11
「魔人と魔物。その関係性には、以前から疑問を持っていたんだ」
魔人が投獄されていた牢屋を見て回りながら、烏丸さんが呟いた。
魔物と化した巨人を倒した俺たちは、一度烏丸さんの元まで戻ってきていた。
すぐに牢屋を調べに行くということで、俺は咲乃と音夢とともに、烏丸さんに同行していた。
ちなみに夕樹は姫神さんに服を見繕ってもらいに行っている。
投獄されていた牢屋には複雑な鍵がいくつも掛けられていた。しかしそれら全てが溶かされたように外されており、床に落ちて散らばっていた。
これほど堅牢に作られた牢屋と言っても、鍵を外されてしまえばただの扉だ。鉄柱を組み合わせられて作られた扉は簡単に動くようになっている。
ここから悠々とあの魔人は出て行ったわけだ。
「魔人は異世界からの侵略者だ。それは過去に魔人が言っていたから間違いないだろうし、それが原因となってこの世界から多くの人が消失した」
でも、そこから考えると魔物の存在は少々不自然だったと、烏丸さんは言う。 烏丸さんは自身が作りだした鎖に触れた。
鎖は完全に砕かれており、破片が周囲に散らばっている。
本来は力業などで砕けるものではないようだが、それは明らかに引きちぎられたようになっている。
「魔人は別世界の人間。だとするらな、魔物の存在は何なのか。この世界では、魔人が住む異世界にいる生物だというのが通説ではあったが、それはややおかしい」
烏丸さんが言うには、魔人と魔物が共生するというのはいささか考えにくいとのこと。
当たり前だが、魔物は本物の化け物だ。魔人の言うことを聞いているから、もしかしたら共生も不可能ではないのかもしれないが、あんなサイズの生物が跋扈する世界で魔人たちが普通に生活するのは困難だと言うこと。
「そもそも、あの魔物には生殖器官というものが見当たらないんだ。だとするなら、魔物は自然に存在していた生き物ではないと考えることができる」
「……それは、人工的に作られた生物ということ、ですか?」
なんとか理解しながら口に出すと、烏丸さんが頷きながら頭を掻いた。
「その可能性が高い。魔物の姿は多種多様だが、共通していることは、どこか生き物の姿に乗っ取っていると言うことだ。それから考えると、一つ推論を立てることができる」
烏丸さんが鎖の破片を床に落とすと、床に繋がっていた鎖は根元から消滅した。
「魔物は、本来存在していた生き物に、何らかの手を加えて作った結果ではないかと、私は考えていた」
魔人が意図して生物に手を加え、その結果作られたものが魔物であるというのが、烏丸さんの考えだった。
「その方法は、いくつか考えてみた。異種間交配、薬物、遺伝子改造など。だが、どれも考えにくかった。だから逆に考えてみた。魔物は、いつ生まれたかということからね」
それをいつと考えているのかは、なんとなくわかった。
鍵の残骸を手に取った咲乃も同じことを考えたようだ。
「共存することができないなら、魔人が魔物を作りだしたのは、こちらの世界に来てからということですね」
「その通り」
烏丸さんは嘆息を零しながら牢の柱に背中を預けた。
「存在そのものを操ることが、魔人には可能だ。原理はわからないが、おそらく魔物の創造にはその力が絡んでいると、私は見ている」
何か別のことを考えているように視線を空に向けながら、烏丸さんは言う。
「存在を意図的に歪ませる。そうやってバランスを崩すことこそが、私は魔物を作る方法ではないかと考えている。その方法はおそらく、別の生物の存在も同様に崩し、掛け合わせることだ。だから他の生物同士を組み合わせたような、キメラのような形になっている場合や、存在が不安定になって巨大化した場合など、様々な状態があるんだと思う」
俺は先ほどの魔人のことを思い出した。
魔人の服の中から何か黒いものが溢れ出し、それに全身を覆い尽くされていた。
