオッケーだよ」
雫一人のためにここまで動いてくれたのに、ケーキバイキング程度で納得してくれるなんて安すぎるお礼だ。
ケーキバイキングは当然おごるにしても、こいつらには当分頭が上がりそうにない。
「本当にごめんなさい!」
突然、雫が俺たちに向かって頭を下げた。
「私が勝手に先走って、捕まって、こんなに迷惑を掛けてごめんなさい! 私なんかのために、こんなところまで来てもらって、たくさん面倒を背負わせちゃって、本当に、ごめんなさい……」
雫の声が次第に小さくなり、消え入るように震えていた。
雫自身、申し訳なく思うのは仕方のないことだろう。
俺が逆の立場であったとしても罪悪感に押し潰されそうだ。
でも、だからこそ、気にすることはないのだ。
俺は雫に近づくと、頭を下げる雫の頭を上げさせ、左右から雫の顔を両手で挟んだ。
「うじうじうじうじうるさいやつだな。俺たちが良いって言うんだからいいだよ。大体お前自分の立場で考えてみ? お前そんなことされても反応に困るだろ? 恥ずかしくなっちゃうだろ。こそばゆいだろ?」
「蓮司君それなんか違うくない?」
そうかもしれないがとりあえずスルーだ。
「大体まだ終わってねぇ。向こうにきちんと帰れて、無事が確認で気からにしろ。今ぐだぐだ言われて、これで帰れないなんてなったらお前はずか死ぬぞ」
「そ、それは確かにそうだけど……」
「わかったらそれ以上謝るな。感謝は受け入れる。いややっぱり恥ずかしいからそれも良いな。もう口を開くな。お口チャックだ」
びーっと雫の口を引いた。
「りょ、了解。ありがと」
俺は恥ずかしさを紛らわせるために雫の額にデコピンを入れて、皆に背を向けた。
「じゃあ俺は烏丸さんたちに挨拶したらそのまま帰るから。また向こうでな」
手をひらひらとさせながら皆と別れ、俺はちょっと離れていたところで速くも街の再建を指示している烏丸さんと姫神さんの元へ向かった。
姫神さんの復元は、壊れた建物であっても復元可能だが、それには時間がかかる。
どちらにしてもほとんど直すと言うことには変わりはないだろうが、ある程度の優先順位は必要だ。
すぐにでも直した方がいい建物があるだろうし、こういってはなんだが民家のようなすぐに復縁されなくてあまり影響がない部分もある。
その辺りの調査を始めて、とりあえず姫神さんには作業を始めてもらおうとしているのだ。
近づいてきた俺に、二人が気づいた。
「向こうに帰るのかい?」
察しが良い烏丸さんは、目を合わせるなりそう言った。
俺は苦笑しながら頷く。
「はい。雫のことがありますので、そっちの問題を早めに片付けてきます。学校もサボったので、怒られるでしょうし」
それも相当こっぴどく。
「あなたたちには本当に迷惑掛けたわね。こんなことにまで巻き込んで」
「何言ってるんですか。俺は確かにこの世界に外からきたよそ者ですけど、だからって部外者でいるつもりはありませんよ。皆さんにも数え切れないほどお世話になりました」
短い期間ではあるが、夜寝て朝こっちにきて姫神さんが迎えてくれて、烏丸さんたちと魔物やこの世界にことについて話して、それが毎日新鮮で楽しかった。
これまでの嫌なことや辛いことが、心の中にしていた蓋が、押さえ込んでいたものが溢れ出ていた。
それも全て、この世界に来ることができたから。姫神さんや烏丸さんたちと関わることができたからだ。
烏丸さんは噛み殺すように笑うと、小さく息を吐いた。
「それにしても驚いたよ。私たちが導き出した答えを、蓮司君はたった一人でそこまで辿り着いて、さらに裏を掻いてみせた。とんでもないことをやってくれたと真奈と話していたところなんだよ」
「あ-、ここまでめちゃくちゃにする予定はなかったんですよ。もっとスマートに解決できるとよかったんですけどね」
まさかあんな怪獣大戦争みたいな戦いになると思っていなかったのだ。
予定ではもっと被害を押さえる予定だった。
民間人に被害は出なかったとは言え、住む場所や働く場所がなければ経済に重大な影響を及ぼす。
そこに直接役に立たない俺たちが本来やっていいことではなかったのが。
それを口にすると、烏丸さんは僅かに眉を上げた。
「おや、蓮司君はもうこっちに来ないのかい?」
「……ちょっと考えているとこですけど」
俺がこの世界に来たのはそもそもが雫を助けるためだった。
雫を助けられた今、俺がこの世界にやってきた目的はひとまず達成されているのだ。
俺が言葉を濁すと、烏丸さんがニヤリと口を緩めた。
Θ Θ Θ
現世に帰ってきた俺は、すぐに着替えて病院に向かった。
携帯電話には野々宮先生から十回ほど着信があったようだが、悠長に返事を返している暇がなかったので、メールで寝坊した旨を伝えた。
電話とは別に、野々宮先生から一通のメールが入っていた。
その内容に素早く目を滑らせ、小さくため息を吐いて携帯電話を閉じた。
おそらくは音夢にも似たような電話がかかっているはずだ。
俺たち二人は常磐高校きっての問題児。
そのおはちは全て野々宮先生に回ってくるという申し訳ないポジションなのだ。
そうだ。一緒に今度ケーキバイキングにいこうそうしようそれで許してもらおう。
と、勝手に頭の中で片付け、走って病院までむかった。
