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カーテンの間を縫って朝日が頬に当たる。
春が来て久しい四月の終わり、ずいぶん日が昇るのが早くなったと、俺は微睡みの中で思う。
何度も雄叫びを上げる目覚まし時計を叩いては寝て叩いては寝てを繰り返して十二回。五分ごとになる目覚まし時計は中々鳴り止んでくれない。
布団の中でごろごろと体を動かしながら、体を丸めるようにしてまた眠りに就く。
がちゃりと部屋の扉が開く。
誰かが自室に侵入してきたようだが、お構いなし睡眠を続けようと意識を沈めていく。
「いい加減に起きてようるさいなっ!」
怒声とともに布団を突き破ってきた衝撃に痛みが駆け抜ける。
「ぐぼぉっ!」
脇腹にクリーンヒットした肘が深々と突き刺さった。
「いっつ……し、雫か。なんだお前、寝込み襲うとか何か恨みでもあんのかよ」
布団から首だけ出して呻くと、妹である篠崎雫がベッド脇から不平を口にする兄を見下ろしていた。
肩の辺りで切りそろえられた栗色の髪を揺らしながら、本来はくりっとしたかわいい目を刃のように細くしながら兄の顔をのぞき込む。
「それはこっちのセリフ! 何回目覚まし時計鳴らせば気がすむのっ? うるさいんだけど本当に!」
「気がすむのって、この無駄にやかましい目覚まし時計買ってきたのお前じゃん……」
「お兄ちゃんが普通の目覚まし時計だと反応すらしないからでしょ!」
雫の叫び声が寝ぼけた頭を揺らした。
「この目覚まし時計で起きないってどうなのよ!」
「そんなこと言われても知らんがな……」
大きなあくびを零しながら俺が呻く。
ぎろりと向けられた雫の冷たい目に、俺は渋々と布団から這い出て体を伸ばす。
「早く着替えて朝ご飯食べてよね。遅刻は許さないから」
かすんだ目をこすり焦点を合わせると、雫は既に高校の制服に着替えており、既に身なりも整えていた。
「お兄ちゃんが遅刻すると妹の私まで先生たちから白い目で見られるんだからホントしっかりしてよ」
「そりゃあ迷惑掛けてすいませんね」
再度大きなあくびを漏らしながら、ようやくベッドから抜け出した。
制服に着替え、洗面所で顔を洗って寝癖を直す。
身なりを整えながら俺は自らの髪に手を伸ばす。
最近伸びてきた黒髪は、目の辺りまでかかってきており、これからの夏場には鬱陶しくなるだろう。
鏡に映る自分の顔は、いかにもやる気なさげに死んでいる。
そのことに内心辟易しながらも、こんな考えは生まれ持ったものなので、今更簡単に変わるものではない。
「よしっ」
少しでも気合いを入れようと、自分の両頬を強く叩くが、それでも腐ったような目は変わらなかった。
洗面所から出た俺は、玄関に投げていた鞄を掴み取る。
「お兄ちゃん朝ご飯は?」
「朝に栄養を必要とするほど、昨日活動していないんで」
「活動してよ! もう、これだけでも食べながら行って」
そう言って雫が差し出したのは、焼きたてのトーストだ。
「たった一人の家族に言われるなら仕方あるまい」
口では文句を言っているが、玄関までわざわざ焼いたトーストを持ってくる辺り、俺の行動を先読みし心の中まで察している。本当によくできた妹だと思う。
「そう思うならもっと早い段階で私の言うこと聞いてよ……」
もっともすぎて反論することができなかったので、代わりに受け取ったトーストを口にくわえ、そろって家を出る。
二人が住む家は、通う高校から徒歩十五分ほどという丁度よい場所にあり、街からもそれなりに近いというよい環境にある。
住宅街の横にある桜並木を歩きながら、降り注ぐ日差しに目を細める。
桜が散ってずいぶんたつ桜の木には、緑色の葉がこれでもかというほど色づいており、そんな風景が余計に暑さと日差しを強く感じさせる。
「ああ、この体には日の光が鬱陶しいな……」
「一体どこの吸血鬼よ……」
雫の呆れた声を、車道を走る車がかき消していった。
二人で登校するのにも慣れたものだが、雫はこの春から俺と同じ高校、常澤高校に通い始めた一年生で、一つ上の怠け者の兄に手を焼いている。
「つうか、お前さっき先生がどうとか言ってたけど、先生って生徒の兄にまで口出しするの?」
雫は俺の顔をのぞき込み、呆れた表情とともに嘆息を漏らした。
「そりゃあ言うでしょ。どうにかしてくれって」
