本章
始まりはとても曖昧だったとは言ったものの、それはあくまで彼女を意識し始めたのはいつからかなのかが分からないという意味であって、彼女と初めて出会った時のことは、はっきりと覚えている。
とは言っても、いつ出会ったか、というのがはっきりしているだけで、どんな出会いだったのか、どんなことを話したのか、どんな気持ちだったのかなんかは、はっきり言って全く覚えてはいない。
一目惚れでもない限り、出会いが印象に残ることなんて、特殊な場合を除いてはそうそう無いだろう。
少なくとも、俺が彼女と出会ったのは二年に上がったばかりの頃、つまり、去年の四月のことだった。
俺は新しいクラスで半ば強制的に風紀委員に任命され、初めはどうしたものかと頭を抱えては見たものの、どうせやるならと、気を引き締めて風紀委員会へと向かった。
そして。
そこで、彼女と出会った。
ありふれた出会いだった。
実に自然な出会いだった。
面白みのかけらもない、実に平凡な出会いだった。
彼女が委員長だった、とかそういうわけでもない。
風紀委員の、仕事仲間の一人として、俺は彼女と出会った。
だがまぁ、彼女は去年から風紀委員会に所属していたらしく、もう既に周りにすっかり馴染んでいて、つつがなく、そしてしっかりと仕事をこなしている点において、ちょっとした差別化はなされていたのだが。。
こうして俺がとりあえず半年間所属することになった風紀委員会は、学生会と協力することも多くて、風紀委員としての仕事は思ったよりも大変だった。
そんな中、彼女は人一倍の仕事をこなしていた。
風紀委員の仕事は、とてもやりがいがあって、俺も一生懸命になれた。
そうして俺は、放課後には毎日風紀委員会に行くようになっていた。
……俺が彼女を好きになった理由は、はっきりとは分からないけれど、たぶん一緒に仕事をしていく中で、彼女の一生懸命さとか、真剣さとか、ちょこちょこ見せるユーモラスな一面とかにふれて、だんだんと気持ちが積り積もっていったんだと思う。
仕事をしている彼女はいつも真剣で、周りが心配になってしまうほどに一生懸命で、とても、綺麗だった。
彼女と少しでも一緒にいたくて、俺は自分の仕事が無い時でも風紀委員会に顔を出すようになっていた。
彼女と仕事をするのが楽しくて。
彼女と話ができるのが嬉しくて。
彼女と笑い合えるのが誇らしくて。
仕事を通じて、彼女との距離が少しずつ、ほんの少しずつだけど縮まっていく気がして、とても幸せだった。
そうして、俺は彼女からそれなりに信頼されるようになれた。
一方俺はというと、好きという感情を抜きにしても、彼女に尊敬の念を抱くようになっていた。
委員長から結構重要な仕事も任されるようになったし、彼女と二人で同じ仕事をすることも多くなった。
あるとき、彼女が俺を相棒として認めてくれたことがあって、その時は、内心とても嬉しくて、とても誇らしかった。
そんな風に、俺は憧れの彼女と共に仕事が出来るだけで、とても幸せだった。
この微温い関係が心地よかった。
信用できる仕事仲間として。
信頼できる相棒として。
ただ、それだけで今は幸せだった。
もちろん、それだけで満足しきっていたわけではない。
こうしていれば、いつかはそういった関係に近づけるかなとか、いつかはこの想いを伝えたいなとか思っていた。
けれど、チキンな自分が手伝って、色恋沙汰をどこか物語の世界の話だと思い込んで、想いを伝えるのはまだまだ先で大丈夫と、のんびりしていた。
今はまだ、この幸せな温かい空気の中を微睡んでいようと思った。
結局は、よくヘタレ主人公共が揃って口にするように、ただ『今の関係を壊してしまうと思うと、怖かった』だけなのであろう。
それとも、ただ単に想いを伝えるのが怖かっただけか。
どちらにせよ、俺は自分が可愛かったのだ。
自分が傷つくことを避けただけだ。
告白して、振られたらと思うと怖い。
それ以前に、告白することが怖い。
だったら、このままでいいじゃないか。
誰も気付くこともなく、誰も傷つくこともない。
今まで何回も繰り返してきた片想いと同じに、想いを伝えることはせず、自分の胸のうちにまたしまい込む。
そうすれば、いつもどおり別れと共に時間が全てを風化してくれる。
だから、このまま今を、楽しもう。
このまま、揺蕩っていよう。
それで、いい。
いいんだ。
…………。
……本当に?