面会時間は既に過ぎていたが、雫の様態が特殊なこともあり、顔見知りになった看護婦さんが特別に面会を許してくれた。
三十分ほどだけだとのことだったが十分だった。
静かに病室を訪れ、俺は雫が眠るベッド横の椅子に腰を下ろす。
灯りはつけることはできるわけもなく、窓から差し込む月明かりだけが雫の部屋を照らし出していた。
向こうもこちらも、月明かりは変わらず世界を照らしている。
雫の手を、そっと包み込むように握った。
骨張った肉の薄い手の平。
体温の低い体は、雫がこの世界にいないことを痛ましく物語っていた。
でも、それも――
俺の手に、微かな力が加えられた。
雫が、目を覚ましていた。
微かに目を開け、力のない瞳でこちらを見ている。
無事に、帰ってこられたようだ。
俺は、すぐにベッド横にあったナースコールを押した。
一分と立たずにこの部屋には医者と看護師が流れ込んでくるだろう。
俺は雫の頭に手を伸ばし、そっと髪を撫でた。
「もう、大丈夫だ。これからちょっときついと思うけど、俺が付いてるからな」
そう言って雫に呼びかけると、口に栄養を摂取させるためのチューブを入れられている雫は、瞼を何度か閉じて肯定を表した。
その瞳から、一滴の涙が溢れ出し、耳へと流れ落ちていった。
俺は微笑みながらそっと指でその涙を拭った。
それからは看護婦が部屋に飛び込んできて、俺はいぶかしまれないようにさも雫が目を覚ましたことに驚いたように装っていた。
必死に部屋に残ろうとして、予想通り部屋の外に連れ出される。
ずっと付き添ってくれていた看護婦さんがよかったと涙を流し、俺も信じれないと口にした。
雫はどこにも異常がないのに目を覚まさなかった。
それは言い換えればどうすれば目を覚ますかと言うことが全くわからなかったと言うことであり、先生や看護師たちはこのまま目を覚まさない可能性が高いと考えていたに違いない。
目を覚まし、それを奇跡というのも仕方のないことだったろう。
もう大丈夫だから、今日はとりあえず帰るようにと言われ、俺は病院の外に出た。
病院の門のところでは、一人のヘッドホンを首に掛けた少女が待っていた。
「大丈夫だった?」
「ああ、問題ない。全快するまでにはちょっとかかるだろうから。それまではしばらく病院だろうな」
一ヶ月以上も意識不明だったからそれは仕方ないこと。
とはいえ、体のどこかに異常があったわけではないので、それだけ復帰も速いだろうが。
咲乃は大きく体を伸ばして、深々と息を吐いた。
「よかったよ。本当に。これで蓮司君も安心だね」
「まあな。色々面倒かけて悪かったな」
「いいんだよ。気にしないで」
そしてかぶりを振ると、俺に背を向けた。
「じゃあ、今日ももう遅いから帰ろうか」
咲乃は弾んだ足取りで歩き出す。
だが俺は肩を掴んでそれを止めた。
「ちょっと待てよ」
「……な、何かな?」
ぎぃっと音がしそうな風に咲乃は首をこちらに向けた。
俺はにんまりと笑いながら言う。
「雫を助けたら話があるって言ってただろ? これからちょっと付き合ってくれよ」
「え、えぇー、これから?」
「もちろんこれから、だ」
俺は咲乃の肩をポンと叩くと、病院を出て携帯電話を開いた。
内容を確認し、すぐに電話を閉じる。
「ちょっと歩きながら話そうぜ。こんなところで止まってて補導されても困るからな」
歩いたところで大して危険は変わらないが。
咲乃の返事を待たず、俺は歩き出した。
すぐ後ろを、咲乃が着いてくる。
病院は川原の側に立っており、俺たちは川沿いの道を歩きながら、ゆっくりと川下の方へと進んでいく。
「この一ヶ月で、俺かなり変わったと思うんだ」
黙りこくる咲乃に、俺は言葉を掛けた。
「夢世界って言う、常識じゃあり得ない場所に行って、俺は俺自身と向き合った。アパシーシンドロームなんていう病気を診断され、感情の起伏が著しく低下している俺は、結局のところ空っぽの毎日を送っていたんだよな」
アパシーシンドロームなんていう都合のいい影に隠れ、それでいいからと言い訳をして、目の前のことと向き合おうともせず、逃げてばかりだった。
異世界に放り込まれ、妹を是が非でも助けなければいけない状態に放り込まれて初めて俺の心のくさびが外れた。
やらなければいけないことを前に、感情の低下なんてくだらないことを理由にすることなどできなかった。
そうすることでしか取り戻せない状況に放り込まれて初めて、俺は本来の感情を取り戻すことができたんだ。
「全部、お前のおかげだよ。お前が話を聞いてくれて本当によかった」
「私?」
「ああ、そうだ。今まで、誰もそんなことに気づきはしなかったよ。自分から言ったことはあっても、俺がおかしいことは、それをただの個性だとみて何も言わないんだ。あんなに面と向かって異常だって言われたのは初めてだった」
そのときのことを思い出して笑いを噛み殺す。
「そ、そんなに変だったかな……」
「まあ変わってたよ」
俺はその辺りのことをうまく隠せている自身があったし、傍目から見てもわかるものではないので、そもそも言い当てられること自体がなかったのだ。
俺は僅かに雲が流れる月夜を見上げた。
あちら側の世界と同じで、こちらにも綺麗な満月が浮かんでいた。
