EP.76 始まりは、終わり
ひとまずこのお話で、本編は完結になります。
明日と明後日の二日で、二話の番外編を連載します。
後日談というか、最後の複線の回収というか。
楽しんでもらえたら幸いです。
神殿の一角のとある部屋に、紗和は一人で立っていた。
目の前にあるのはクリスティアナの小柄な全身が易々と映り込むほどに大きな姿見の鏡。
今、彼女には待ち人がいた。
傷ついた顔をする側近達や侍女、そして聖女の父に気づかない振りをして、彼女は彼らを急かした。
クリスティアナの魂は今神の元に戻った。健康は身体はここにある。
もう、何も待つ必要ない。
早く、早く彼女をこの世界に返してあげたいと。
何も知らなかった自分を悔いて、感謝と謝罪の言葉を言いたいと泣いた少女を思い出しながら、その日には神殿にやってきた。
まだ心の整理が出来ていないらしい側近達を横目に、サイラスに話を通した。
彼は何か言いたいような表情で後ろに居る男性達を眺めていたが、紗和の心境を酌んでくれたのか、今日中に儀式を行うと、先ほど準備に入ってくれた。
魂だけになった時に入れ物を移し替えたり、今回の件といい、紗和を助けてくれるという出会ったころのある意味胡散臭かった口約束を、サイラスはきちんと叶えてくれる。
いつも以上に紗和は周りを急かした。これは神の元に居る聖女が戻ってくる神聖なものだ。少し無理を言ったところで、誰にも拒めるはずもない。
目の前の鏡を睨み付けていると、ひっそりと揺らぐ表面。
そして映し出される、少年と成人男性の間ほどの背丈の人物。
未だ仮面を被っているのは、まぁ、仕方がないのでスルーすることにする。
色々な難題を吹っ掛けられたちょっとした意趣返しが含まれているのは否めないけれども。
「とうとう、だね」
紗和は鏡の向こうの天使に笑いかけた。
『うん、今までありがとう、お疲れ様』
天使もまた、肩を揺らして笑っている。
さて、本題はここからだ。
この身体をクリスティアナに返す前に、彼女には整理しなければならない問題が幾つかあった。だから、こうして人に見られるかもしれないという危険を冒してまで、わざわざ神殿の中でジョンダイルとの邂逅を決行しているわけである。
「向こうの世界の私の身体ってさ」
『………安心して。ちゃんと火葬されて灰になって、骨は埋葬されたよ』
「まさか、自分の魂が生きている間に、身体が先になくなっちゃうなんて体験するとは思ってなかったわ。ほんと、先祖様達には土下座ものだわ」
『ほんとだね』
紗和が精一杯茶化しながら話すのに対し、ジョンダイルの方は少し声音が固い。
あまりしみったれた雰囲気でこの会話をしたくなったからこそ、あえて明るく振る舞っているというのに、どうやら幼馴染の天使には通じなかったようだ。
頬を人差し指で何度か軽く掻いた後、溜息をついて、紗和は問う。
「やっぱりさ、三途の川は渡らないといけないの?」
『こっちとあっちは神や天使が居るのと居ないのと同じように、基本概念が少し異なるんだ』
「………私、この後、どうなるの?」
『まぁ、聖女に身体は返さないといけない』
「そうしたら、魂が出ちゃうってことだよね。私、一応死んでるし、死人ってことじゃん。戻る場所も身体もないわけだし………地獄に行くなんてやだけど、天国に行くっていうのも、どうなのかねー?」
『………もしよければ、向こうの世界に戻ることも出来る。その場合は、地縛霊になってしまうけど』
最後の最後で、この無自覚我が儘天使にも、ようやく罪悪感というものが生まれたようだ。彼の背負う空気がいつになく重くて、正直非常に鬱陶しい。
『だけど、僕と世界一周もできるよ』
「あ、それなんか楽しそう。あんたが居ればなんだかんだ楽しそうだし」
『いいの?それで』
天使の問いかけに、紗和は呆れたように笑った。
それは、見方によれば、すべてを諦めてしまっているようにも見える苦笑い。
「ていうか、それしか、方法はないでしょ。もう、どこにも、私の帰れる場所はないんだよ。………今更、何言ってんの」
『………うん、ごめん。そう、だね』
「サワ様、どういうこと?」
「!?」
『!!』
重苦しい雰囲気に呑まれてしまっていたから、紗和も、天使であるジョンダイルでさえも、予期せぬ訪問者には気づけなかった。
「コ、リン、くん」
「ねぇ、今の会話、どういうこと?」
「サワ様」