あれが何か別の生き物が不安定化した存在だったということか。
そしてそれが魔人の存在と混じり合い、別の存在へと変化した。
それが、あの巨人の魔物へと変化したのだ。
「魔物は死亡すると、まるであらかじめそこに存在していなかったかのように、灰になり、塵になり、この世界から存在そのものが消えてしまう。まるでこの世界から存在が否定されるようにね。だから、ただでさえ不安定な魔物は死亡すると同時にこの世界から消滅する」
魔人と魔物の関係。
確かにそう考えると納得できる部分は多いように思う。
烏丸さんはやれやれと肩をすくめて息を吐いた
「彼は、消されてしまったんだよ。我々に情報を漏らしたくなかったんだろうな。まず間違いなく、一度存在を破壊された生物が元に戻るなんてことはありえない。魔物にしてしまえば、それ以上情報聞き出すことができない。現に我々は一部の情報以外聞き出すことができず、貴重な情報源を失ってしまった」
このまま投獄していけば、あの魔人は口を割る可能性が十分にあると考えられていた。
これまで捕まえることができた数少ない魔人は一切情報を漏らさなかったらしい。
しかし、今回の魔人は雫の居場所など少なくはあるが情報を得ることができた。
確かに俺の目から見てもそれほど忠誠心や確固たる意志などは感じられなかった。
「すいません。私がしっかりしておかなかったばかりに……」
看守の羽川さんが俯いて言った。
羽川さんは牢屋の外で見張っといたところ、突然開け放たれた扉から飛びだした魔人に襲われたらしい。
右腕とあばらを数本折る重傷を負っていたが、責任を感じてここまで出てきている。
その際に怪我を負ってしまったらしい。
俺たちのところに魔人が脱走してしまったときにやってきた譲原さんは丁度魔人が逃げていくことに居合わせたらしく、そのおかげで羽川さんもすぐに治療ができた上、魔人のことも知ることができたのだ。
「すいません。僕がもっと早く来ていればこんなことには……」
譲原さんも羽川さんの隣で仲良く肩を落とした。
「君が早く到着していたところで、怪我人が増えただけだろう。別に君が気に病むことはないよ」
烏丸さんが励ますように譲原さんの肩を叩いた。
「むしろ取り調べ中に脱走されなくてよかったよ。もしそうなっていれば君たちは殺されていた可能性が高いからね」
確かに譲原さんが無事だったのは喜ぶべきことだろう。
「脱走時、牢屋の中には他の人はいなかったんですか?」
咲乃が看守の羽川さんに尋ねる。
「いや、誰もいないよ。もう少しで譲原さんが入る予定だったんだ。基本的にそれ以外の人は入らないことになっていたからね」
つまりあの魔人は自分一人で脱獄したことになる。
なぜそのようなことができたのか。
「烏丸さんの能力は破ることはできないんですか?」
「方法がないわけではないよ。相当な力をかければ鎖が破損することはありえる。しかし、この能力によって作りだした鎖には通常の鎖以上の強度がある。それを考慮すると、魔人は何か異能による脱出を試みた可能性が高い」
「異能を持ってすれば破壊は可能なんですね」
「その通りだ。私の鎖によって繋がれたものは確かに異能を使えなくなる。しかし、この鎖は能力を無効化するわけではない。だから、異能によって外的衝撃を与えられた場合は、容易く砕くことができる」
鎖は確かに砕かれていた。
しかし、牢の中にはあの魔人しかいなかった。
「だとするなら、あの魔人は初めから脱出する術を持っていたことになるのかな」
「その可能性が一番高いね」
咲乃の呟いた推論に烏丸さんが同意する。
「その可能性を考えるべきだったよ。魔物化する方法もそうだが、あの魔人以外の異能については私の異能によって封印することはできない。おそらくは体内か服の中かにわからない形で仕込んでいたのだろう」
烏丸さんは牢の柱から背中を話して頭を押さえた。