「精神科の先生とかにはさ、悩みがあるなら人に話せば楽になるとか、相談すればそれだけで心の中にあるものが軽くなるって、言われてたんだ。それを聞いたときはそんなことあるわけないと思ってたけど、咲乃と面と向かって話して、俺のことと、あの世界のこととか、いろんなことの負担がふっと軽くなったんだ」
「……」
咲乃は黙ったまま、何も言わなかった。
後ろに視線を向けてみると、咲乃は川に視線を向けたまま閉口していた。
俺は視線をまた前に戻す。
「夢世界に行く旅人。その旅人に選ばれるのは、悩みや苦しみを抱えた人間。お前が言ってたよな?」
「うん、確かに言ったね」
「それを思いついたってことは、少なくともそれを言ったやつも、心の何か抱えていないとおかしいよな?」
咲乃はまた黙ってしまった。
以前ははぐらかしていたが、俺や雫のことも含めると全員に何か事情があるということは確定的に明らかだ。
だとするなら、咲乃にもやはり何かあるのだ。
「お前の抱えているもの、俺に話してはくれないのか?」
咲乃は足を止めた。
静かな瞳で、咲乃は俺の目を見返している。
「それは、ちょっと公平じゃないと思うな」
「不公平か? 俺から聞くのは」
咲乃は意地悪な笑顔を浮かべて頷く。
「だって私は蓮司君の抱えているものを見抜いたんだよ? だったら私も、それくらい見抜いてほしいな。最近ずっと一緒にいたんだし、わかってくれてもいいんじゃない?」
「ははは、無茶ぶりだなーおい」
「こないだは告白の前振りみたいなこと言ってたんだから、ちょっとくらいかっこよく決めてほしいんだけどな」
「……あのときはちょっと熱くなりすぎてたんだよ」
今考えても顔が火照ってくる。
しかし、女の子にここまで言わせておいて引き下がるわけにもいくまい。
また歩みを進める。
この辺りまで歩いてくると、人通りが一気に少なくなる。
周囲にあるのは工場や運送業者。
少し離れて田畑が広がっており、合間を縫うようにしていくつかの家がある程度だ。
「初めに違和感があったのは、お前が掛けているそのヘッドホンだよ」
「これ?」
咲乃は首に掛けた赤いヘッドホンに触れる。
「そうそれ。こないだ琢巳と、あ、お前のヘッドホンのことを騒ぎ立てたあのバカな?
あいつが、お前のヘッドホンは珍しいものだって言ってた。あまり世にも出回っていない限定品だって」
「それがどうしておかしいの? 私たちの護符は遺品だから、向こうの私が持っていれば限定品でもなんでも関係ないよ」
しれっと言う咲乃に、俺は苦笑しながら首を振った。
「それだけならな。でも琢巳が言ってただろ? そのメーカーは、五年前に起業した会社だって」
琢巳の情報は間違いなかった。俺が調べてみても、咲乃のヘッドホンのメーカー、ライジンは五年前に起業した会社だ。それ以前にヘッドホンを作ったということは一度もない。
そして――
「そのヘッドホンが発売されたのは今から五年以内。でも夢世界、俺が渡った異世界は、今から十年前にキャパシティーの問題から崩壊した。つまり、お前のヘッドホンは、お前の護符ではあり得ない」
「なるほど。さすがにあんな話し出たらわかるよね」
咲乃自身もやはり気づいていたようだ。
でも、それすらも俺の勘違いだったのだ。
「最初は確かに、お前の護符がヘッドホンではなくて別のものなんじゃないかって思った。護符は本人が肌身離さない限り、他の人間が見分けることなんてできないからな。本当の護符は、俺たちに見せにくいもの。護符がもう一人の自分の遺品である以上、そういう可能性も十分にあった。向こうの世界で同じ形のヘッドホンを作れば、なんとか偽装できるだろう。でも、お前の場合はそういうわけではない」
俺は足を止め、咲乃を振り返った。
「お前のヘッドホンが、お前自身の護符であるという可能性が一つだけある」
そう、たった一つだけ。
そんなことがあり得るのかと疑いたくもなる可能性であったが、俺たちみたいな存在がいる以上、十分に考えられることだった。
咲乃はもう何を言われるのかわかっているようで、苦笑しているような面白がっているような、曖昧な笑みをこちらに向けていた。
「お前のヘッドホンは、間違いなく五年前に作られたもの。そして、それがお前の護符であるということから考えられるのは――」
俺は、確信を持ってその言葉を告げる。
「――お前は、俺や雫、音夢や夕樹のように、今俺たちがいるこの世界から、烏丸さんたちがいる異世界にいく旅人じゃない。その逆。烏丸さんたちがいる世界から、この世界にくる旅人じゃないか?」
世界に俺たち二人しかいなくなったように、時間が止まったように思えた。
咲乃は寂しそうな笑みを浮かべたまま、目を伏せていた。
「お前が本来いる世界はここじゃない。お前の本当の肉体は、今も烏丸さんたちがいる世界の、おそらくは姫神さんの家で寝ているんじゃないか?」
俺の問いに、咲乃は口を閉ざしたまま答えなかった。
これは推測でしかないが、姫神さんと烏丸さんは最初から知っていたはずだ。
そうでなければ俺たちに知られないようにすることなんてできない。
「どうして、そう思ったの? ただ単純に、私の護符が他のものじゃないって、どうして思ったの?」