コリンが怒りの形相で詰めよれば、自然と部屋の扉が全開になる。彼の背後に居たのは、ベリア。顔を青くさせている。
「あー………」
―――よりによって、最後の最後に。
知られないまま、姿を消そうと思っていたのだ。
最初から騙していた事、更に嘘を重ねることで誤魔化そうとしていた。
いつからだろう、綺麗な笑顔で嘘を重ねていく事に罪悪感は抱かなくなったのは。大人というのは、厄介な生き物で、自分を守るためにも、他者を護るためにも嘘をつける。
この場合の嘘は、完全に自己自衛のためだったけれど。
「死んでるってどういうこと?帰る場所がないってどういうことさ」
「サワ様は、神の遣いでは?だからこそ、ここまで聖女の回復に務めてくださったのでは?」
「………」
二人は詰め寄る。
紗和は返答の仕方が思いつかず俯く。
自分で思っていた以上に疲れてしまっていて、思考があまり動かない。
「ラックン、ごめん、お願い」
部屋の中に気配は感じていた。姿は見えなくても、自分の傍に居るであろう堕天使縋ってしまった。
二人が入る直前に、ジョンダイルは鏡から消えてしまっていたから、彼しか頼れなかった。
『いいさ』
そんな言葉が聞こえると共に、コリンとベリアの四肢が固まった。
彼らが口を開くが、音には鳴らない。
「ごめん、嘘ついてて、ごめんね」
今彼女に出来るのは、精一杯の謝罪だけ。
「もうすぐクリスティアナちゃんが還ってくるから。心身共に健康な状態で、戻ってくる。みんなが望むハッピーエンドをあげるから。それで、赦して」
泣きそうな顔のクリスティアナが謝罪を乞う。
それはとても歪な状況だ。
最後にもう一度だけ謝罪を口にして、紗和は部屋を後にした。
ラクザレスによって身体を縫いとめられた、真実に辿り着いてしまった側近達二人を置き去りにして。
紗和の走り去った後を見つめながら、コリンが声にならない言葉を心の中で叫ぶ。
『じゃあ、サワ様の幸せな結末はどこにあるのさ!』
その言葉が、部屋を去ろうとしていた心優しい堕天使だけに届いたのは、果たして偶然か運命の悪戯だったのか。
● ● ● ● ●
儀式が整ったとの通達が届いたのは、紗和がコリン達から逃げ出したすぐ後だった。
サイラスの指示に従い、側近達とキース、そして、二人の白いローブを被った人物が後に続く。機密裏に行わなければいけないため、人数は最小限にされているという。
関係者以外立ち入り禁止だ。
「おい、コリンとベリアはどうした?」
「そういえば」
「今は、時間がないし。後でどこかで合流するんじゃない?」
途中同僚二人の姿がないことに気づいたフランがキョロキョロと辺りを見渡す。同様に声を上げたチェスターもまた顔を後ろにやる。
追いかけてくる気配は今の所なかった。
紗和は怪しまれない程度に二人を放っておく提案をする。ここは神殿内部だ。間違っても彼らが危険な目に合う事はない。
むしろ、彼らは今堕天使ラクザレスによってその動きを止められていて、その拘束は儀式が終了するまで解かれることはないはず。隠していた秘密を知られてしまったからには、早めにこの世界から離れるべきだ。
騙していた自分の事を棚に上げて、紗和はそう思う。
自分本位な考えだろうけれど、このまま彼らに嫌われることなく、綺麗なまま去りたかった。
儀式が行われるという場所は、神殿の中でも最奥にある部屋。
祈りを捧げるために作られたであろうその部屋は、もちろん神殿内のものということで目に痛いほど白く、窓も何もない。
そしてなによりも驚いたのは。
「え、何もないじゃない」
儀式を行うはずのそこには、何もなかった。
「神の御許に繋がる場所なんじゃ。現世のものなど必要があるわけがなかろう」
「へぇ」
今から本当の意味の死が訪れるであろうに、あまりにも暢気な様子の娘を前に、サイラスは呆れた溜息を誰に気づかれるわけでもなく零した。
しかしそんな雰囲気で居る者は、この場所では彼女だけだ。
その証拠に、他の彼女に付きしたがっている者達の表情は一様に暗く固い。
生まれ持った性格と生きた年数のせいでかなり捻くれた自覚のあるサイラスでさえ、果たしてこのまま紗和を返していいものかと心の隅で思案させてしまう位には。彼は裏事情もすべて知っているから、尚更。
「サワ様は、お嬢様が戻ってきた際には、入れ替わりで神の許に戻られるのですよね?あなた様は神の使いなのですから」
