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15

 一度、現世へと戻ることになった。

 俺は堂々と学校をサボり、雫が眠る病院を訪れていた。

 最近はここに来る回数も減っている。

 ここに雫がいないとわかっている以上、頻繁に訪れても仕方ないと思っていたからだ。

 それでもなんだかんだで、ほとんど毎日来ていた気がしなくもないが。

 雫はずいぶんやせ細ってしまっている。

 自らの意志で動くことができず、延命装置にのみによって生かされている。

 その姿はひどく痛ましい。

 早く助けてやらないとという気持ちが逸る。

「……」

 俺は眠る雫の額に手を乗せた。

「次に会うときは、しっかり起きてろよ。このねぼすけめ」

 こつりと雫の頭を叩いてやる。

 後ろで扉が開く音がした。

 そこには、花束を持った咲乃が立っていた。

「今日、学校は?」

「そりゃあお前もだろ?」

「まったくだね」

 自嘲気味な笑みを浮かべながらも、咲乃は花瓶の花を取り替え始める。

「これから雫を助けに行くってのに、そんなの代えてどうするんだよ」

「えー、でも雫ちゃんが目を覚ましたときに花がしおしおだったらなんかがっかりしないかな?」

 そういうものだろうか。俺にはよくわからないが。

 俺は男だからその辺りが鈍いんだと思う。

「今日の予定は、ちゃんと覚えている?」

 咲乃が花を生けながら尋ねてきた。

 俺は椅子に座って、お見舞いに持ってきたリンゴを一つ手にとって果物ナイフで皮を剥いていく。

「これから朝方から夢世界に行って、夜の間に砦に攻撃を仕掛ける。魔物は基本的に夜は動けないから、その間に砦を攻め落とす」

 魔物は夜間は活動することができない。

 その確証を得ることができたのだ。

 斥候が掴んできてくれた情報は、砦の位置だけでなく魔物の生態についてもだ。

 魔物は日がある状況でなければまともに動くことができないらしい。

 厳密には、光がある元でしか活動できない。

 魔物は目が悪いのだ。

 肉体を巨大化させて膨大な力を得ることを引き替えに、魔物は多くのものを失っている。

 思考を始めたとした脳ではないかというのが、烏丸さんの考え方だ。

 魔物に残っているのは純粋な破壊衝動のみ。

 ただ本能に従って、目の前にいる生物を殺すこと。

 それが魔物の特性だ。

 そこから逆に考えると、他にもなくしたものがあると考えたわけだ。

 視力を初めとした五感もその一つ。

 目の前にいる人ですら、魔物は夜間では気づきもしない。

 さらに魔物は大きな音には反応するが、小さい音には反応しにくい。物を投げればその音につられて喜んでいる向かっていく。

 これも俺たちが派手に暴れ回って夜間に砦まで近づいた斥候が眠っている魔物から掴んだ情報だ。

 烏丸さんたちもただやられていたわけではないのだ。

 状況は刻一刻と変わる。

 俺たち旅人という異世界からの来訪者が来たことをきっかけに、状況の打破への様々な手を打っているのだ。

「でも夜間に動けないのは魔物だけ。それに、火か何かで灯りをつけられでもしたら、結局は魔物と乱戦になる」

「だから隠密で動いて、とりあえず雫を救出。その後、手当たり次第に砦を破壊する。それでいいんだよな?」

 花瓶を抱えた咲乃が、動きを止めてこちらを見ていた。

 その目は何を映しているのか、真剣な瞳が向けられている。

「どうした?」

「いや、うん。それであってるよ」

 咲乃はごまかすように言いながら、花瓶を雫の眠るベッドの脇に置いた。

「ルートは烏丸さんたちが決めてくれているから、あとはそれに従って攻め込むだけだね。私たちは死なないけれど、一度に全滅してしまえば結局皆捕まっちゃうから、相手に反撃の機会さえ与えず叩きつぶさなきゃいけない。でも気をつけないといけないのが……」