「私の失態だ。羽川君も譲原君も、すまなかったね」
「い、いえ、こちらこそ逃がして申し訳ありませんでした!」
「本当にすいませんでした!」
羽川さんと譲原さんがびしっと敬礼した。
しかし重傷の羽川さんはその痛みに悶絶する。
それから羽川さんは、譲原さんによって連れられて病院へと向かっていった。
俺と咲乃、烏丸さんだけになった牢屋で、俺は烏丸さんに言った。
「すいません。ちょっといいですか?」
「なにかな?」
「魔人が脱出できた方法はわかりました。しかしそれなら一つ腑に落ちないことがあります」
烏丸さんは真剣な表情で頷いた。
「そうだね。羽川君がいる手前、言わなかったが確かにわからない部分が一つある」
「なぜ、魔人がすぐに脱走しなかったから、ですよね?」
咲乃も同じ疑問を持っていたようでそれを口にした。
そうだ。
魔人はいつでも脱出することができた。
それなのに、一週間近い期間を烏丸さんたちによって拘束されていた。
魔人がなぜ一週間もの間、逃げられたにも関わらず拘留されていたかがわからないのだ。
烏丸さんは鋭く目を光らせながら牢屋から外に出て行く。
「何が起きても大丈夫なように、気をつけてくれ」
その言葉に頷きながら、俺と咲乃は烏丸さんの後を追った。
Θ Θ Θ
魔人が脱走してから数日が経った。
あれから特に何も起きるということはなく穏やかな日々が過ぎている。
俺たちは情報にあった、ミナトから南にある魔族の砦の捜索を続けていた。
しかし、ミナトからは相当な距離があり、加護の外に出てしまうため今のところはまだ様子見といったところだ。
現在少しずつ距離を伸ばしながら調査を進めている。
「であるからにして、今の日本があるわけです」
俺は自分の世界で大して面白くもない授業を聞きながら夜になるのを待っていた。
最近現世での昼間がもどかしい。
昼にあちらの世界へと渡れば、向こうは真夜中だ。
基本的に夜間魔物はほとんど活動をしない。
魔物は少し目が悪いようで、暗い場所では目の前にいても気づかないと言うことがあるそうだ。
だからこれまでにも夜にミナトや人が襲われたという例は少ないらしい。
俺たちの生活ペースにも合うは合うので、嬉しいことではあるのだろうが、少しでも雫を助ける時間に費やしたい俺からすれば嫌な枷でしかない。
別に、昼間に夢世界へ行けないわけではない。
しかしそれは咲乃から厳しく禁じられている。
なんでも、昼間にまで夢世界に行くようなことを続けていると、大量の消耗が激しくなるとのこと。
実際に行ったやつがいるらしく、夕樹とかいう、一週間ほどそんな生活を続けてぶっ倒れたらしい。
寝ているので体力的には回復するらしいのだが、昼間に夢世界に行くことを中途半端に繰り返すと体内バランスやご飯を抜くことが当たり前になり、確実に体に負荷がかかる。 だから絶対にするなということ。
ばれたら確実に逆鱗に触れることになる。
「今日の授業はここまで。課題は明日の授業までに仕上げるように」
ええーっという生徒達の嘆きが教室中から上がる。
先生はそんなこと知るかと言わんばかりに一切反応せずに出て行った。
短いホームルームのあと、すぐに下校時刻となった。
それぞれ教室から出て行く友達と適当に挨拶を交わしながらも、俺は教室に残っていた。
机の上に、今日出された課題を全て広げる。
先ほどの歴史の他に数学と生物に少し課題があった。
夢世界に行くようになってから、出された課題はその日の内に終わらせることが日課となっている。
早いときであれば夕方六時くらいから夢世界に行く。そして朝まで夢世界にいるのだ。
体力的には気をつけてさえいれば体に影響はない。
しかし、そうなると課題や宿題をやる時間が一切ないのだ。
帰ってしまうともうやる気が起きないので、可能な限りそのまま高校で終わらせて帰るようにしている。