「まあ、二つの世界に同じ形のものを二つ存在させる。向こうの世界で同じヘッドホンを作るっていうのが無駄に手間だって言うのはあるけど、お前さ、そのヘッドホンを肌身離さず持っててさ、すっごい大事にしてるなって言うのがわかったから、かな」
曖昧な言葉でそう言った。
事実そう思ったからなので仕方がない。いついかなる時もヘッドホンを外さず、戦闘時にヘッドホンを耳に掛けることも忘れず、肌身離さず持っていた。
そこまでしているのに、向こう側の世界で持っているヘッドホンが偽物だなんて考えられなかった。
「まあ、他にも理由はあるけどな」
川に視線を移すと、揺れる水面に反対側の工場のライトアップがきらきらと反射していた。
「旅人の共通点は、旅で渡った先で死なないことや異世界を渡れることなどがあるけど、すぐにわかるのは心音がない。心臓が動いていないこと。お前がそれを教えたときのこと、覚えてるか?」
「……うん。覚えているよ」
咲乃は俺にそれを教える際に、俺の手を引っ張って音夢の胸に触らせた。それで、音夢に心音がないことを確かめさせ、さらには旅人に心音がないことを確かめさせたのだ。
「あれ、結構違和感合ったんだよな。お前、たまにいたずらとかはするけど、あんなあからさまに誰かが、音夢がいやがるようなことをやるって、なんかおかしいと思ったんだよ」
「ああ、あれは音夢ちゃんに悪いことをしたね」
咲乃はそのときのことを思い出しながら、苦い笑みを零した。
「あれは、単純にいたずらではなく、自分には心音があることを知られないようにするためだったんだよな。自分の脈なんかをただ触らせるだけじゃ、何で自分でやらないって疑問に思われる可能性があった。ただ自分の心音を確認させるだけでは、他の人は確かめたくなってしまう。目の前に咲乃がいりゃ、俺は咲乃で確かめさせてもらった可能性が高かっただろう」
実際俺は音夢に心音がないということを確かめたあと、すぐに自分の脈を触った。
これが逆に自分だけで確かめていたら、誰かの脈を確かめようとしていたはず。
だから咲乃は音夢の心音がないことを確かめさせ、自分の心音を確認させなかったのだ。
「他にもあるよ」
俺は咲乃に近づき、すぐ前に立った。
「この間、お前はおでん缶で指を切ったな」
俺の言葉に咄嗟に咲乃が手を隠そうとするが、その前に手首を掴んで止める。
「つい数日前の話だ。結構ざっくりやっていたから、かさぶたくらいはないとおかしい。ましてや――」
俺は絆創膏を貼ってやった場所を見た。
左手の人差し指。
そこには既に絆創膏は貼られていなかった。
そして――
「これが全ての答えだよ」
咲乃の指には、傷どころか、傷跡すら残っていなかった。
つまりそれは、咲乃が普通の人間でないことを表しており、同時にこの世界の外から渡ってきた人間であることを指していた。
咲乃とアパシーシンドロームの話をしたとき、顔を触れられたときに見えたのだ。
傷一つない綺麗な手が。
さらに、掴んだ手首に感じるはずの脈動が、ない。
心臓が動いていないのだ。
「お前はこの世界の人間じゃない。俺にとっての夢世界はあちらの世界だが、お前にとっての夢世界とは、こっちの世界なんだろう」
夢世界とは、眠りに落ちることで、夢を見るように渡る世界のことを言う。
つまり、旅人が渡る世界で、それぞれ夢世界の場所が違うのだ。
「お前は、あちら側の世界の人間なんだろ?」
少しの沈黙のあと、長々とため息を吐いた。
「あ~あ、やっぱりばれてちゃってたか」
あっさりと咲乃は認めて見せた。
俺たちの間を川の方から流れてきた風が吹き抜けていった。
咲乃の長い髪がふわりと広がり、咲乃は俺から少し距離を取りながら髪を押さえて笑う。
「思わせぶりなこと言ってたもんね」
「いや、そういうわけでは。確信が持てなかっただけだよ。さっき、確認してたことが連絡で入ってな」
俺はポケットから取り出した携帯電話を開いた。
そこには、野々宮先生から届いたメールが入っていた。
「お前がいつも来ていた制服。高峰女子学園のものだったよな。俺がいつも世話になっている先生に確認してもらったら、高峰女子学園には、海藤咲乃という人物が存在しないことがわかったんだ」
咲乃の表情が暗闇の向こうで一瞬曇ったように見えた。
「今から三年前。俺と同い年の女の子が、病気で亡くなっている。その少女の名前こそが、海藤咲乃。お前にとって、もう一つの自分なんだろ?」
「うん。そうだよ。私にとっての夢世界は、ここ。私は向こう側の世界から、私はこの世界にやってくる」
咲乃は自分の胸にそっと手を重ねた。
「この体は、もう一人の私の体のもの。この体は数年前に亡くなった、蓮司君が言っていた彼女のものだよ」
咲乃は俺の前をゆっくりと歩き始めた。
俺もそれに続いていく。
「私はあの世界で普通に暮らしてたんだ。でも、魔物たち、魔人が攻めてきて、それで大量の人間が消えてしまった。それが今から十年前。そのとき、私には家族がいたんだ。たった一人のお母さん。昔はお父さんもいたんだけど、事故で亡くなっちゃってね。そして、あの日、私の目の前で夕ご飯を作っていたお母さんが、目の前で消えちゃった」
世界のキャパシティーの崩壊は、そこに住んでいる人間の存在そのものを揺るがした。
抗いようも、気づくことさえできずに消滅してしまう。
咲乃の表情は見えない。ただ前を見て話す咲乃の言葉からは、感情がよく読み取れなかった。
