Episode10-3 財布の男に我が儘を
花火がおわり、ようやく人が少なくなってきたヴェッキオ橋を、レナスがぶらついていたのは集合時間の10分前。
集合場所にはまだ誰も現れず、アルベールもトイレに行くとバールに入ってしまったので、レナスは一人暇をもてあましていた。
彼女が覗いているのはヴェッキオ橋の上に並ぶ宝飾店。
先ほどアルベールが見せた指輪はどれくらいするのだろうかと思い、比較できそうな物を探すがさすがにあれほどのダイヤはない。
だがその半分くらいの物で桁がおかしい指輪があり、今更のように彼は王子なのだなと再確認する。
でも惜しいと思う気持ちはない。きっと安物でも、好きな相手に貰った指輪の方が自分には似合っていると思うからだ。
そしてもしも、もしも貰えるとしたらどれがいいだろう。
そんな子どものような妄想をふくらませつつ、レナスはショーウィンドウをのぞき込んだ。
やっぱり欲しいのはダイヤ。でも二人でそろって付けるタイプの婚約指輪も良いなとレナスは思う。
フロレンティアでは婚約から結婚までの期間がながいのが普通。故に結婚指輪によく似たシンプルな指輪を贈りあう事が多いのだ。
まあ時期が時期なので婚約よりさっさと結婚したいというのが本音だが、もしも彼が自分の想いに気付いてくれるなら、急ぐのも勿体ない気もする。
「…って、何を考えているんだ私は」
ふと我に返り、レナスは恥ずかしさに呻いた。
26の女の妄想するには、あまりに幼すぎる妄想だ。その上勿論予定などなにもないのだ。
しかしわかっていても、ショーウィンドウから目を離せないのがまた悔しい。
「欲しいなぁ指輪」
「どれが?」
「あの奥のとか」
思わず答えて、そしてレナスは動きを止める。
今の声は部下の物ではない。アルベールの物ではない。むしろ妄想の中の声に近い。
恐る恐る横を見て、そしてレナスは思わず相手を殴り飛ばしていた。
「何でいるのよ!」
「それは俺の台詞だ。まだ仕事中だろお前」
「今休憩中だもん」
「つーか、いきなり人の顔見て殴るか普通」
「だって妄想に割り込んでくるから!」
妄想って何だと呻きつつ、ヒューズは彼女の覗いていたショーウィンドウを見つめる。
「こんなのより凄い指輪を、アルベールが渡しに行っただろう」
「知ってたの?」
「この1週間、ことあるごとに自慢されたからな」
そのたびに呆れていたのだろうなと思いつつ、他に何か思うところはなかったのだろうかと探ってみた物の、彼の表情に特に変化はない。
「で、あの指輪はどうしたんだ?」
「貰わなかった」
「それで、代わりに自分で買うのか?」
直後、レナスがヒューズをもう一度殴る。
「そんな悲しい事しない!」
「でもお前、凄い物欲しそうに見てたぞ」
「そりゃ欲しいもの!」
「ちなみにどれだ」
「あの奥のとか」
「また高いのを…」
「別に、貰えるなら何でも良いんだけど!」
引かれたらまずいと、慌ててフォローに走るレナス。
「あとはあの、右のとか」
「ゴテゴテしすぎてないか?」
「じゃあ、左の」
「装飾派手だろう」
「じゃその下は?」
「お前の太い指じゃな」
気がつけばまた、腕が出ていた。
「否定ばっかりしないでよ!」
「お前、自分に似合う物全然わかってないよな」
ドレスも酷かったと呆れられ、レナスはふくれ面で必死に自分に似合いそうな指輪を探す。
しかし目につくのは、無駄に装飾過多でギラギラしたデザインばかりだ。
「あの左上のとかどうかな?」
答えはため息。
やはりまたダメだと落ち込めば、ヒューズがレナスの頭を掴み、僅かに右に動かした。
「そのもう一個右のやつ」
されるがままに視線を右にずらし、レナスは息をのんだ。
「あれ、凄くいい!」
値段は張るが、あれならばきっと自分の指にあう。
そしてなによりデザインもレナスの好みをばっちり掴んでいる。