「雫以外の捕まっている人間の生死の確認と保護。その後、魔物と魔人を殲滅する。そういう手筈だな」

 魔人にさらわれたとされているのは雫だけではない。

 雫は殺された上で、再生するために連れ去られた。

 しかし、雫以外にも生きた状態で連れ去られた人間はいるのだ。

 相手がこちらの人間のことを理解するためにさらったということであれば、生きている可能性はある。

 今回魔人たちが行った無差別な魔物化のことから考えると、魔人がさらった理由こそが魔物化のための実験であったとするなら、生きている可能性は限りなくゼロに近い。

 とはいえ、初めからいないものとして砦を破壊し尽くすわけにはいかない。

 だからこその隠密行動だ。

 生きている人間は可能な限り救助。

 その後に、砦を破壊する。

 それで、ミナトの驚異は大部分が取り除かれるはずだ。

「蓮司君は、大丈夫なんだね」

 不意に咲乃が呟いた。

 雫の寝顔を見ていた俺は、首を傾げながら顔を上げた。

「何のことだ?」

 俺を見る咲乃の瞳は、異質な物を見るように揺らいでいた。

 同時に納得したように小さく息を吐いた。

「それこそが、蓮司君が旅人に選ばれた理由なんだね」

 心がずきっと痛んだ。

 針でつつかれるように、確かに痛みを感じた。

「……だから、何のことだよ」

 自分でも心底白々しいと思う。

 自覚しているにも関わらず、俺はこれまで何でもないように振る舞い続けてきたのだから。

「蓮司君、蓮司君のそれは、やっぱりおかしいよ。前々から、思ってたけど」

 言いにくそうに、しかし言わなければいけないと何かに突き動かされているように、咲乃は口を開く。


「蓮司君は、おかしいよ。なんでそんな冷静でいられる? まるで、何も感じていないように。普通の人よりもずっとずっと、心の中が冷めてしまっている。無感情ではないけれど、蓮司君は感情の振れ幅が小さいんだよ」


 雫が検査をするということで、俺たちは病院の屋上へと上がった。

 自販機でジュースを二つ買って、一つを咲乃に投げて渡す。

 柵に背中を預けて座りながら、俺はため息を落とした。

 そんな俺に、咲乃は言った。

「ずっと、ずっとすごいと思っていたんだ。蓮司君、最初こそ雫ちゃんを助けようと、すぐにでも動き出しそうにしてたけど、しばらく経つと必要なことだからと言って文句一つ言わずに鍛錬とかしてたよね。もう、雫ちゃんが一月以上も目を覚まさないっていうのに」

「……そうだな」

 ぶっきらぼうに頷きながら、オレンジジュースを乾いた喉に流し込む。

 雫を助ける。助けたい。その気持ちに嘘偽りなどありはしない。

 しかし、他にしなければいけないことがあれば、雫を助けるために必要なことであれば、優先順位をつけて簡単に実行できる。

 そこに焦りや憤りを覚えることはあっても、それも普通の人からすればずっと少ない範囲なのだろう。

 自分のことだからよくわからないが。

「魔物を、魔人を倒しているときもそうだった。相手がどんな生物かはわからない状態と言っても、いやだからこそ相手を簡単に殺すなんて真似、普通はできない。まして魔人は私たちと同じ異世界人だっていうのに」

 咲乃もリンゴジュースを開けて、口に運んだ。

「決定的におかしいと思ったのは、ミナトの人たちが魔物に変わったときだよ。蓮司君はそのことに初めから気づいていたにも関わらず、私たち以上に魔物を狩っていた。そんなこと、普通は、できないよ」

 口ごもりながら咲乃が言った。

「はは、まったくだよ」

 自嘲気味に笑みを浮かべて、俺は缶を床にコツリと当てる。

 アパシーシンドローム。

 俺がその病名を言い渡されたのは、両親がなくなってすぐのことだ。

 別名無気力症候群。無関心や無気力などの特定の感覚が働きにくくなることを言う。

 俺の場合は、感情の起伏が乏しいということ。

 物事に関心がないわけでも、やる気が起きないわけでもない。

 ただ、物事に対して心が動きにくいということにある。

 目の前で動物が車にはねられて死んでも、大けがをして血だらけになっている人を見ても、昔の友達が病死したと聞いてもしても、ほとんど心が動かない。

 どこまでも冷静に冷淡に、物事に対処することができる。

 それは短所どころか長所だと人からも言われてきたが、病気とまで言われていた以上、それを喜んだことはない。

 それすらおそらくはこの病気の症状なのだろう。

 原因は、両親や祖父母などの周囲の人間の死が原因ではないかと、先生から言われた。

 そのときには既に心が触れなくなっていたため、真実か偽りかさえ判断することができなかった。

 でも、おそらくは正しいのだと思う。

 周囲で起きた物事に自分の心がついて行けなくなったのだ。

 以前は、無感情どころか感情の起伏が人一番激しかったと雫は言っていた。

 だからこそ、膨れ上がった強すぎる感情に、心が静止をしているのが今の状態ではないかと医者からの診断を受けている。

 俺が寝ぼすけなのも、授業中に居眠りばかりするのも、その一端だ。

 ただ単純に別に困りもしないし、怒られてもほとんど心が触れないため、気にならない。

「夕樹が夢世界への旅人と選ばれる人の共通点の話をしたときに、すぐに思い当たったよ。それで同時にちょっと傷ついた。ああ、やっぱり周りから見ても俺っておかしいんだって」