最悪、先生にすぐに聞きに行くなりクラスに残って勉強しているやつに聞くなどして簡単に終わらせることも可能だ。
おかげで、あのダメ兄が突然まじめになったと教師陣の中ではちょっと話題になっているらしい。
だが安心してほしい先生方。
こんな生活は雫を助けてしまえばおしまいだ。
また以前の生活に戻ってやるぜ。
そんな先生たちからすれば全く嬉しくないであろう未来を夢見ながら、俺は課題を進めた。
もうすぐ六時になる。
今日の課題は少し手間取ってしまった。
課題を終わらせたときには、教室にはもう俺しか残っていなかった。
ファイルに入れて持ってくるのを忘れないように机の中にしまう。
席を立つ同時に、教室の扉が開けられた。
「篠崎、ちょうどいいところに残っていたな」
やってきたのは養護教諭の野々宮先生だ。白衣のポケットに手を突っ込みながら俺の方へと歩み寄ってきた。
「はい。ちょうど帰るところですので、失礼します」
ダッシュで逃げようとしたのだが、走り出すと同時に首根っこを掴まれた。
「いやいや待ちたまえ。最近まじめに課題をやってくるという噂の君に私からも課題を一つだそう」
「そんなものはいりません。俺はこう見えて忙しいです。雫の見舞いに――」
「病院はもう面会時間を終えているんじゃないかな」
ちっ、ばれたか。
言い訳を失敗してしまった以上、逃げるわけにはいかない。
「それで、なんですか? 雫のことはともかく忙しいのは本当なので、あまり時間はないのですが」
「それはわかっているつもりだよ」
冗談とまじめな話をきっぱり判断してくれるのは野々宮先生のいいところだ。
「保健室で寝過ごしている子がいてね。ちょっとお持ち帰りしてくれないかなと思って」
野々宮先生はニヤリと嫌な笑みを浮かべて言った。
とても教師のセリフとは思えない。
しかしそれだけで全てを把握した。
俺は嘆息を吐きながら肩を落とした。
「ああ、久しぶりですね。それならいいですよ。仕方ないことですから」
野々宮先生に連れられて、俺は保健室へと向かう。
部活などを終えて帰宅していく生徒達とすれ違いながら廊下を進んでいく。
「妹さんの様子はどうだい?」
周囲に生徒がいなくなったところで、出し抜けに野々宮先生が聞いてきた。
「ん、まあ相変わらずです」
「そうか。最近忙しそうにしているが、妹さんのことが関係しているのかな?」
いつもとぼけたような態度を取っている野々宮先生だが、変なところで鋭いのだ。
「大体そんなところです」
はっきりとは答えない俺に、野々宮先生はふっと笑みを漏らした。
「もし自分の力でどうにもできないことがあれば、いつでも私のところに来なさい。可能な限り、手を貸そう」
「……はい、ありがとうございます」
これだから、この先生には敵わない。
保健室に入ると、隅のベッドで一人の生徒が寝ていた。
「やっぱりまだ起きていないか」
野々宮先生が頭を掻きながらベッドに近づき、眠っている生徒を揺さぶるが起きずに寝息を立てるばかりだ。
「久しぶりですね。最近は割と普通に起きていたんですけどね。音夢のやつ」
ベッドに横になっているのは旅人でもあり俺の保健室仲間である音夢だ。
すぅすぅとかわいい寝息を立てながら、音夢はクマのぬいぐるみを抱えて眠っている。
「頼めるかい?」
「ええ、親御さんからも助けてやってくれって頼まれてますからね」
背負っていたエナメルバッグを開き、音夢が抱えていたぬいぐるみを押し込んだ。ちょっと狭いだろうが我慢をしてもらおう。
先にぬいぐるみを入れたバッグを肩に掛ける。
「よっと」
ベッドに寝ていた音夢を抱え起こし、背中に担いだ。
音夢は相当な小柄なので背負っても大して苦にはならない。
「それじゃ、しっかり送っていってくれ。任せたよ」
「任されました」
野々宮先生にぺこりと頭を下げ、俺は音夢を背負って保健室を出た。
音夢はまったく起きる様子がない。