チェスターが紗和に声をかけてくる。
その声は心なしか思案の念が滲んでいるようにも感じる。
「そうとなれば、我々はあなたが私達の事を見守っていてくれることを胸に刻むことにしようか」
娘がようやく還ってくるとあって、キースは周りの者達も落ち着いている。
彼女は近くから居なくなるだけであって、この世界から居なくなるわけではないと改めて認識させる発言をすれば、周りの空気が少しだけ緩んだ。
「あー、そうだ、ね」
罪悪感を感じまくりな紗和は目を明後日の方向に移動させつつも、変に思われない程度には返事を返す。
―――まさか、これから死にます、なんていえないよねー。
それでは、事の始まりから伝えなくてはいけなくなる。
思った以上に、自分の気持ちが落ち着いていることに、紗和は安堵していた。
「では、心が決まり次第、儀式を開始する」
「いいよ」
時間があまりないことを自覚している紗和は、サイラスの言葉に間を置くことなく答えた。
咎めるような老人の視線が飛んできたが、どこ拭く風といった顔でそっぽを向いてやった。紗和の様子に溜息をついたサイラスは、共にやってきた他二人に頷く。
彼らはサイラスの傍から離れ、彼を中心に丁度三角の形が出来る様に立ち止まった。
サイラスが口を開いた。
それはまったく聞き慣れない言葉と音。まるで、地面から響いてくるかのようなその声音に、その場にいた全員が感動に身が震えるのを感じていた。
それは一瞬とも言える出来事で、目を閉じて暗唱していたサイラスが目を開くころには、三人を中心とした空間に一つの丸い円陣が浮かび上がっていた。赤、青、緑、そして紫の四つの光を繋げるような丸に、隙間なく並べれらた何語かもわからない文字の羅列。
仄かに沸き立つ何色とも取れない明かりが部屋を満たし、小さな光の粒が浮かび上がってくることで、円陣を一層幻想的に見せていた。
「この中に入れば、儀式は完成する。もう、誰にも止められん。よいか」
サイラスの重々しい言葉に、紗和は一度目を瞑った。
今までの事が走馬灯のように脳裏を過ぎる。まぁ、クリスティアナの身体から切り離された瞬間、本当の意味での死を迎えるのだからその表現は間違ってはいない。
思い出が蘇ってくる度に、ぐちゃぐちゃになっていく心を見つけて、それに綺麗に鍵をかけた。彼女は目を開き、笑顔で後ろを振り返る。
「みんな、今まで本当にお世話になりました!」
「いや、礼を言うのはこちらの方だ。我が娘を慈しんでくれたこと、心より礼をいう」
公爵家当主であるキースが頭を下げる。それは、彼の何よりもの感謝の印。
「いつかまた、気が向いたら俺達の様子を見に来てくれ」
フランが悲しさを殺したような笑顔で言った。眉が情けないほど下がっているので、とても面白い顔になっている。
「サワ、様!私、いえ、ぼ、僕は、これからも精進していきます!いつか、あなたに愛を乞う事ができるほどの男に成れるように!」
「え」
泣きそうな顔でとんでもないことを告げてきたチェスターに、紗和だけでなく、今まで無言を貫いていたアーヴィンやエドガーまでも目を向いた。
対してチェスターといえば、言いたい事を言ってすっきりしたのか、晴れ晴れとした笑顔である。
「ま、まぁ、良いでしょう。チェスターの事は置いといて」
エドガーが場を取り繕うように人差し指で鼻から少しズレ下がったメガネを押し戻す。
「サワ様、あなたは最初から最後まで、本当にとんでもない人でしたね。お嬢様の件は礼を言いますが、私にしてきた無礼の数々は許しがたいものがあります」
いつもの調子の彼の言葉にほっとしたのは紗和だった。あのまま、変な雰囲気のままお別れなんていやだ。
最後の別れということで、彼は自分の気持ちよりも紗和をきちんと見送ることを優先してくれたらしい。本当に有能な人物である。
「あら、私はただ売られた喧嘩を買っただけよ。責任転嫁するの辞めてくれない?」
―――なら、私も彼の期待に応えようじゃないか。
いつも通りの言葉のやりとりに、エドガーの口の端が持ち上がった。
やはり、こちらの方が自分達には合っているようだ。
「良いでしょう。あなたは恐れも多くもこの世界の神の使いです。今回は私が引くことにしましょう。まぁ、もし、何かあれば、またいつでもこちらにやってこればいい。魂の回復などというとんでもないことが出来るあなた方なら、きっとまた会う事も可能でしょうから。その時は、覚悟をしておいてくださいね」