 アパシーシンドロームの傾向の一つに、治療することへの意欲が少ないという点がある。なぜならそれによって本人が困っていないからだ。

 うつ病とアパシーシンドロームの違いとして、うつ病は本人がそれに対して困っており、治したいと考えている。

 しかしアパシーシンドロームはその意欲が乏しい。

 俺の場合もそうだ。無感情であったがために、良かったことこそあれど、本当に困ったということがほとんどないのだ。

「決定的な部分を目の前に突き立てられるのって、結構ぐさりとくるんだよな。俺、もう一人の俺に言われたんだよ。『きっとお前は、俺たちの世界でならなくした気持ちを取り戻せるよ』って」

 咲乃は俺の話を黙って聞いてくれる。

「あれはもう一人の俺。だったら隠せるわけもないよな。でも、もう一人の俺は、俺が見たことも浮かべたこともないような笑みをしていたんだ。それを見たら、ああ、やっぱり俺はなくしてるんだなって、はっきり思い知らされた」

 別に本当のことを言い当てられて怒りを覚えたわけでも悔しかったわけでもない。そういったところに感情を示さなくなっているのだから当然だ。

「でも、心のどこかでこのままじゃいけないと思っていたんだ」

「うん」

「俺は別に構わないんだよ。それで困ることないからな」

 アパシーシンドローム特有の困らないからを発動して自嘲気味に笑う。

「それでも、無感情な俺を気遣ってバカみたいに高い気持ちをぶつけてきた雫や、俺を心配してアホみたいに騒いでいた琢巳にも、申し訳ないと思っていたんだ」

 雫が時折暴力的とまで思われる攻撃をしてくるのも、琢巳が呆れるほど高いテンションで俺に接していたのも、俺のことを知っているがために感情を引き出そうとしてくれていたからだ。

「時々さ、夢世界に行くと自分でもビックリするぐらいの大声を出せたり、叫んだりもできた。たぶん、ちょっとずつだけど変わってたんだよ」

 ここ最近、驚きの連続や狂気ともとれる感情に触れ、俺の中の心が少しずつ触れ始めていた感じが確かにあった。

 咲乃はジュースを床に置くと、俺に近づき、両手で俺の頬を掴んだ。

 傷一つないひんやりとした指が頬を撫で、珍しく体がかぁっと熱くなった。

「おっ、どきどきしてるね。本当にちゃんと感情動いている」

「……こんなことされたら普通動くだろ」

 その普通な反応を体が示し始めたのも、本当に最近だ。

 俺が示している、この当たり前の反応が何に起因されているのかは、俺自身はっきりわかっている。

 咲乃の手を握り、咲乃の顔を見上げる。

「俺は、あの世界に、そしてお前に出会えて、良かった」

 咲乃が一瞬きょとんとした。

 俺の言葉に気づき、途端に顔を真っ赤にした。

 男の頬に触れるなんて大胆なことをしておきながら面白い反応をしてくれる。

「ちょ、い、いきなり何言っているの? わ、私にじゃなくて、皆に、でしょ?」

「いいや、お前に、だな」

 きっぱりと訂正しているやると、咲乃はますます顔を赤くする。

「雫は助ける。確かに俺は雫を助けるってことにも、感情が触れにくいみたいだ。だけど、それでも、雫を助けないなんて選択肢は俺の中には絶対にない。この身に代えても、絶対に雫は助ける」