高校の裏口から外に出て、なるべく人目に付かない場所を利用して音夢の家へと向かっていく。
しばらく歩いても、音夢は目を覚まさない。
時々寝言のようにむにゃむにゃと言っているが、揺られても車がクラクションを鳴らして走り抜けていっても起きる様子がない。
音夢は、特発性過眠症という病気を患っている。
昼間の内に、突然急激な眠りに襲われて数時間単位で眠ってしまう病気のことだ。
音夢はこの病気によって、授業中などにも眠りに襲われ、そのため保健室にいることが多い。
俺もよく保健室でサボっていたので、音夢とは保健室仲間になっていたのだ。
中々に苦労をしていると聞いている。
以前よりそういう病気があるということで高校側には伝えており、その上で高校を入学していたのだが、一部の教師はそれをよしとしなかった。
ただ単純にさぼりたいだけと決めつけ、音夢を糾弾したのだ。
医師の診断書などもしっかり用意されていたので、両親から提出されて高校側に改めて音夢の病気のことを理解させることはできた。
しかし、それが音夢の両親と高校側に軋轢を生んでしまったのだ。
眠って起きなくなった音夢をタクシーや教師の車で送るなどすると、両親がいい顔をしないのだ。
だからこうして、いやそれもおかしいとは思うのだが、音夢を俺がたまに自宅まで送るということがある。
音夢の知り合いに中々俺のような暇人はいない上、こういうことをしていると少なからず教師陣に目をつけられるのも事実だ。
そんなのを気にせずなおかつ暇人というのは、俺くらいしかいなかったらしい。
厄介事であることには変わらないが、こいつを放置しておくわけにもいかないのも事実。
音夢もある程度は眠くなるときの予兆はわかるらしく、眠る前には保健室に駆け込むらしい。
今回もそれだったらしいのだが、どうやら下校時刻までには目を覚ますことができなかったようだ。
たまにすれ違う人から向けられる希有な目にも、もう慣れた。
音夢の家は高校から徒歩十分くらいのところにある。
特発性過眠症といういつ起きるかもわからない症状があるため、移動時間を可能な限り短くするために一番近い高校を選んだのだ。
最近は、ずいぶんこういったことも減っていた。
それは夢世界に行くようになったからだと、以前音夢が言っていた。
この何をしていも起きないという音夢の姿は、一見夢世界に行っている様子に近いものがある。
しかし、夢世界へ行って意識が体から外れている場合、抜け殻となっている体は身じろぎすらしない。
現在の音夢は寝言やら呻いたりしているので、とりあえずは夢世界に行っているわけではないなと判断できる。
また音夢曰く、夢世界に言っている間は特発性過眠症に襲われることはないらしい。
それが音夢が夢世界へと進んでいく理由の一つなのだ。
音夢にとって、何気ない日常がいつ途切れてしまうかわからない。
それが音夢が置かれている現実なのだ。
路上で急に眠気がやってきてしまえば、大事なときに起きていられなくなってしまったら。そんな恐怖が音夢を絶え間なく襲っている。
ただ眠るというのはわけが違う。起きていられるなくなるというのが、特発性過眠症の恐ろしい部分なのだ。
極端な話、音夢は特発性過眠症が治るまで乗り物を運転することは困難であるし、路上で眠ってすりや暴漢に襲われてしまえば一切抵抗ができない。
夢世界に行けば、音夢は過眠症に悩まされることもなく普通の女の子として生活を送ることができる。
過眠症に悩まされる音夢にとって、それは魔物や魔人と戦うことを差し引いても圧倒的にプラスになる。
「もっと、俺を頼っていいんだからな」
すぐ後ろで寝息を立てる音夢に、俺は言った。
俺たちの高校でも音夢の事情を把握している人間は少なくない。明らかに目に付いてしまう行動なだけに、それは仕方のないことだ。
でも、その症状や状態を正しく理解している人間は、先生たちでも多くはない。
