Ending 祭のあと
「もう、飲み過ぎですよ…」
ぐったりしている父親を支えながら、キアラは夕暮れの街を歩いていた。
昼間だというのに娘とのランチに気をよくしたヴィートはワインをラッパ飲みし、そして見事にぶっ倒れたのである。
まだ仕事があるだろうに、とは思うがヴィートには優秀な副官も多い。ヴィートが酔いつぶれて帰ってくるのも想定し、既に誰かが仕事を肩代わりしている気もする。
「悪い事しちゃったかな…クラリッサさんとか、怒ってないかな」
父の優秀な秘書官を思い出し、キアラはうめく。とはいえ、たまには付き合って欲しいとは言われていたのも確かだ。娘にあしらわれると、その日一日ずっとぐちぐち文句を言っているという話は、耳にタコである。
「うぅ」
口を押さえて唸る父の姿に、キアラは少し遠回りの道を選ぶ。アルノ川沿いの通りならば、風も通るので少しは気分が良くなるかも知れないと思ったのだ。
「み、水…」
川沿いの通りに出たところで、ヴィートが再びうめき出す。
しかたなくヴィートを道ばたに放り、キアラは先ほどのレストランで調達しておいた飲料水を放る。
「すんません」
「謝るくらいなら飲まないでください」
面目ないとうなだれながら、ヴィートはぐったりと倒れ込む。
しばらく放置した方が良さそうだと判断し、キアラは川沿いの塀に腰を下ろした。
アルノ川から望むフロレンティアの美しさに、キアラはほっと息をつく。
特に夕日に染まるフロレンティアは、一日の中でもっとも美しい。
ただでさえ鮮やかな瓦屋根が、燃えるような紅に彩られると、夜の到来を感じた人々が部屋のランプや街灯に、光の妖精を入れていく。
時折機嫌を損ねた妖精が、主の手から逃げ出し空を駆け、降り注ぐ粉は夕日を浴びてキラキラと輝く。
一日の終わり。
普通の街であれば、それはどこかもの悲しい物だけれど、フロレンティアでは夜の訪れこそが始まりだ。
授業を終えた学生達は今から遊びに出かけ、仕事終えた大人達は、仕事の愚痴を魚に酒を飲みに行く。 そして多くの恋人達が、共に夜を過ごすために街へと繰り出していく時間。それがフロレンティアの黄昏時だ。
とはいえキアラには、恋人をデートに誘うような器用な真似が出来るはずもない。
ロマンティックな町並みに、今日だけは僅かな殺意を覚えながら、キアラはため息をついた。
その頭上を小さな妖精がきらりと横切った。祭で放たれたらしいその妖精は、春と恋の象徴である桃色の羽根を輝かせ、キアラにウインクする。
降りかかった妖精の粉は甘く、しかし自分の柄ではないと慌てて振り払えば、妖精はクスリと笑って飛び去っていく。
「妖精にまで馬鹿にされた……」
思わず零れたため息。だが空から視線を降ろせば、見たくない顔が向こうから近づいてくる。
それも、女に囲まれた状態で。
黄色い歓声が呼ぶのは、キアラの想い人の名前。それにウンザリしながらも、不意に昨日の口づけを思い出してしまい、キアラはヴィートを転がしたままである事も忘れ、側の小道に駆け込んだ。
こんな真っ赤な顔を見られたら恥ずかしくて死ねる。
むしろ今すぐ腰に差した剣で自らの腹を捌きたいところだが、この腕では無理だ。
とりあえずやり過ごそう。そうしよう。
道に置かれたワインのタルの影に潜み、キアラはじっと息を潜める。
「それで隠れているつもりなら、君もまだまだだな」
声が振ってきたのはキアラの頭上。見上げると、ヴィンセントの微笑みがそこにある。
「まあ、眼中にないよりは逃げられた方がマシか」
「気配は、殺したのに…」
「そう言うスキルは仕事中に使う物だ」
それにと、ヴィンセントはキアラの頭を軽く叩く。
「いくら気配を殺しても俺は君を見付けられる自信がある」
わざわざ耳元で甘くささやくヴィンセントに、キアラは愛情よりも悪意を感じ、彼の体を突き飛ばしてその場から走り去ってしまった。
「お前の所為で、置いて行かれたじゃねぇか」
「ヴィートさんが誘えって言ったんじゃないですか」
振り返れば、ヴィートがよろけながらもなんとか立っている。
「しかたねぇ、罰としてお前これから俺と飲め!」
「何でそうなるんですか」
「飲みたいんだよぉ。久しぶりに騎士団長っぽい事したら、おじさん疲れちったんだよぉ」
仕事したくないよぉと呻く恋人の父親に苦笑しながらも、彼の事を放っておくことも出来ず、ヴィンセントはキアラに変わってヴィートの体を支えた。
「おーい、団長さんよぉー」
そんなとき、ヴェッキオ橋で宝石店を営む顔なじみの老人が側を通りかかる。
ドワーフ独特の短い足を必死に動かして駆け寄る彼に苦笑しながら、ヴィートはよぉと声をかける。
「お取り込み中かい?」
「いんにゃ、これから飲みに行くところ」
言い切るヴィートにヴィンセントが苦笑したが、ヴィートは見ないふりだ。
「なら丁度いいや。今、女房に殴られた男どもが、酒場に集まってんだ」
「哀れだねぇ」
「ちょっくら、愚痴聞いてやってくれよ。仲直りはしてぇんだが、きっかけがつかめない奴もいるみてぇなんだよ」
「どうせロレンツォのおっさんとかだろう。あいつは普段から素行が悪いから」
「まあだからこそ、一言謝れば仲直りも簡単だと思うんだけどねぇ」
あいつなりに今回の事で懲りたんだろうと、老人は笑う。
「いつもの酒場だな」
「オレも、店を閉めたらすぐ行くから」
老人の言葉に、ヴィートはおう! と元気に返事をする。
「キアラに怒られますよ」
「じゃあ、俺の変わりに王子様がご機嫌取ってくれよ」
王子という単語に、歩き出そうとしていた老人が、不自然に歩みを止めた。
それから彼は。今度はヴィンセントの方を向く。
「王子で思い出したが、お前さん他の王子とは親交があるかい?」
「ええ」
「なら、そこの駄目オヤジと同じ名前の王子さんに、謝っておいてくれねぇかな。…竜退治の恩人に、俺はひでぇこといっちまったんだ」
老人がつぶやくと、ヴィンセントよりも先にヴィートが口を開く。
「安心しろ、そう言うのを気にする奴じゃねぇ」
「お前と一緒にするなよ」
「いい年のオヤジは、みんなこんなもんさ」
明るく笑って、ヴィートはヴィンセントをせかした。
老人と別れ、ヴィートとヴィンセントは石畳のみちをゆっくりと歩く。
「今日は飲むぞぉ!」
「もう十分飲んでいるようですが」
「吐くまで飲むんだ!」
本当に駄目な大人だとヴィンセントは呆れる。
だが一方で、この人はこれくらいで良いのかも知れないとも思うのは、騎士団長として、そして王子して彼が振るった剣があまりにまっすぐだったのを見たせいかもしれない。
そんなことを考えていると、ヴィートがしゃっくりを上げつつ、どこか意地の悪い顔でヴィンセントを見上げた。
「ちなみにさっきのジジイの店。俺が嫁さんの結婚指輪を買った店な」
抜けているようで抜け目ないこの騎士団長には、まだまだ敵いそうもない。
今晩は長い夜になりそうだと覚悟をしつつ、ヴィンセントは恋人の父親を支えなおした。
男達の秘め事編【END】