 それは感情の振れ幅とか、起伏だとかなんてつまらないことは関係ない。

 俺があいつの兄だから。

 あいつの兄が俺だから。

 これまで俺にくれた数え切れないものをあいつに返してやるまで、絶対に死なせるなんてことはあり得ない。

「俺のことを知られたお前に言っとくぞ」

 顔を赤くしている咲乃の額に指を突きつける。

「俺は、絶対に雫のことを適当に考えたことはない。それだけははっきりさせといてもらおうか」

「う、うん、わかったよ」

 咲乃はコクコクと頷く。

 そのとき、俺の腕時計がセットしていたタイマーが音を立てた。

 病院を出なければいけない時間にセットしていたものだ。

「咲乃、俺は最近自分でも感情が戻り始めたと思う。それでいくつか気づいたことがあるんだ」

 俺は咲乃に背中を向けて、階段室へと歩き始めた。

 扉に手を掛け、俺は笑顔を浮かべて咲乃の方を振り返る。

 自分でも驚くほど自然に出た笑みだった。

 きっとその表情は、夢の中でもう一人の俺が浮かべていたものにそっくりだろう。


「――雫を助けることができたら、お前に話があるからな。逃げんなよ?」


 顔をリンゴのように赤くした咲乃を残して、俺は屋上を後にした。

 冷たい扉に背中を預け、俺は長々と息を吐いて火照った体を冷ます。

 これまで通り、感情の起伏が人よりずっと乏しいレベルまで落ちる。

 そして、携帯電話を取り出し、世話になっている養護教諭の番号を呼び出した。


    Θ    Θ    Θ


 眠たい。

 あまりにやることがないためずっと起きているので、時折すごい眠気に襲われる。

 今ならお兄ちゃんをゆっくり眠らせてあげてもいい。

 ……いや、やっぱり起こすかな。

 小さく笑いを漏らして、大きなあくびを漏らす。

 周囲は以前と変わらず誰も近づけない状態となっており、巨大な石造りの部屋に、重い鉄の塊、そして私を繋ぐ強固な鎖。

 お腹も減ってきた。

 もうこれまでどうやって食べ物を口にしてきたかもわからなくなってくる。

「お兄ちゃんはご飯を食べているかな……」

 私が作らないと偏った料理ばっかり作るから困るんだよね。

「……」

 頭の中にあるのは、心配ばかり掛けるバカ兄の姿ばかりが思い浮かぶ。

 お兄ちゃんがアパシーシンドロームという特殊な病気を診断されたとき、私は本当にショックを受けた。

 お兄ちゃんはお父さんとお母さんが死んでも、おじいちゃんが死んでも涙一つ流さず、平静を貫いていた。

 誰もが、立派だと、強い子だとお兄ちゃんのことを口々に褒めていた。

 そんなわけはない。

 お兄ちゃんは辛い状況に直面したとき、それを簡単に受け止めるような強い心を持っていない。

 簡単に折れて砕けてしまいそうな、脆い心をしているのだ。

 だから心を周囲から遠ざけた。

 いかなることがあっても動じない、揺らがない、逃げ出さない。

 お兄ちゃんにあるのはそういうものじゃない。

 ただ、受け付けないんだ。

 お兄ちゃんは何があっても、何が起きようとも目の前の現象を受け入れる。拒むことなく、否定することなく、ただ見る。感じる。

 しかし、絶対一定のラインを超えることはない。

 自分の心が瓦解してしまわない最低ラインを作り、それ以上は絶対に受け付けない。

 だから常に平静、正常、穏やか。

 真っ直ぐ折れないものを模倣する。

 それがお兄ちゃんだった。

 咲乃先輩達が言っていた、旅人に選ばれる理由。

 お兄ちゃんの理由は間違いなくそれだ。

 本来は誰よりも高ぶる感情を持っていながら、同時に脆い心を持ってしまったお兄ちゃん。

 大きな感情を欠いてしまった。

 私は自分の世界への好意。

 音夢先輩は眠り。

 夕樹先輩は痛覚。

 お兄ちゃんが、感情。

 咲乃先輩は……。

 誰もが様々なものを失って、この世界へ来ている。

 そして、誰もがそれをこの世界で取り戻しつつある。

 それはこの世界があってこその、まやかしなのかもしれない。真実ではないのかもしれない。

 音夢先輩も夕樹先輩も、問題が解決しているわけでは、別にない。

 だがそれでも、この世界に来たことについて尋ねられれば、きっと皆言うだろう。

 私もこんなところで一ヶ月以上も捕まっているけど――

「この世界に来て、良かった。やっぱり」

 旅人は、誰が、何が選んでいるのかはわからない。

 もう一人の私たちが選んでいるのか、それとも想像も付かないような存在なのか、はたまた世界そのものなのか。

 そんな漠然過ぎることが、私の頭程度でわかるわけはない。

 でもやっぱり、この世界に来たことは、私にとって、私たちにとっての救いなんだ。

 だから後悔することなんてない。

 たとえここで死ぬことになっても、私は自分の世界が好きだと言うことに気づけて、本当に良かったと思う。

 どちらにしても、お兄ちゃんは私が死んでも心を保ったまま明日を生きてくれる。

 そのことだけは、お兄ちゃんの感情が欠けていてよかったと思える。

 でも、もしかしたらお兄ちゃんは、変わっただろうか。

 欠けた感情を取り戻しただろうか。

「どうせ死ぬなら最後に、昔みたいにお兄ちゃんの笑った顔、見たかったな」

 そんな、ブラコン丸出しのセリフが口から漏れた。

 そのときだ。


 突然、外が騒がしくなった。

 

