ShortEpisode03-3 御利益の効果
フロレンティアを一望できる絶景を前にして、さっさとベンチに倒れ込むのは彼女くらいの物だろう。
「しんどい…」
とベンチでぐったりしているレナスに苦笑しながら、ヒューズは彼女の隣に腰を下ろす。
地面ばかりを見ているレナスに代わり、ヒューズが辺りをざっと見回せば、閉館時間が近いせいか、展望台はいつもより人が少ないようだった。
愛のドゥオモと呼ばれているだけあり、その殆どは恋人達。その上人が少ないのを良いことに、男女の距離は酷く近い。
「あんなしんどいの登ったあとなのに、みんなよく体力あるわよね」
恋人達が交わす口づけは、息継ぎをしているのかと見ている方が不安になるほど深い。それを眺めながら、そんな情緒のない感想を漏らしたのはレナスだ。
「むしろ、お前は騎士なのに息が上がりすぎだ」
「それは、半分あんたの所為っていうか…」
なにやらブツブツ文句を言っているが、吹き抜ける強い風がレナスの言葉をかき消してしまう。
地上ではそこまで風が強いとは思わなかったが、やはり空に近い所為で風の流れが下とは違うのだろう。
とはいえ、空に近いと言っても他国に並び立つ建築物に比べれば、サンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂は決して高い部類の建物ではない。
それでもここが高いと感じるのは、歴史的な景観を残すため、フロレンティアでは高い建物の建造が禁止されているからだ。
故に市街地を一望できるのはサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂と並列するジョットの鐘楼くらいのもの。
逆に言えば、大聖堂以外で街中を見渡す事が可能な建物はない為、監視の為に騎士がこの上に登る事は多い。
なのでレナスもヒューズももう何度もこの場所訪れている。しかしいつ見ても、何処までも続く茜色の瓦屋根と石造りの街並みは圧巻だ。
西にはフロレンティアの玄関口であるサンタ・マリア・ノベッラ駅。
南には王族の住まうヴェッキオ宮殿。
南東には美しい大理石のファザードが神々しいサンタ・クローチェ教会。
そして南西方向には、レナスとヒューズが覗いた宝飾店の並ぶヴェッキオ橋。その更に向こうには、ガリレオ騎士団本部と言う具合に、フロレンティアの主要な施設の殆どはこの場所からはっきりと見ることが出来る。
「ヒューズ、水ちょうだい」
とはいえ疲れ果てたレナスはそれどころではないようで、相変わらず景色は二の次だ。
「だから無理するなって言っただろう」
「だって、せっかくなら登ってみたかったし」
ぽつりとこぼした言葉は、風に攫われることなくヒューズに届く。
どういう意味だと訪ねれば、レナスは頬を赤らめながら彼から水筒を奪った。
「騎士の先輩から聞いたの、ここは御利益ちゃんとあるって」
「御利益って何だ?」
「……絆が深くなるっていう奴」
とぽつりとこぼすレナス。
その言い方があまりにも子どもっぽくて、ヒューズが思わず吹き出した。
「何で笑うのよ!」
「いやすまん、なんかガキの頃も似たようなこと言ってたなって思い出して」
「いつよ!」
「13くらいだったかな。お前が突然、ここに登るって言い出した事あったろ」
いまいち当時の様子を思い出せないレナスに、ヒューズがあのときは大変だったとこぼす。
「登りたいって言う癖に最初の50段くらいで根を上げて、結局俺が担いだんだよ」
「あのころは体も鍛えてなかったし!」
「だから絶対無理だって言ったのに、登るって聞かなくてなぁお前」
そしてヒューズはレナスを背負い、この場所に登ったのだと言う。
「そのときにお前が言ったんだよ。途中で引き返したら御利益が無くなるって」
そこでようやくレナスは思い出す。あれは確かヒューズの正体が人でないと知った頃のことだ。
自分は人ではない。
そう告げるヒューズがあまりにつらそうで。そしてそれを理由に自分の側から消えてしまいそうな彼に、レナスはとても焦っていたのだ。
彼を引き留めるために、良い子になろうと無駄な努力をした。ジェラートやらパニーニで餌付けまがいのことまでした。どれもこれも稚拙な手だが、彼女なりに彼を引き留めるために様々な手をこうじたのだ。
そしてその中のひとつが、この大円蓋登ることだった。