野々宮先生は率先して音夢を擁護してくれた先生で、いかに音夢が置かれている状態が特殊で危険であるかを教師陣にこんこんと説明もしてくれた。
だから俺と音夢は、野々宮先生に絶対的な信頼を寄せている。
青い屋根の一戸建てが見えてきた。音夢が両親と一人いる弟とともに住んでいる家だ。
音夢を背負い直し、インターホンを押した。
しばらく待つと玄関が開いて、中学生くらいの男の子が出てきた。
「ああ、蓮司さん。お久しぶりです」
中から現れたのは音夢の二つ下の弟、直起だ。
中学校から帰ってきたばかりなのか、制服姿だ。
「よっ、直起。確かにちょっとぶりか」
「そうですね。大体二ヶ月ぶりくらいでしょうか」
まめに覚えているようで直起は顎に手を当てながら呟いた。
「今日は何しに、って見ればわかりますね」
直起は俺の後ろで寝息を立てながら音夢を見て苦笑する。
「おう、だからちょっと上がらせてもらっていいか?」
「ええ、どうぞ。好きに上がってください」
ドアを開けて促され、俺は音夢を背負ったまま澄川宅におじゃまをする。
自分の靴は自分で脱ぎ、音夢の靴は直起に外してもらう。
「部屋までお願いできますか? 今鍋に火を掛けているもので」
「ああ、いいよ。任せてくれ」
澄川家の両親は共働きだ。
音夢もそうだが直起も少しでも両親の負担が減るようにと、お互いで料理を作ってカバーしている。
二階へと上がり、奥にある部屋を開く。扉には「ねむの部屋」と子どもの字で書かれたプレートが掛けられている。
音夢の部屋はいつ来ても綺麗に片付けられている。ただ、やたらめったらぬいぐるみが多い。
動物系のものから魚や珍獣、恐竜から怪獣まで様々なぬいぐるみが棚やベッドに並べられている。
全体的に明るめの基調となっており、女の子女の子した部屋となっている。
左手の窓際にベッドがあり、姿勢を低くして布団を引いた。
背中を向けて、ゆっくりと音夢を下ろす。
とそこで、急に両腕で首をがっちりと抱かれた。
バランスを崩し、そのままベッドに引き釣り込まれた。
「いってぇ……お前いつから起きてたんだよ……」
「……さっき」
音夢のにんまりと笑う顔がすぐ目の前にある。
俺が音夢に押し倒された形になっており、ベッドに抱き合うようにして横になっている。
「また、寝過ごしちゃった。ごめんね」
音夢は申し訳なさげに謝る。
体質上、それは仕方のないことだが、両親が共働きな上に両親が教師陣を嫌っているため、俺みたいな人間が音夢のお世話をしなければいけない状況に、音夢は責任を感じているのだ。
「別に気にするな。俺はできることをやってるだけだ。昼間は特にやることもないし。それより、離してもらっていいですかね?」
早くこの状況から脱したいのだが、音夢に足を絡められているので逃げ出すことができない。
こいつは普段は恥ずかしがり屋なくせに時折とても大胆な行動に出る。
「蓮司には、迷惑を掛けてばっかり……」
現段階でいらぬ迷惑をかけられているのだが空気的に口に出せなかった。
「迷惑だなんて思ってない。お前にはたまに勉強も見てもらってるし、夢世界でも助けてもらってる。むしろ助かってるくらいだ」
音夢はこう見えて非常に頭がいい。それで眠ってばかりいるものだから、教師や生徒からいらぬ反感をもらう原因の一端にもなっている。生徒からはねたみを買い、教師からは私たちの授業なんて受けなくてもいいわけかとかなんとか思われているのだ。
徐々に頭がさえてきて恥ずかしくなってきたのか、頬を微かに上気させているが、離してくれる気はないらしい。
「雫ちゃんにも、たくさんお世話になった。絶対に助けるから、私も、協力させて、ね?」
「ああ、頼りにしてる」
俺は音夢の構想から逃れ、体を転がしてベッドから落ちた。
腰を打って顔をしかめながらも、体を起こして立ち上がる。