 怒号や轟音が外から響いてきて、私のいる建物の中に木霊する。

 これまで、何度も騒がしくなることはあったが、これは今までとは全く違う。

 音が近すぎる。

 まるで、建物のすぐ外から聞こえてきているようだ。

 いや、まるでじゃない。

 本当にすぐ外だ。

 唯一ある窓の向こうは明るい。

 今は、まだ夜のはずだ。

 ずっと起きていたいたが、つい何時間かくらい前に赤く染まった空を見ている。

 いくら何でも半日近くも錯覚するわけはない。

 しかし、現に窓の向こうは明るくなっている。

 それも、ついさっきまでそうだったように、夕焼けのように赤々と。

 太陽の日じゃない。

 火、炎だ。

 それだけではなく、建物を揺らすほどの衝撃までやってきた。

 窓が砕け、破片が石畳の上に散乱する。

 尖ったガラス片が私が座り込んでいる場所まで滑ってきた。

「いたっ」

 ガラスが足を微かに傷つけ、鋭い痛みが走る。

 それすら久しぶりすぎる感覚だ。

 次々と新しいことが起き始める。

 それは、閉ざされた世界を切り開くように、力強く、強引に、そしてどこまでも自分勝手に動き出す。

 正面にある扉が、何かを叩きつけたように揺れた。

 しかし分厚い鉄で作られた強固な金属の扉だ。ちょっと衝撃では壊れることはない。

 次の瞬間扉の上を光のようなものが幾重にも走った。

 そして、部屋を塞いでいた扉がバラバラに斬り刻まれて吹き飛んだ。

 石畳を削りながら転がる鉄片は、扉を構成していた材質が本物の金属であったと言うことを突きつけてくる。

 それが鋭利な物で切断されて目の前に転がっている。

 何が起こったのかわからなかった。

 斬り刻まれた扉の向こうから一人の人影が部屋の中へと歩いてきた。

 地面に付くほど長い茶色のケープで全身を隠すように纏った細身の人間。

 いや、ケープに付いたフードで顔まで隠しているため、それが本当に私の知っている人間かどうかはわからない。

 なにしろここは、魔人の砦なのだ。

 侵入者の右手には、何でできているのかわからない物質で作られた刀が握られていた。

 侵入者の視線が、こちらを向いたまま止まる。

 そして、迷わず足を踏み出した。

 止める間もなかった。

 侵入者が足を踏み出すと同時に、部屋に入ってすぐの場所に設置していた、私のトラップが作動した。

 足が視認することができないほど細い糸を切った。

 直後、侵入者の頭上から糸によって構成された槍が無数に降り注ぐ。

 細い糸でもお互いを絡ませて強固に結び、その糸に十分な強度があればそれは立派な凶器になる。

 私はこれによって魔人も魔物も一切寄せ付けずに今日までここに立てこもっていた。

 私の能力は糸を操ること。

 この能力の問題点は二つある。

 一つは、私の糸ではどうやっても私自身を切ることができないことにある。

 この能力さえなければ、私は自分の体を切断して鎖から逃れることができるのだが、この糸は絶対に私を傷つけることができないようになっている。

 それもそのはずだ。

 自身が扱う能力で自分を傷つけてしまえば、まともに扱えるわけがない。

 炎使いが自分の炎に焼かれないのと同じだ。

 二つ目が、糸を圧倒的に上回る強度と延性を持つ金属などに対しては効果が薄いということ。

 肉や木、石程度なら切断も破壊も可能だが、金属類はどうしても相性が悪い。

 だが、相手が人であれば、私の作りだした槍はいとも簡単に刺し殺してしまう。

「危な――」

 遅すぎる声を上げる。

 一度発動したトラップは止められない。

 新たな糸を生み出して掴み取ろうとするが、そんなものが間に合うわけがない。

 無数の槍は人一人など簡単に壊してしまう。

 しかし私の予想に反して、壊されたの侵入者ではなかった。

 降り注いだ槍の方だ。

 生半可なことでは一本たりとも切れることがない糸を集めて作られた槍が、扉同様斬り刻まれる。

 物を構成することもできないまでに斬り刻まれた糸が侵入者の周囲に舞い落ちる。

 侵入者は止まらない。