「お母さんを目の前で失って、私が住んでいた場所では、一割どころか数人しか残っていなかった。それで皆魔物に殺されちゃって、私はそのときから異能が使えてたから、自衛程度を行ってなんとか生き延びてたんだ」
世界を変えた譲原さんを前に咲乃が激高していたわけ。
それはただ単純にミナトの人たちを苦しめてきたからというわけではなく、自身の母親を殺されたからなのだ。
そして、その課程で魔物化した譲原さんを見た。
「それで何年か経って、私は一人でミナトに辿り着いた。たまたま魔物に襲われていた街の人を助けてね。そのころから異能だけは突出して強かったから。その力を買われて、ミナトに住まわせてくれたってわけ。まあ、あんまり人前に出ないから、向こうでも私のこと知っている人少ないけどね」
「それで、三年目に旅人になったのか」
「うん、そう。ミナトが変わった場所だってことはなんとなくわかってたんだ。それで、私はこっちの世界のもう一人の私から、こっちの世界に呼ばれた」
「呼ばれた?」
「そうだよ。蓮司君だってそうだと思うけど、私たち旅人は護符を手にするときに夢世界側でのもう一人の自分に会う。そこで私はもう一人の私に頼まれたんだ。このままじゃ、お母さんを一人残していくことになる。お母さんは心も体も弱い。誰かが着いていてあげないとダメなんだ。だから、私の代わりに、あなたがお母さんの側に着いてあげて、って」
それから、咲乃は世界を渡った。
姿や名前は同じでありながら、既に全く別人である、自分の本来の世界では消えてしまった母親と、再会するために。
母親は半ば壊れていた。
咲乃がそうであったように、俺たちの現世での海藤咲乃という人物の父親は事故死していた。
その時期はまだ、世界が違えてなかった頃だ。
そして、生まれながらに体が弱く、心も人より弱かった母親にとって、愛する夫に続き、たった一人の愛娘を失う苦しみは、想像絶するものとなって体と心をむしばんだ。
壊れかけとなった母親の前に、咲乃が姿を現すと母親は驚きながらも涙を流してそれを受け入れたらしい。
「私が現れたとき、お母さんは泣きながらこのヘッドホンを探してたんだ。このヘッドホンは、もう一人の私が亡くなる数日前に、お母さんが病室でただ音楽を聞くことしかできないもう一人の私にプレゼントした、最後の贈り物だったの。生活も厳しかったのに、無理して買ってくれたの」
次の日に訪れたときには、咲乃は既に本当に母親の娘として見られており、仏壇が真横にあるにも関わらず、咲乃が本当の娘であるように接し続けた。
あまりにも歪んだ歪な状態。
でも、それがおそらく母親にとって一番の幸せだったのだと思うと、咲乃は言った。
その段階で母親は心臓を患っており、数年と生きていられないとされていたのだ。
だから、この世界で亡くなった海藤咲乃は願った。欲した。世界を超えて託した。
もう一人の自分に、もう一人の母親の側にいてくれと。残りの余生だけでも、幸せに生きてほしいからと。
そして、咲乃自身にとっても、それは喜ばしいことだった。
「突然家族を、お母さんを失ってしまった私にとって、たとえ同じお母さんでなくてももう一度会えると言うことは本来絶対にあり得ないことだったんだ」
たとえ異能が使える世界であっても、死者をよみがえらせることはできない。それは、普遍の真理なのだ。
前を歩く咲乃が、空を見上げ、そして言った。
「私は、家族がほしかった。無理矢理、理不尽に、抵抗することさえ許されずに、私は家族を奪われた。だから、私は家族がほしかった。だから、私はもう一人の願いに応えることにした。だから、私は、世界を渡った……」
言葉が揺らぎ、夜風へと流され消えていった。
細い指で自らの目元を拭うように手を動かすと、咲乃はもう一度口を開いた。
「ここからは私の推測なんだけど、夢世界へと導かれる旅人は、どちらか一方の願いだけでは、生まれない存在だと思うんだ。旅をする先の世界の自分が、別世界にいる自分に対して願う。そして、呼ばれる側の世界の自分のは、世界を超えてでもかなえたい願いがある。その二つの願いが初めて合致してやっと、旅人という存在は生まれるんだ」
思い出す。
俺も確かに言われた。
俺の世界を頼むと。
あれは、もう一人の俺の世界、あちら側の世界のことを、救ってくれと言うことだったんだ。
俺の内にあった、感情を取り戻したいという願い。
自分の世界では取り戻せなかったものを、別の場所に求めた。
俺たちの願いは、確かに合致したのだ。
そして、俺は気づいた。
初めて世界を渡った咲乃が、どうして旅だった先の世界を、夢世界と名付けたか。
俺たちが旅をする世界は眠り夢を見る間に訪れるからではない。
旅をして渡った先にあるのは、俺たちの願いを叶える世界、俺たちの《夢》を叶える世界だ。
だから、咲乃は呼んだのだ。
自らの夢を叶えてくれる世界、《夢世界》と。
しばらく歩き続けると、咲乃が立ち止まった。
「着いたよ。蓮司君も、ここまで私を連れてくるためだったんだよね?」
咲乃と俺の前にあるのは、田畑の近くにぽつりと立つ一軒の古い家。
ポストには郵便物が溢れんばかりに詰め込まれており、家へと繋がる道までは草が生えて足の踏み場もないほどの状態だ。
