アールスハイド初等学院入学式
その日、アールスハイド初等学院はここ数年にない緊張感に包まれていた。
教職員はソワソワと落ち着きがないし、生徒やその父母も緊張で固くなっていた。
なぜ生徒だけでなくその父母まで学院にいるのか?
それは、今日がアールスハイド初等学院の入学式の日だからである。
しかし、入学式に参加するために学院に来たというのに、誰一人会場である講堂に入る者はいない。
なぜなら、彼らはある人物の登場を待っているからだ。
その人物より後に来るような不敬はできないと、ほぼ新入学生の全員が集まっていた。
貴族や裕福な平民が通うこの学院では、完全実力主義の高等魔法学院とは違い、身分による序列が存在しているのである。
緊張感に包まれる学院に一台の馬車が到着した。
その馬車を見るなりさらに身体を固く緊張させる父母たち。
その父母を見て、子供も緊張する。
なぜ馬車を見て貴族である大人たちが緊張するのか? それは、入ってきた馬車には金龍……つまり王家の紋章が刻まれていたからだ。
教職員や生徒、父母たちが待っていたのはこの馬車だった。
馬車の扉が開き、成人男性が降りてくる。
王太子アウグストである。
その姿を確認した教職員と父母と生徒は一斉に頭を垂れた。外であるため、膝をついたりはしない。
続いてアウグストにエスコートされて降りてきたのは王太子妃エリザベート。
そして、その二人から手を取られてアールスハイド王国王女、オクタヴィアが馬車から降りてきた。
「皆の者、面を上げよ」
アウグストがそう言うと、頭を垂れていた全員が頭を上げる。
そして、王太子一家を尊敬の眼差しで見つめるのであった。
その様子を見たアウグストは小さく溜め息を吐いた。
「……堅苦しいな」
「駄目ですよオーグ。貴方は王太子なのですから、ちゃんと威厳を保って頂きませんと」
「おとうさま。ちゃんとしてくださいませ」
「……分かっている」
王太子一家は小声でやり取りをしているため会話の内容は聞き取れないが、ただでさえ滅多にお目に掛かれることのない王太子一家が会話をしているだけで感動してしまう。
中には涙を浮かべている者さえいた。
そんな感動を露わにする教職員、生徒一家一同にアウグストは声をかけた。
「皆、楽にしてくれ。今日は我々の子が初等学院に入学するというという素晴らしい晴れの日だ。この良き日に堅苦しい挨拶など不要。存分に子供たちの門出を祝ってやろうではないか」
その言葉に、生徒や父母たちは、自分たちの入学は王太子に祝福されていると感じ、またも感動するのである。
そんな感動に打ち震える生徒や父母を見て、オクタヴィアは誇らしい気持ちになった。
自分の父は皆に敬われている素晴らしい人物なのだと、改めて実感したからである。
そんな誇らしい気持ちで集まっている人たちを見ていたオクタヴィアだったが、それは次の瞬間すぐに吹き飛んだ。
王太子一家の後に数台の馬車が入ってきたからである。
集まっている一同は咎めるような視線で入ってきた馬車を見つめた。
王太子一家より後に入ってくるなど、なんと不敬なのか。
そんな気持ちが視線に籠っていた。
そういった視線に晒されながら馬車が止まると、開いた扉から一人の少女が飛び降りてきた。
「わあ! もうみんな集まってる!」
「こら、シャル! 危ないから先に出ちゃ駄目って言ってるだろ!」
「シャル! もう! お淑やかにしなさい!」
一同は、親からのエスコートを受けず飛び降りた少女を侮るような目で見たが、続いて降りてきた父親らしき男性と母親らしき女性を見てその目を見開いた。
降りてきたのは『英雄』『魔王』『神の御使い』と様々な二つ名で呼ばれる現代最高の英雄、シン=ウォルフォードと『聖女』と名高いシシリー=ウォルフォードだったからだ。
そして、その英雄と聖女は結婚し子を設けていることは知られている。
ということは、先に降りてきたあの少女は英雄と聖女の娘!