この妹の雫は、兄のひいき目なしに見てもとっても優れた人間だ。
主席で高校に入学し、品行方正で人当たりもよく、友達も多いと聞く。
部活動には参加する気がないようなのでどうするつもりなのかと思っていたが、俺たちの家庭は事情が事情なので、暢気に部活動にいそしむことはできないのだ。
かくいう俺は、勉学も適当に行い成績も中の上程度。部活動などには参加せず、高校生活において必要最低限の活動しかしていない。
「その無気力精神、本当にどうにかしてくれないかな……」
愚兄を心底嘆くように雫が頭を抱える。
「最近春で暖かいから、どうしても眠くなっちゃうんだよな」
再び大きなあくびを漏らしながら、手で口を押さえる。
雫は眉をぴくりとさせると、俺の前に回り込んだ。
つま先立ちになり、低い位置にある顔を無理矢理俺に近づける。
「ん? どうした雫?」
こちらの目をじっと見返す雫の茶色い目は、こちらの何かを探っているように鋭くなっていた。
整った可愛らしい顔が、普段はしないような鋭利な何かに変わっている。
固く結ばれた口が開き、やや低い声で言った。
「お兄ちゃん、この頃本当によく寝てるけど、なんか変なことに関わってないよね?」
「妹が息がかかるほど顔を近づけているこの状態が既に変なことだと思う」
冗談めかして苦笑して言ったが、雫は真剣な表情を崩すことなく、ただ瞳を真っ直ぐ投げていた。
しかし、やがてため息を一つ落とすと、俺から離れてため息を吐いた。
「ん、なんでもない」
それだけ言うと、雫は通学路を歩き始めた。
俺は足早に追いかけて再び雫の隣に立つ。
「それよか、お前の方こそなんか疲れ気味じゃないか? 俺が言うのも何だけど」
「お兄ちゃんに言われるなら本当に末期なんだろうね。どの辺りが疲れて見えるの?」
「目の下に薄ら隈があるし、肌に張りも艶もない」
「……妹の肌をそこまで観察しているってどうなの?」
思いっきり引かれてしまった。
「割とまじめに心配してるんだぞ」
「……」
やがて横断歩道にさしかかり、俺たちの前で信号が赤に変わった。
二人揃って足を止めると、目の前を車が行き交い始めた。
雫は頬を掻きながら、乾いた笑いを浮かべる。
「いや、本当に大したことはないよ。ただ、学校環境が変わるとそれなりに疲れるものなんですよ」
「だったらなんかあれば俺に言え。伊達にお前より一年も長く高校に通っていない」
「……そういうことは、一度でも私の力になってから言ってよ」
暗にこれまで役に立ってないと言われている気がする。いや全然暗にじゃないな。
雫は春風に揺れる髪を押さえながら、儚げに憂いを含む笑みを見せた。
「まあ、お兄ちゃんは、私のことなんか気にせずに少しはやる気を見せてね」
「……具体的に何に?」
「人生全て」
散々な言われようだった。
「気が向けばな」
鞄を背負い直して再びあくびを漏らした。
一人っきりの家族の、心配そうな視線を頬に感じながら。
「おはよう雫ちゃん」
十字路に入ると、横からやってきた人物が雫に声を掛けてきた。
「あ、咲乃先輩おはようございます」
雫が笑みを浮かべがら挨拶をする。
現れたのは、俺たちとは違う高校の制服を着た少女だった。
すらっとしたモデルのような体型に、背中辺りまで流れる黒い艶髪は他を寄せ付けない圧倒的な存在感を持っている。
首には赤いヘッドホンを掛けており、細いコードがポケットの中へと潜っている。
吸い込まれそうな綺麗な瞳に、補足整えられた眉、薄ピンク色の唇が妙に色っぽさを感じさせると同時に、高校生とは思えないほど大人びて見えた。
「今日は彼氏さんと登校? 熱々だね」
少女が薄く微笑みながら言った。
「いやいや、勘弁してくださいよ咲乃先輩。これのどこが私の彼氏に見えるんですか? こんな浜辺に打ち上げられているボラみたいなのが彼氏なわけがないじゃないですか。私の兄ですよ、一応」
とんでもない紹介を受けている。
「一応って何だ一応って。お前は俺に何の不満があるんだ」
「何のと言うより、不満以外ない」
まったく反論できなかった。
俺たちのやりとりを見て、少女はくすくすと笑った。
「冗談よ。えっと、篠崎蓮司君、でよかったかな。たまに雫ちゃんからお話を聞いているよ」
少女が確認を求めてきた。