一つ草が踏めつけられてかろうじて人が通れるような状態にはなっているものの、明らかに人が住んでいるとは思えない状態となっていた。
そこは、かつて海藤咲乃が住んでいたはずの家。
野々宮先生から連絡で知った住所の場所となっていた。
「咲乃、これって……」
俺はまさかという思いで口を開く。
咲乃は儚げな笑みを浮かべながら頷いた。
「うん。今から一年前。お母さんは亡くなった」
元々長くは生きられないと言われていたことを証明するように、咲乃がこの世界を訪れて二年経った頃、急に倒れた。
そのまま、手を尽くす間もなく亡くなったそうだ。
でも、と咲乃は言う。
「お母さんは、最後は幸せだったと思う。自分で言うのもなんだけど、偽物であっても、同じ姿形をした娘と、最後まで時を生きられたんだもん。絶対に、幸せだったと思う」
その言葉には確かなものが感じられた。
きっと、それは正しい。
この世界の海藤咲乃が願った、母親を一人にさせないこと。
それは間違いなく、向こう側の海藤咲乃によって叶えられたのだ。
咲乃は家を通り過ぎて、さらに歩みを進めた。
やがて、海に出た。
川から海へと変わる場所は、砂浜となって広がっている。
堤防を乗り越えると、咲乃は砂浜へと下りていった。
咲乃は空を見上げた。
俺も倣って視線を空に向けた。
周囲にはもう工場も民家も何もない。離れた場所に街頭があるのみで、辺りは一面闇に包まれていた。
それには月が浮かんでおり、海を、砂浜を、そして咲乃を照らし出していた。
「蓮司君、これが私の旅だよ」
月光の中で振り返りながら、咲乃は言った。
「私は家族がほしくて、この世界に来た。そして、二年の間、本物ではなかったけれど、限りなく本物に近い夢の中で、私は願いを叶えることができた」
一度は亡くした母親を、今度はきちんとした形で看取ることができ、もう一人の咲乃にとっても、俺の前で悲しげな笑みを浮かべる咲乃にとっても、おそらくはできうる限りの最も幸せな終わり方だったのだと思う。
世界を超えてまで、咲乃は自分の夢を叶えて見せた。
「私の世界でも、魔人たちを倒したから、これで平和になると思う。元通りにはならなくても、私たち人類が生きていける程度には、よくなったと思うの。まだまだやらないといけないことはあるけど」
苦笑しながら咲乃は言うと、胸の前で祈るように手を組んで、頷いた。
「私の旅は、終わったんだよ」
そう言って、月明かりの元、咲乃は俺を見返した。
「蓮司君の旅はどうかな。もう、蓮司君の旅は終わった?」
俺の旅。
それはなんだろうと、頭の中で疑問が浮かんだ。
俺がこの世界に一番初めに求めたのものは、妹である雫を閉じ込められた世界から救い出すことだ。
そして、その中で俺は自分が旅人に選ばれた理由を知った。
自分の失ってしまった感情を、取り戻したいと思っていることに。
だから俺は欲したのだ。
ありとあらゆる感情を。
一度は手放してしまった心を。
でも――
俺は、笑みを浮かべながら咲乃に言った。
「俺の旅は、まだ終わってないよ。まだまだ、俺は取り戻していないものがある。俺の願いは、夢は、まだ叶っていないんだよ」
暗がりの向こうで、咲乃が僅かに目を丸くしていた。
おそらく、一度は掴んだのだ。
手の収まるところに、俺は確かに自分の願いを取り戻した。
それは間違いない。
「俺には、新しい願いが、夢ができたんだよ」
「新しい、願い?」
「そうだ。願いや夢が、一度きりしかダメなんてことはない。俺たちが願う限り、夢は何度でも溢れてくる。俺たちが夢見る限り、必ずそこに夢は存在する。俺の夢はまだ終わっていない」
そうだ。
まだ何も終わっていない。
むしろ、これが――
「それは、お前も同じだろう? 咲乃」
正面にある咲乃の顔が、驚いて見開かれる。
俺は咲乃に近づくと、すぐ前に立った。
「咲乃、お前の旅も、まだ終わってない。違うか?」
「……何を言っているの? 私の旅は、一年も前に終わってるよ?」
一年前。
母親が亡くなったときが、咲乃にとっての旅の終着点だと、そう言いたいのだ。
でも、それは違う。
「なら、なんでお前は今でもここにいる」
だから問う。
「お前は旅を終えた。母親を幸せにし、もう一人の海藤咲乃の願いを叶え、自分の夢をも叶えて見せた。それなのに、どうしてお前はまだこちらの世界に旅にくるんだ? もう旅は終わっているのに、どうして世界を超えて旅をする?」
俺や雫たちが旅人になるより前に、既に咲乃の母親を亡くなっていたはずだ。
それでも、咲乃は今でもこちらの世界にきて俺たちと会い、話すために、世界を渡っている。
悲しげに目を揺らし、それでも俺から目をそらさない咲乃に、俺は笑みを向けた。
「咲乃、俺も一度は旅を終えている。ついさっきだけどな。それでも、俺はまだあの世界に、お前の世界に行こうと思う」
「それは、なんで……?」
咲乃が、おずおずと聞き返してきた。
聞かれたくなかった。
聞かれてしまえば、答えないわけにはいかないから。
他でもない、咲乃のために。
咲乃はきっと、二つ目の願いや夢があることを認めたくないのだ。
それによって、母親に対する願いが偽りだったのかと錯覚する可能性があるからだ。一番ではないと思うかもしれないから。