「さて、もうすぐ夜だ。向こうに行かないといけないから、そろそろ帰るぞ」
「もうちょっと、いればいいのに……」
むぅーっと頬を膨らませながら音夢が唸る。
俺はその頬をつついてぷすっと空気を抜いた。
「そういうわけにもいかんだろ。女の子の部屋にいつまでも男がいるわけにもいかん」
家族からお許しを得ているとは言ってもダメなものはダメだ。
「じゃあ、また向こうでな」
エナメルバッグから音夢の護符であるクマのぬいぐるみを抜き取り、音夢に抱かせてやる。
ぬいぐるみと音夢の頭を叩き、俺は音夢の部屋を出て行く。
「蓮司」
部屋から足を出たところで、音夢に呼び止められた。
「私は、もっと蓮司を頼る。だから、蓮司ももっと私を頼ってほしい」
ぬいぐるみを抱きしめながら、音夢が微笑んで言った。
その仕草に、思わず心臓が跳ねた。
「ああ、頼りにしてる」
俺を笑って言葉を返し、俺は澄川家を後にした。
つうかあいつ、結構前から起きてたんじゃねぇか……。
家に帰る途中、喉が渇いたので公園に併設されている自動販売機でジュースを買おうとしていると、後ろに誰かの気配があった。
振り返ると、そこには制服姿の咲乃が立っていた。
「こんにちは。いや、もうこんばんはかな」
笑いながら咲乃はそんなことを言った。
「どうしたんだこんなところで。咲乃の家ってこっちの方なのか?」
「うん、まあね。雫ちゃんのお見舞いの帰りなんだ」
「そうか。そりゃあ悪いな。どうだった?」
「いつも通りだよ」
やや暗い面持ちで咲乃が呟く。
そう、いつも通りなのだ。
雫を助けるには、目を覚まさせてやるには、夢世界に綴じ込まれている雫を助け出すしかない。
「お前もなんか飲むか? なんでもいいぞ」
お金を入れたまま横に避けると、咲乃は嬉しそうに笑った。
「ホント? ありがとう」
咲乃は自販機の前に躍り出ると、指を滑らせながら品定めを始める。
やがて、ある一点で指が止まる。
「何でもいいの? これでも?」
「……お前がいいのなら構わんが」
「やたっ! ありがと!」
子どものようにはしゃぎながら、咲乃が自販機の一番右側のボタンを押した。
がたんと音がして自販機が購入したものを吐き出した。
咲乃が喜んで取り出したそれは、まさかのおでん缶。
「この暑い中よくそんなもん食うな……」
俺は呆れて声を漏らした。
まだ五月の終わりとはいえ、すでに結構な熱気が体を焼いている。
日が沈んだ今でもまだ十分に暑い。
「だって、中々食べれないじゃん。一人だとなんか買いにくいし」
それは確かにあるかもしれない。
といっても俺は一度も食べたことはないが。
自分の分は微糖のアイスコーヒーを買い、俺はプルトップを押し開けた。
近くのベンチに二人で腰を下ろして、俺はコーヒーに口をつけ、咲乃は熱々のおでん缶を開ける。
「いたっ」
途端に咲乃が顔をしかめる。
「なんだ? 指切ったのか?」
「うん、やっちゃった……」
恥ずかしそうにはははと咲乃が笑う。
「気をつけろよ女の子なんだから。ちょっと押さえてろ」
俺はコーヒーをベンチの脇に置き、鞄からティッシュを取り出して、たらりと流れる血を拭き取って傷口を押さえた。
最近のおでん缶は指とか切らないように作ってないのかな。それとも安物だったか。単純に咲乃がドジだったか。
最後のが一番有力だな。
いつもはしっかりしているくせに変なところでどんくさいのが咲乃という人物だと、最近わかった。
エナメルバッグの中をあさり、中から消毒液と絆創膏を取りだした。
「……普段からそんなに持ち歩いているの?」
咲乃の指を消毒していると咲乃が不思議そうに言った。
「こういうものは常に持っていないと役に立たないんだよ。絆創膏なんて、家においても使う機会あんまりないからな。常に持ち歩くようにしているんだよ」
他にも風邪薬や頭痛薬、胃腸薬や包帯まで、ありとあらゆるものが俺の鞄には詰め込まれている。