 部屋の中には対魔人、魔物用に作ったトラップが数え切れないほど仕掛けている。

 侵入者はもうトラップがあることにも気づいているはずだが、意にも介さずに走り出す。

 次々とトラップが作動し、侵入者に向かって攻撃が飛ぶ。

 剣、斧、刃、網、針、壁。

 あらゆるトラップが意図的に作動され、襲いかかる。

 それと同時に全てのトラップが侵入者が持つ刀によって破壊される。

 透けて見えるほど薄い刃を持つ刀。

 本来あんな刀で防げるトラップではない。

 いくら金属でできていたとしても、あそこまで薄ければ私のトラップを防げるはずなどない。

 それなのに、糸はまるで刃に触れるだけで切れているように分断されていく。

 無数のトラップを、私の攻撃を全て無力化し、侵入者は私の前に立つ。

 私は、体が竦んでしまって動けなかった。

 何時間も、何日も掛けて張り巡らせたトラップを、苦もなく破壊した侵入者。

 その侵入者が持つ刀が、高々と振り上げられる。

 私は目を閉じた。

 自分が死ぬことはない存在だとわかっていても、これからやってくる死に反射で体が反応した。

 だが、刀の刃はいつまで待っても私に届くことはなかった。

 代わりに、手足に軽い衝撃が走る。

 私の手足を封じていた金属の鎖が、バラバラになって散らばった。

 私の力では傷さえ付けることができなかった硬質金属がまるで最初から離れていたような滑らか断面で切断されている。

 手足が、一ヶ月ぶりに自由になった。

 私は反射的に立ち上がっていた。

 足で床を蹴り、飛び起きるようにして地に足を着ける。

 だが、筋力の低下や体力の消耗はほとんどないと言っても、あまりに動いていなかったため体がふらついた。

 あわや倒れそうになったときに、すっと体が支えられた。

 私の傍らに、いつの間にか侵入者が立って私の体に回されていた。

 固く力強い腕は、女性の細腕ではなくたくましい男のものだ。

 異性である私の体に触れることを一切戸惑わず、慣れたように抱き留める仕草が、とても懐かしかった。

 同時に、目が熱くなり、体の奥底から溢れてきた。

 深々とフードを被っている男の顔は口元しか見えない。

 その口が長々と息を吐き出した。

 呆れるように、安堵したように、何かを達成したように、様々な感情が息とともに流れ出す。

 不意に、男が斬り壊した扉の方から風が吹き荒れ、私を支える男のフードが舞い上がる。

 フードが外れ、その下から仏頂面が覗いた。

 それは、一ヶ月ぶりに見た顔だ。

 しかし、すぐに霞んで見えなくなった。

 どうせ来るだろうとは、思っていた。

 でも、来ないという選択肢も採ることはできた。

 ここに来ることが出来る手段を持っているが、同時に来ないという選択をできたはずだ。

 だから来るだろうと思っていた反面、来ない可能性も十分にあった。

 なぜなら、感情が欠落してしまっているからだ。

 護符は本当に望めば所持者の元に絶対に戻る。

 逆に、心の底から望まない限り絶対に戻ることはない。

 私に対する家族としての思いも、薄れなくなっていれば、護符は戻ることはない。

 もしかしたら、私はそれを確かめたかったのかもしれない。

 仮にこういう場面になった際に、本当に望んでくれるかどうか。

 私自身もうわからない。

 でも、一つ明らかなことがある。


「ったく、手間掛けさせんなよな。一体どこまで来させるつもりなんだよ。迎えに一ヶ月以上使うとか、どこのお姫様だよお前は」


 目を閉じて呆れた表情で毒づきながら、再びため息を落とす。

 双眸が開いたとき、一瞬見えた。

 何年も見たことがない、はっきりとした感情の炎が。

 そして、輝くような笑みを浮かべた。

 

「でも、雫。本当に無事でよかった。遠路はるばる、世界を越えて助けに来たぜ」

 

「……お……お兄ちゃん……っ」


 様々なものを受けて流れ出たものが、頬を伝っていった。

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