別にヒューズに惚れていたわけではなかったけれど、絆を深める力があるならば友人同士でもきっと効果があるはずだと思ったのだ。
「でも今こうしてられるってことは、御利益あったのかな」
「あんだけキツイ思いしたしな」
さすがに子どもを担いで登るのはしんどいと呻くヒューズに思わずムッとして。
でも、しんどいと言いつつ登り切ってくれた彼だから、好きになったのだと今のレナスにはわかる。
それに対して、彼はいったい自分の何処を好きになったのかと、レナスは思わず考えた。
自慢ではないが、ヒューズには迷惑をかけたことしかない。
「…あんたはさ、嫌になった事無いの?」
「何だよ藪から棒に」
「結局今日も、後半は足引っ張っちゃったし。それにたぶん、これからも足引っ張る自信があるし」
尻すぼみになっていく言葉に、ヒューズの答えは苦笑だった。
「おまえに足引っ張られるのが好きだから、ここにいるんだろう」
「あんたどういう趣味なのよ」
「言われなくても、趣味が悪いのは知ってる。でも欲しかったんだ、何の気兼ねもなくお前を支えていける場所が」
さり気なく繋がれた手に、レナスは尋ねたことを後悔した。
こんな不意打ちのように嬉しいことを言われたら、幸せな恋愛に免疫がない自分の心臓はもたない。
「そっそう言うこと口にするの禁止!」
「言わせたのはお前だろう」
「そんな顔で、そう言うことさらっと言うなんて思ってなかったの!」
「そんな顔って何だよ!」
「だって今までずっと側にいたのに、好きだとかそう言うこと、一言も言ってこなかったじゃない!」
15年も側にいて一度もそんなそぶりは見せなかったと不満を口にすれば、ヒューズが困ったように頭をかく。
「言えるわけねぇだろ。お前は恩師の娘だし、俺は……」
「人じゃないなんて言い訳にしないでよ。私が初めてあんたをここに連れてきたのは、そう言うの関係なく一緒にいたいと思ったからだし、今だって、これからだってずっと私はそんなこと気にしない」
「……お前こそ、突然そう言う事言うのは反則だ」
反論する間もなく唇をふさがれて、レナスは思わず悲鳴を上げそうになる。
今まで自分がしてきたキスは本当にキスだったのかと疑わずにはいられないほど、ヒューズの口づけは優しく、そして気持ち良い。
零れそうになる声を必死にこらえながら唇が離れるのを見送れば、ヒューズが困ったように笑う。
「睨むほど嫌だったか?」
「こっ、こうしてないと声出ちゃうから……」
眉間の皺を指で撫でられ、ようやくレナスは体から力を抜く。
「お前、俺より恋愛経験豊富なんだよな」
「いちおう沢山の男とデートはしてきましたけども……」
どれも長続きはしていない。それをヒューズも知っているのでこの場ではあえて告げない。
代わりに、レナスは恐る恐る別の質問を投げかけてみる。
「もしかして、私のキスって下手?」
「本気で聞きたいのかそれ?」
やめてと叫ぶレナスに、ヒューズは思わず爆笑する。
「そっそんなに笑うこと!」
「実は少し前に、キアラが全く同じ質問をヴィンセントにしていたと聞いてな」
「恋愛偏差値マイナス10点のキアラと同じとか、さすがにちょっと凹む」
「それはキアラに失礼だろう」
「さすがに、あの子よりはキス上手い自信ある」
「なぜそこで張り合う」
「だってその、あんたってかわいげのない女好きだし。キアラのこと気に入ってるみたいだし」
「お前って時々、考えが物凄い方向に飛躍するよな」
ヒューズは拗ねているレナス頭を優しく撫で、そして笑う。
「もう一度、色々と説明した方が良いか?」
「……いい、やっぱりいい」
真っ赤になってうなだれるレナスに苦笑して、それからヒューズは、唐突に彼女の体がひょいと持ち上げる。
気がつけば、レナスはヒューズの腕の中にいた。
後ろから抱きかかえられる格好で膝の上に座らされている事に気付き、レナスはまたしても悲鳴を上げそうになる。
「だからわかったってば!」
「静かにしろ、怪しい奴がうろついてる」
しかしその耳に囁かれたのは、甘い台詞ではなく真剣な言葉。
悲鳴をぐっと飲み込み、レナスはヒューズの体にもたれるフリをしながら辺りをうかがう。
確かに一人、この場に不釣り合いな、酷く不健康そうな男が辺りを徘徊している。
「どうする?」
「網を張る」
了解と呟いて、そしてレナスは深く深く後悔する事となった。