「まあ、こいつは不本意そうだけどその通りです。雫の兄の篠崎蓮司です。そちらは、高峰女子学園の生徒さんですか?」
優しげな笑みを浮かべながら少女は頷く。
「正解。高峰女子学園に通う、海藤咲乃。よろしくね。同じ高二だから、普通にしゃべってくれて構わないよ」
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
高峰女子学園というのは、俺たちの通う常澤高校のすぐ近くにある女子校だ。
昔ながらのお嬢様高校で、藍色を基調とした清爽なブレザーは様々なところに人気があるという。
女に飢えている男どもは、共学で近くにいる女子より、女子校という未知の花園に引きつけられる。
この海藤という少女もさぞ人気があるだろう。
「今日はいい天気ね」
「ですね。でも、これから暑くなると思うと憂鬱です」
「雫ちゃんは夏は嫌いなの?」
「うーん、暑いとだらけるやつがいるのでいらいらしてしまって」
俺の話がされている気がしたがとりあえずスルーする。
女子同士の話に、兄の俺が入るのはどうもやりにくい。
女子二人の後ろをのんびり歩いていると、前を歩く少女が速度を落として俺の横に並んだ。
「えっと、雫ちゃんのお兄さんはなんと呼べばいいな」
「海藤の好きなように呼べばいいよ」
海藤は顎に手を当てて考え、こちらを見上げながら言った。
「では、蓮司君と呼んでもいいかしら。篠崎さんだと雫ちゃんも一緒になってしまうので」
「構わないよ」
「なら、私のことも咲乃でどうぞ。私だけ名前呼びってのもね。雫ちゃんのお兄さんだし」
「了解、じゃあ咲乃って呼ばせてもらう」
咲乃は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「あ、でも知り合ったばかりの女を名前呼びって抵抗ある?」
心配に上目遣いで見てくる少女に、ありますなんて言える強心臓を俺は持ち合わせていなかった。
「そんなことに抵抗を感じるほど繊細な心はしてないから気にするな」
実際、そんなところを気にするなんてことはない。
「まあお兄ちゃんは繊細とはほど遠いもんね。ずぼらでおおざっぱで破天荒で、本当にだらしないんですよ」
続いて下がってきた雫が意地の悪い笑みを浮かべて咲乃に囁く。
「やかましい。人のことが言えんのか人のことが」
「何だとこの!」
雫は教科書が大量に詰め込まれた鞄を振り下ろしてくる。
「あぶね! お前それふざけんな!」
「うっさいバカ! 咲乃先輩に話しかけれて鼻の下伸ばしてたくせに!」
「伸ばしてねぇよ!」
雫が振り下ろす鞄を必至に避ける。
ぶんぶんとうねりを上げる鞄は十分鈍器だ。
咲乃は苦笑をしながら俺たちのやりとりを見ていた。
俺は再び歩き出しながら、暴れ回ったことで浮かんできた汗を腕でぬぐう。
「それで、雫は咲乃とどういう知り合いなんだ? 学校が同じだったりしたか?」
しかしそうなれば俺とも学校が同じだったと言うことになるのだが、俺の知る限り海藤咲乃という名前に心当たりはない。
俺の問いに答えたのは雫ではなく咲乃だった。
「私と雫ちゃんは以前たまたまカフェで知り合ったの。今から三ヶ月くらい前だったかしら。ね? 雫ちゃん」
「あ、はい。常澤高校が推薦で決まって暇だった時期に知り合ったんだ」
どこかしどろもどろと言った様子で、雫が言った。
話を合わせたようなそぶりに感じられたが、別に深くは聞くまい。
「そうか。迷惑とかかけてないか? こいつ昔からちょっと凶暴なところがあるからな」
「誰のせいだ!」
え? 俺のせいなの?
咲乃が楽しそうにくすくすと笑いながら、口を押さえて言った。
「本当に、二人は仲がいいのね」
それから適当に会話をしながら、俺たちは高校までの通学路を歩く
ある程度常澤高校に近き、咲乃とは高峰女子学園に続く道で別れた。
「じゃあね。二人とも。雫ちゃん、またお茶にでも行こ。よかったら蓮司君もどうぞ」
「はい。是非。あ、でもお兄ちゃんはいらないですよ」
「俺も女子のお茶会を邪魔する気はねぇ。まあ、こんな妹だけどよろしく頼む」
ぽんぽんと雫の頭を叩きながら言うと、ばしんと強烈に弾き飛ばされた。
そんな様子を咲乃は、必至に笑いをかみ殺すように口を押さえていた。
ヘッドホンを頭に掛けて、鼻歌を口ずさみながら、咲乃は歩いていった。