最後の笑みを真正面から受け取った紗和の背中を寒気が襲った。
「そうね、楽しみにしとくわ」
余計な言葉は言わない。
申し訳なくて、寂しくて泣きそうだ。
「サワ、様」
アーヴィンもフランのように、精一杯悲しみを抑え込んでいる。けれど、フランよりも失敗しているので、その顔は更に酷いものだ。それでも綺麗な顔は健在なので羨ましい限りである。
「アーヴィンくん、本当にごめんなさい。あなたの幸せを願ってるわ」
紗和の何かを堪えるような声音に、少し救われた気がして、茶髪の青年は無言で頷く。
「………コリン君とベリアにも、よろし………」
最後の言葉を紗和が紡ぎ終える前に、儀式の場の部屋の扉が乱暴に開かれた。
曲がりなりにも聖女の付き人である側近達は一斉に戦闘態勢に入る。しかしそれも次には解かれる。
「コリン………」
「ベリア」
そこには、全力で走ってきたであろうことが一目でわかるほど荒い息を繰り返す、残りの二人の側近達の姿があった。
「ラックン?なん、で」
「みんな!!いますぐサワ様を止めて!!彼女は死ぬ気だよ!!」
「え?」
「おい、どういうことだ」
フランが眉を顰めてコリンに続きを促す。
「サワ様は、本当は神の使いなんかじゃない!もうすでに死んでいるんだ!!この世界の天使に頼まれてクリスティアナ様の身体を回復させるためだけにその生を伸ばしてただけなんだよ!それなのに、クリスティアナ様の身体から抜けてしまったら、次に待っているのは完全な死だけだ!」
コリンが口早に状況を説明する。
誰よりも素早く反応したのは、いつの間にか紗和という人物を、心の一番綺麗で暖かな場所に住まわせてしまったエドガーとアーヴィン。
だが。
「サワ様!!」
二人が同時に悲鳴を上げる。
一コマ遅れて、他の全員がその悲鳴の先を振り返った。
『ごめん、ごめんね。最後の最後にばれちゃったね、私の嘘』
クリスティアナの身体をした紗和は今、光る円陣の中に浮いていた。
苦しげに寄せられる眉に、頬を流れる涙。
奇しくも、それは、初めて見にする紗和の流す涙だった。
手を伸ばした二人の青年の腕は呆気なく光に弾かれてしまう。
「サワ様、何故だ!!何故教えてくれなかった!!何も関係のなかったあなたが、いつ来るかともわからない死を感じながら、我々とお嬢様に尽くしてくれたこと、あの時の偶然がなければ終ぞ知ることはできなかったんだ!そんなあなたの苦しみを知らず、私は!わた、しは!!」
ベリアが耐え切れなくなったように崩れ落ちた。
周りの側近達もキースも、ただ茫然と光に包まれる少女を見守るしかない。
『みんなの事騙していて、本当にごめんなさい。謝って許されるようなことじゃないかもしれない。勝手かもしれないけど、最後の最後に、とっても面白い体験ができたから、私はとても満足しているのよ。クリスティアナちゃんによろしくね、あ、デイジーちゃんにも機会があったらよろしく伝えておいてくれたら嬉しいな。みんなで仲良くね。私のことは、忘れちゃってもいいけど、私が見つけたみんなのいいところは忘れないでね』
引っ張られる感覚がする。
意識が遠くなってくる。
死が怖いわけじゃない。どうなるかわからないけど、あれほど恐ろしいと思っていたイケメン達と最後に過ごすことができて、正直心残りはないに等しかった。
前の世界に置いてきた幼馴染がイケメンの大切さを力説してくれていたにも関わらず、麗人恐怖症であった紗和は、それがさっぱりわからなかった。恐怖症を克服した今ならわかる。
幼馴染の繰り返し口にしていた言葉が。
―――イケメンは正義である、と。
想像していた通りの綺麗なお別れにはならなかったけど、お嬢様命であったはずの彼らが少しでも自分に心を傾けてくれていたことを、泣きそうな顔で自分を見つめてくる彼らから感じ取れた。もう十分だ。
『みんな、ありがとう!!!誰よりも、みんなの幸せを願ってるから!!』
ともすれば手放しそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、精一杯の笑顔を浮かべて、腕を振る。
自分を見つめてくる人々に、そして、数奇に満ちた二度目の自分の運命に。
『ばいばい!!!』
こうして、一つの魂が消え去り、一つの魂があるべき場所に舞い戻ってきた。