そんなことが、あるわけがないというのに。
でも、聞かれたからには答えないわけにはいかない。
俺は、今俺の中にある感情を否定したくない。
それは、これまで俺が歩いてきた、渡ってきたたびそのものを否定することになるから。
「お前がいるからだよ」
月夜の下で、俺は告げる。
咲乃の目がこれ以上にないほど見開かれ、そして真っ赤に染まっていった。
「な、な、なにを……っ」
「お前がいるからだ。お前が向こうの世界にいるから、俺はもう一度、いやこれからもお前の世界に行きたいと思う。お前がいるから、俺の旅はまだまだ終わらないんだ」
これは俺が雫を助ける間の短い旅の中で取り戻した、一つの感情。
そして――
「俺は、お前の力になりたいと思っている。俺を雫のところまで、俺が欲しかった場所まで導いてくれたお前の、力になりたいんだ」
誰かに話せば笑われるかもしれない。
子どもかと言われるかもしれない。
呆れられるかもしれない。
でも、俺は自分を笑わないし、子どもだとも思わない、呆れない。
顔のほてりが最高潮に達していくが、それでも俺は言葉を止めない。
これこそが、俺が夢世界で獲得したものだ。
「お前は、まだ旅を止めていない。ここにいるのがその証拠だ。咲乃、お前は家族が欲しいと願っていた。そしてこの世界に来ることで一度は願いは叶ったんだろう。でも、俺たち十六、七のガキにとって、家族がいないってことは、本当に寂しく、辛いこと、だよな?」
両親を亡くし、雫をも失い掛けた俺には、その気持ちが痛いほどわかる。
「お前は、まだ、誰かを望んでいる違うか?」
俺の言葉に、咲乃は肩を揺らして俯いた。
「家族を失い、一度は母親の元に戻ることができたお前は、もう一度母親を失った。だからこそ、お前はどうしようもなく、誰かを欲しているんじゃないか?」
重ねて問う。
俺が俺の内を告げる前に、咲乃の意志を確認しておきたかったのだ。
「……仕方……ないじゃない」
咲乃の口から漏れた声は、震えていた。
「私はお母さんを亡くして、家を無くして、この世界で私はもう一度お母さんと会うことができたけど、お母さんがいなくなった家はもう、家じゃないだよ」
零れるのは、咲乃の内なる思い。
「私にはもう帰れる場所がない。ミナトは確かに私にとって、今では私のもう一つの故郷だけど、それでも、私はにはどうしても家って言う実感が湧かないの」
それは、本当に仕方のないことだと思った。
あの世界で、咲乃は戦い続けてきた。
ありとあらゆる敵を寄せ付けない異能という力を持って屠ってきた。
そんな毎日で帰った場所は、果たして家か。
人それぞれ答えは違うだろうが、それでも咲乃にとってはそれは家にはなり得なかったんだ。
だから――
「なら、お前の願いは? 今の夢はなんだ?」
咲乃が顔を上げた。
その瞳には大粒の涙が浮かんでおり、とても怒っているように見えた。
「私の願いは、そう、蓮司の君の言うとおり、まだ私を待ってくれている家族が欲しい、そして、ここが私の家だって思える場所が欲しいの。この世界でも、私の世界でもひとりぼっちになった私に、もう存在しないものなんだよ」
家族なんてものは、普通望んで手に入れるものじゃないと、俺は思っている。
ほとんどの人間にとっては、家族はいて当たり前で、いない方が少ないのだから。
咲乃は怒りを露わにしてる。
それは――
「私の願いを、蓮司君に叶えられるって言うの?」
俺に言ったところで、その願いが叶うものではないと思っているからだ。
だから、俺は即答した。
「ああ、叶えられる」
ぽかんと、咲乃が口を開けた。
俺の言葉が、あまりに迷いなく、ためらいもなく、戸惑いも亡かったからだろう。
だが、俺にとってはそれほど簡単なことだった。
俺は咲乃の手を取った。
小さくて柔らかい、女の子の手だ。
咲乃はこんな小さな手で、あの世界を戦い抜いてきたのだと実感させられる。
俺は咲乃の目を真っ直ぐ見つめながら言った。
「咲乃、俺はお前に本当に感謝している。雫を助けることに協力してくれたことだけじゃない。俺が心の中から望んでいたもの、感情や気持ちを取り戻してくれたんだ。だから、だと思う」
意を決して、言った。
「俺は、咲乃のことが、好きになったんだ」
一瞬目を見開いた後、一時引いてきた赤がまた咲乃の顔に戻ってきた。
「きゅ、急に何言って……っ」
「告白するのに、急も何もあるか。俺はお前が好きだ。これは本当のことで、お前の問いに対する答えでもある」
「どういう……こと?」
顔を赤くしもじもじと動きながら、咲乃は上目遣いに聞いてきた。
「お前が言っただろう? お前の願いは、家族がほしい、帰れる家がほしいって。だから、俺が家族になるって言ってんだよ」
「なっ――」
口をぱくぱくさせながら、咲乃は言葉を詰まらせた。
その反応が面白くて眺めていたかったが、あまり長くこのままでいると俺が逃げ出したくなってしまうので、とりあえず今はお預けだ。
「で、でも、い、家はどうすの!?」
なんとも的外れな質問が飛んできた。
「うちの家に来いよ。俺と雫がいるだけで部屋なら何部屋も余ってる。こっちに来るときは家の部屋に来い。俺たちが家族になれば、あそこはお前の家になる」
「それってなんかむちゃくちゃじゃない!?」