「あんな指輪見つけちゃったら、もう他の指輪貰えないな」
思わず呟いて、レナスは自分の左手の薬指に目を落とした。
あの指輪がここにあったらどんなに素敵か。そしてそれをはめてくれる人が隣の男であったらどんなに良いかと想像し、そしてレナスはため息をこぼす。
それはありえないとわかっていた。
でも一方で、素直に諦めるという行為は酷く難しい。
『指輪でもねだってみたら?』
そんなアレッシオの言葉を思い出し、レナスは静かに息を吐く。
頼むだけならタダかも知れない。いざとなったら誤魔化せばいい。
突飛な我が儘をヒューズに叩き付けるのは良くあることだし、それを笑い飛ばすだけの余裕が彼にはあるはずだ。
そう念じながら、レナスは恐る恐るヒューズを見上げる。
「あのさ…」
「ん?」
「あれ、欲しいって言ったらどうする?」
彼が見つけた指輪を指せば、ヒューズが浮かべたのは苦笑だ。
「あれ、結婚前に買う婚約指輪だぞ」
「うん、まあ、そうなんですけど」
「俺から貰ってどうするんだよ」
「は、はめるつもりだけど」
「はめる?」
「うん、ここに」
薬指をさして、そこで初めてヒューズの表情が変わった。
「……俺が買った指輪だぞ」
それをはめるのかと聞かれて、レナスはこくりと頷いた。
「あれだったら、はめる」
我ながら歯切れが悪い言い方だと思った。でもこれなら断られても傷つかずにすむ。
そんなぎりぎりの線引きでひねり出した言葉に、ヒューズはため息でこたえた。
さすがに呆れられたかと思い、レナスはそっとショーウィンドウから離れる。
だがヒューズは、まだ指輪を見ていた。
「返品はできないからな」
耳を疑った。しかし聞き返す間もなく、ヒューズがふらりと店に入っていく。
ぽつんと一人残されて、そしてレナスはようやく悲鳴を上げた。
欲しかったのは事実だ。でもまさか彼が本気で買いに行くなんて思ってもみなかったのだ。
恐る恐る店内をのぞき込むが、商品棚の所為でヒューズの姿は見えない。しかし先ほどの指輪をショーケースから出す店主と目があえば、おめでとうございますと彼は微笑んでいる。
『案外ぽろっとお金出すかも』なんて笑っていたアレッシオも、まさかこれを予想していたわけはあるまい。
しかしそこまで予知出来るなら何かしらのアドバイスは貰えるかもと、レナスは彼の持つ通信機の周波数に自分の通信機をあわせた。もはや自分一人でこの状況を理解し、乗り切る自身がなかったのだ。
「アレッシオどうしよう! あんたの言うとおりにしたら、ヒューズがホントに指輪買いに行っちゃった!」
思わずそう叫ぶと、何故だか長い沈黙が続く。
確かに通信は繋がったはず。なのにあのお喋りな男が食いついてこないのは変だ。
故障でもしたのかと通信機を外そうとしたとき、店に入ったはずのヒューズがふらりと出てくる。
「…お前回線間違えてる」
告げられた一言に、ようやく聞こえてきたのは騎士達の爆笑だった。
どうやら周波数をあわせるつもりで、うっかり騎士全員に繋がる非常回線ボタンを押していたらしい。
「両思いおめでとう」
と口々に言われ、レナスはその場にがっくりと膝をついた。
そしてすぐに場所まで特定され、通りかかった騎士達がおめでとうおめでとうと微笑みかけてくる。
「…アホか」
そう言ってレナスの頭を軽く叩き、ヒューズが彼女を立たせる。
「だって、あの…」
「お前より俺の方がからかわれるんだからな」
「ごめん」
とうなだれた次の瞬間、ヒューズがレナスの左手を取った。
「だから、もし無くしたら本気で怒るぞ」
アルベールの時の方がよっぽど夢に見たシチュエーションに近かった。
しかし薬指にその指輪がはまった途端、レナスの目からこぼれたのは涙だった。
「これ、一生付けてていい?」
「その答えは、回線切ってからな」
ヒューズは彼らしい苦笑を浮かべ、レナスの耳から優しく通信機を外した。