王家よりも後に到着するとは何事だと思っていた一同は、その考えを一気に失くしてしまった。
「ええ? 大丈夫だよ。あ! ヴィアちゃん!」
シャルと呼ばれた少女シャルロットは、オクタヴィアの姿を見つけると一目散に駆け寄った。
「おはよー! やっぱりその制服似合ってるね!」
オクタヴィアに駆け寄り手を取りながら嬉しそうに挨拶をするシャルロットに、オクタヴィアは一瞬呆れたような顔をしたがすぐに笑顔を浮かべた。
「おはようございますシャル。シャルも似合ってますわよ?」
「えへへ、そう? やっぱそう思う?」
「自分で言いますのね」
「だって、パパもママもおじいちゃんもおばあちゃんも似合ってるってほめてくれるんだもん」
シャルロットの言う人物は、間違いなく英雄、聖女、賢者、導師だろう。
出てくる名前の豪華さに、集まっている一同は眩暈がしそうになった。
英雄と聖女の娘で、賢者と導師の曾孫。
市井に流れる噂によると、英雄シン=ウォルフォードは教皇エカテリーナの隠し子であるという。
つまり教皇の孫。
どんだけ豪華な親族なんだ! と貴族家からみれば無作法ともとれる行動を取っているシャルロットのことを、まるで天上人を見るような目で見ていた。
そんなシャルロットのもとに、新たに駆け寄る小さな影が二つ。
「シャルちゃん、待ってよ!」
「……眠い」
シャルロットを追いかけて駆け寄るのはマックス、欠伸をしながら近寄るのはレインである。
「あ、オーグおじちゃん、エリーおばちゃん、こんにちは!」
「……ちわ」
マックスがシャルロットとオクタヴィアの側にいるアウグストとエリザベートに対し、おじちゃん、おばちゃんと言ったことに集まった一同は一気に緊張感が増した。
王太子殿下と王太子妃殿下をおじちゃん、おばちゃんと呼ぶとは何たる不敬なのか!!
相手が子供とはいえ、敬愛する王族に対しそのような態度を取る人物のことを、特に王家の忠実なる臣下である貴族家の人間は怒りにも似た感情を抱いた。
しかし。
「ふふ、こんにちはマックス、今日も元気ね」
「……レインは、もうちょっとしゃんとできないのか?」
おじちゃん、おばちゃんと言われた当の王太子夫妻は、マックスとレインと呼ばれた子供のことをまるで親戚の子にするような態度で接している。
もしかして、彼らも王家に近い有力者の子供なのでは?
そう考えていると、子供たちを追いかけるように二人の母親が近寄ってきた。
その二人を見た一同は、ようやく納得した。
「ああ、殿下、エリーさん、すみません。こら、マックス、先に行っちゃだめでしょ!」
「……レイン。あなた、もうちょっと元気に振る舞いなさい」
その母親は、おそらくアルティメット・マジシャンズの中で一番顔が知られているであろう、元石窯亭の看板娘で、現ビーン工房の若奥様であるオリビアと、かつて騎士団のアイドルと言われ、若くして国王陛下の護衛を務めていたクリスティーナだったからだ。
王太子アウグストが副長を務めるアルティメット・マジシャンズに所属する両親と、幼少期からアウグストを知っている近衛騎士の子であれば、あの気安さも納得ができた。
「ようオーグ。いい天気になって良かったな」
諸々の疑問が晴れたところで口を開いたのは、今世最高の英雄と呼ばれ、祖母導師メリダの意思を継ぎ市民の生活を向上させる魔道具を生み続ける、アールスハイド国民であれば貴族であれ平民であれ憧れてやまない人物。
シンがアウグストに、気安く語りかけていた。
「ああ、子供らの門出に相応しい日だ」
「それには同意しますけど、なんスか? この集まり」
「なんか、メッチャこっち見てますけど……」
アウグストに続いて会話に入ってきたのは、レインの父であるジークフリードとマックスの父であるマークである。
「ああ、私たちを出迎えてくれたようだ」
そういうアウグストに対し、シンは感心したように一同を見渡した。
英雄シン=ウォルフォードの視界に入った一同は、先程のアウグストの時以上に身を固くした。
「へえ、スゲエな。敬われてるじゃん、王家」
「……なんだろうな。お前に言われると素直に喜べんな」
「なんでだよ」
楽し気に話しているシンとアウグスト。
それはまるで、シンの軌跡を記した書物『新・英雄物語』にある親友アウグストとの語らいの一幕のようで見ている者の心に感動が芽生える。
そんな一同の心情など知る由もなく、シンたちは子供たちに意識を向ける。
「いつまでもこんなとこにいないで、早く講堂に行こうぜ。もうあんまり時間ないんじゃないの?」
「そうだな。諸君、そろそろ講堂に移るとしよう。そうしないと、先生方も困るだろうしな。ヴィア、シャル、マックス、レインそろそろ行くぞ」
「「「「はぁーい」」」」
アウグストはそう言うと、シンや子供たちと連れ立って講堂に向かって行ってしまった。
そして、その場に取り残された一同はというと……。
(あ、入学式、まだだった)
王家、英雄、その子供たちとの団欒を見せつけられてお腹いっぱいになり、入学式のことをすっかり忘れてしまっていたのだった。