一部の人間からはドラえもんとまで呼ばれている。そんなやつらには治療具を支給することを止めてやったが。
結構ざっくりいってしまっていたようで、血を止めることに苦心したが、ある程度止めたところで絆創膏を巻き付けた。
「何枚か予備渡しとくから。外れたり血が多く付いたりしたら張り替えてくれ」
「なんか、何から何までごめんね」
「気にするな。雫に教えられたことなんだよ。お兄ちゃんはいつも怪我やら体調不良に襲われるから常に持ってなさいって」
「あははは! 確かに雫ちゃんなら言いそうだね」
治療具を鞄にしまいながら、ベンチに置いていたコーヒーを手にとって一口飲む。
指の血もどうにか止まり、咲乃は嬉しそうにおでん缶を食べ始めた。
串に刺さったはんぺんを探し当てると、冷ましながら口に運ぶ。
「んん!? おいしい! これおいしいよ蓮司君!」
咲乃は嬉しそうにおでんを頬張りながら俺の肩をばしばしと叩く。
「わかった。わかったから叩くな。痛い痛い」
「いや、ホントおいしくって」
咲乃はおでんを次々と口に運んでいき、瞬く間に全ての具を食べ終えた。
最後に出汁を一口飲んでほっと息を吐いた。
「はぁー、これ最高だね。人類にとって至高の食べ物だ」
「そこまで言われたらおでん缶を作った人たちも冥利に尽きるだろうよ」
コーヒーを飲み干し、立ち上がって缶を振りかぶる。
自動販売機の横にあるゴミ箱目がけて缶を投げ飛ばす。
緩やかな放物線を描いたコーヒー缶は見事ゴミ箱にドロップした。
「ナイスショット」
拳を握ってガッツポーズを採る。
「よしっ」
咲乃は頷きながら立ち上がり、おでん缶を俺に習って投げ飛ばす。
「ファー……」
しかし、おでん缶はあらぬ方向に飛んでいき、離れたところにあった木に当たって地面に落ちた。
脇腹を小突かれた。
咲乃は早足でおでん缶を拾いに行くと、両手で掴んでゴミ箱に落とした。
「さてさて、そろそろ帰るとするか。向こうにも行かないとだしな」
体を伸ばしながら大きくあくびをする。
「大丈夫? 最近疲れてるんじゃない? 夢世界にも慣れてないんだから、無理しちゃダメだよ」
「心配するな。俺が眠いのはデフォルトだ」
寝坊寝過ごし起きる気なしの三拍子。それが俺のモットーです。
こんなこと言ったら雫にぶっ飛ばされるな。
「疲れてるんだったら一日ぐらい夢世界に行かなくても大丈夫だよ? 下手に体調崩す方が後々大変なんだから」
確かに、連日夢世界に行くというのは存外体力を使うものだ。
それは、眠っている間にも常に意識があるということで、心が安まるときが極端に短いからだ。
体的には問題だと感じていないが、それでも連日の旅でここ一週間ほど徹夜をしている気分だ。
「まあ、そのうちな。本当にきつかったら言うから。とりあえず今日はまた行くよ」
鞄を肩に掛ける。
少し下から咲乃が少しむすっとした顔で見上げていた。
努めて気にしないようにしながら、公園を出て行く。
「お前の家どっちだ?」
「え? 別にいいよ送ってくれなくても」
「そういうわけにいかんだろ。もう日も暮れてるのに」
「大丈夫だって。すぐそこだから。それより蓮司君、本当に疲れてるなら言ってよ? 別に誰も責めたりしないんだからね」
引き留める間もなく、咲乃はスカートをはためかせながら走り出した。
公園を出て行き、咲乃は細い路地に向かっていく。
見えなくなる手前でこちらを振り返って大きく手を振り、俺が通ったことがない路地へと消えていった。
肩をすくめて帰ろうとしたとき、ベンチの上に白いハンカチが落ちているのに気づいた。
「まったく、そそっかしいな」
ベンチに座る前になかったということは、これは咲乃の忘れ物だろう。
咲乃が入って行った路地へと向かう。
しかし、路地をのぞき込んでもそこには既に咲乃の姿はなく、ビルの間へと誘うように、生暖かい風が流れていった。