「それに何の問題がある?」
しれっと言ってみせると、咲乃は顔を引きつらせて硬直していた。
俺はそんな咲乃に笑みを向けたまま言う。
「俺はお前に救われた。お前がいなけりゃ、雫だって助かってないだろう。俺はそんなお前が好きになっちまった。恩人に対して好意を抱くのは、おかしいことじゃないだろ?」「でも私たちまだ高校生だよ!?」
「だから誰かを好きになるのに、歳なんて関係ないだろ。今時小学生でも付き合うぞ?」
「いや……でも……」
次に発する言葉を見つけられず、咲乃は口を閉ざした。
そこで、俺は手を放して咲乃から距離を取った。
「……悪い。自分でもいきなり滅茶苦茶なことを言っている自覚はあるんだ。俺が言っていることがどれだけ馬鹿げているかも。でも、それでも俺は、お前の家族になりたいと思っているのは本当だし、一緒に暮らしていけたらと思っている」
不安だったのだ。
雫を助けることが達成できた今、咲乃はもう俺たちの前からいなくなると思った。
咲乃が俺たちの近くにいる、その理由こそがなくなったと思ったからだ。
咲乃自身の旅は、一度間違いなく終わっている。今の話を聞いてそれは間違いないと悟った。
でも咲乃はこの場にいる。
それは、咲乃自身にまだ願いや夢があるから。
俺は俺に数え切れないものをくれた、咲乃に恩返しがしたい。
どれほどの時間が流れたかはわからない。
それほど長い時間出ないのは確かだが、その時間は俺にとって永遠にも長い時間に感じられた。
なにせ告白はおろかそれを飛び越えてもっと凄いことを言っているんだ。
「蓮司君は、いっつも私が考えていることとは全然違うことを考えてるよね」
落ち着きを取り戻した咲乃が笑いながらそういった。
「そりゃあ蓮司君の家に一緒に住むことは出来るよ。でも、私の世界には、もう来ないんじゃないの? 雫ちゃんも助けられたんだし」
「俺は別にあの世界に行くのをやめるわけじゃないって。お前がいるしな。それに、烏丸さんから声を掛けられているんだ。異世界や魔物の研究を始めるから、手伝ってくれないかって」
「異世界や魔物の研究?」
咲乃は首を傾げて聞き返した。
異世界や魔物についてはまだまだ謎が多い。
二つの世界を行き来する方法や、魔物を本当に元の姿に戻すことができないのか。
魔物たちが摂理を歪ませてしまったせいで、ありとあらゆる現象がねじ曲がってしまっている。
烏丸さんはこれから、それについての研究を始めて行く予定にしているようだ。
今回の件で、俺がたまたま頭を働かせたことで、助手のようなことをやってくれないかと誘われている。
俺は異能を持っているおかげで魔物と対峙した場合でも問題なく立ち回れる。
その当たりを買われての打診らしい。
「だから俺はこれからも、お前の側にいられるよ。いつでもどこでも、俺はお前と共にいることができる」
「恥ずかしげもなく言ってくれるなぁ……」
「さっきまでもっと凄いこと言ってたのに、今更恥ずかしいものないっての」
「でも私たちは元々いる世界が違うよ?」
「それを含めて俺は烏丸さんに協力することを決めたんだよ。世界の存在自体を揺るがすことなく、世界観を行き来できないか。当面は俺の最も重要な課題だな」
「そこまでして私に執着するの?」
「どこまでもお前に執着するよ」
「ストーカーみたいだね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「そこまで言われても私のこと好きなの?」
「ああ、大好きだ」
「世界が違うから、いつ会えなくなるかわからないよ?」
「だから少しでも長くお前と一緒にいたいから、うちの家に住まないかと言ってるんだ」
「それで、すぐに会えなくなっても?」
「そうならないように、俺は烏丸さんの助手として異世界を研究する。そうなりたくないからな」
「そこまで、私が好き?」
「ああ、どうにもこうにも、俺はお前が好きだ」
闇の向こうで咲乃が苦笑し、俺も乾いた笑いを浮かべる。
二人揃って何をやっているだか。
咲乃は俺に近づき、俺のすぐ前に立った。
「蓮司君、それって、プロポーズ、なんだよね?」
「ぷ、プロポーズ?」
俺は聞き慣れない言葉に素っ頓狂な声を上げた。
いや、確かに言っていることは完全なプロポーズだ。
俺は好きだということと家に住めばいいということしか頭になく、それだけでも一杯一杯だったため、そこまで頭が回ってなかった。
確かに好きだと言い、家族になると言い、一緒に住もうと言った。
それは確かに、十分すぎるほど結婚の申し込みになっている。
「……言われてみれば、うん、プロポーズしてるな」
「自覚なかったの?」
「いや、そこまで大きく考えてなかったから……」
そう考えると、急に恥ずかしくなってきた。
顔が火照り、一気に熱を帯びてくる。
「あ、あの……ちょっとさっきまでの話は、なかったことに――」
急に近づいてきた咲乃に、俺の言葉が遮られた。
すぐ目の前に、咲乃の顔がある。
気付いたときには咲乃の唇と俺の唇が合わされ、驚く間もなく体が離れていた。
咲乃は軽快なステップで俺から離れると、その場でくるりと回った。
そして、頬を赤く染めながら、輝かしいまでの笑みを浮かべ、唇に人差し指を当てた
「ダーメ、もう取り消しは、認めません」