本当にいいのだろうか。
このままいつもどおりで、いいのだろうか。
何もしないまま終わってしまって、いいのだろうか。
……いいんだ。
告白した所で、想いが遂げられるはずなど無い。
だったら、このままでいたい。このままの関係を壊す必要は、どこにもない。
……。
だからって何も行動しなければ、何も分からないんじゃないのか?
…………。
……いつからか、ずっとこのような自問自答を繰り返していた。
終わることのない無限ループに入り込み、何も生み出さない無駄な処理をひたすら続けていた。
焦りを、感じていた。
と、思っていた。
でも、やはりどこかで甘えがあった。現実から目を背けていた。
自問自答を繰り返していながらも、焦っていると思いながらも、心のどこかでは、そんなに焦る必要はないと、たかをくくっていたのかもしれない。
結局俺は、何も行動を起こさずに、いつもと変わらずに仕事をしていた。
大きなイベントがあり、そのためにそれぞれ奔走し、皆で力をあわせて大成功に収めたこともあった。
山積みの書類にみんなで頭を抱えたこともあった。
起こったトラブルを、協力して解決したこともあった。
そうやって、仕事に夢中になりながら彼女と同じ経験を共有できることが、何だか嬉しかった。
だから、まだこのままでも、いいよねって、おもった。
今はまだ、幸せだったから。
それからしばらくして、二年生も後期に入った。
委員会等の役員更新が行われ、風紀委員会もそれに伴い人員の変更があった。
俺や彼女も含め大半は前期から引き続き風紀委員を務めることになったが、新顔も何人か見受けられる。
その中には、気の合う友人の姿も見受けられた。
彼は俺のクラスメイトであり、俺も一目置く立派な人物だった。
彼も一生懸命に仕事をする人で、すぐに風紀委員会の主力となっていた。
真面目で、気さくで、しっかり者で、決して努力を怠らない。
そんな彼を、俺も、彼女も、互いに信用し、互いに信頼していた。
後期に入っても、風紀委員会に何か大きな変化が訪れたわけでもなく、以前と変わらず皆で仕事をする日々が続いていた。
しいて一つ上げるとすれば、彼も頑張ってくれるお陰で、仕事が少し楽になった。本当に、助かっている。
いつもと変わらず、彼女と二人で、時に彼も交えて三人で仕事をしてゆく。
それは、とても楽しい時間だった。
仕事の合間に冗談を言い合い、ちょっとした事で笑い合った。
今から思うと、この時すでに、このぬるま湯から上がるタイミングを、もはや完全に逃してしまっていたのかもしれない。
そうして、俺たちは新しい春を迎えた。
新たな学年となり、代替わりした風紀委員会を引っ張っていくべく、気持ちも新たに頑張っていこうと意気込んでいた俺は、その日彼女が言った言葉を、なかなか信じることが出来なかった。
彼女は言った。
私たち、付き合うことになりました、と。
彼の手を取りながら。
俺のクラスメイトであり友人の、彼の手を取りながら。
彼女は言った。
とても。
とても、はずかしそうな顔で。
けれども、うれしそうな顔で。
そして、しあわせそうな顔で。
彼女は言った。
今まで目にしてきたどんな表情よりも、魅力的な顔で。
ぬるま湯を湛えていた浴槽の栓が抜き取られ、一気に小さな幸せが吸い込まれていく喪失感を感じた。
あるいは、冷たい水が流れこんで来たかのような寒気。
もしくは、今まで当たり前に存在していたものが、幽かな希望が、音を立てて崩れていくような。
冗談だと思った。
冗談だと思いたかった。
冗談であって欲しかった。
けれど。
けれども。
彼女が、なんてね、と言うことはなかった。
彼女は、周りの祝福に、恥ずかしがりながらも、嬉しそうに応えていた。
あぁ、冗談じゃないんだな、と思った。
本当のことなんだな、と納得してしまった。
そしたら、俺の中で、何かが吹っ切れた気がした。
そして。
俺は彼女たちに向き合った。
そして。
笑顔で、二人を祝福した。