EP.6 仮面装着
鐘の音が聞こえたが、その意味が良くわからず、しかもまだ少し眠気が戻ってきたため、紗和は再びベッドの中に潜り込んだ。
今更ながら少し動揺してきた自分を落ち着かせるため、ダイちゃんに貰った手鏡を胸元に抱きしめて、紗和は目を瞑る。
すべて夢だった、というオチだったら、同僚に話して笑ってやろうと、そんな事を思いながら。
遠くで、またしても鐘の音が耳に入ってきて思考を呼び起こす。
思っていたものよりも大きな響きは、まるで目覚ましのよう。
目を開けて、自分が居る場所を確認した紗和は、少し自嘲気味に笑った。
―――やっぱり、夢じゃなかったか。
それはそうだ。昨日の夜、すべてを聞かされたのだ。それはある意味筋が通っているものばかりで、今更それらすべてが『はい、夢でした』と済ませられるわけがない。
「異世界……パラレルワールド、か」
聞きなれない言葉を音に出して、それから溜め息をついてみた。
しかしそれから頭を縦と横に二回ずつ降振って思考をすっきりさせる。
「しゃんとしないと!!私の働き次第で、この子の人生が決まるんだから!」
やる気を奮い起こすために、己に喝を入れた。
と、そこで、部屋の扉が遠慮がちに二、三度叩かれた。昨日の美麗の人々を思い出して、紗和はベッドの上で身構えた。
「あの~、お嬢様……」
遠慮がちな声と共に扉から顔を覗かせたのは、昨日出逢った美麗の人々でもなければ、今まで出会ったことのない綺麗な人でもなかった。
鼻のあたりのソバカスがかわいいと思う、極々普通の顔立ちをした少女が居た。
「キース様に、お嬢様の世話をするように申し付けられた、エイダと申します!」
最初は少し緊張気味の彼女だったが、自己紹介が終わるや否やなにやら輝きの篭った瞳で紗和を見つめてきた。
そのアイドルに向けるような表情に、思わずたじろいでしまった紗和だったが、今の自分の容姿が聖女と謳われる少女のものであることを思い出して気を取り直す。
「こんなにお傍でお嬢様と対面できる日が来るなんて………エイダ、すっごく感激です!!」
―――なんとなく、女子高生を思い出させるノリだな。
紗和は口元を引き攣らせた。
「あなた、お嬢様のお世話は遊びではありません。それに、気安くお嬢様にお声をかけるなんて、失礼ではありませんか」
エイダの後ろから入ってきたもう一人の女性は、キビキビをした口調と動作でエイダを諌めると、紗和のすぐ隣に立った。
「今日からお嬢様付きになりました、ベティーナ・バンクスでございます。どうぞ、御用の際はなんなりとお申し付けくださいませ」
学校の教師を思い起こさせる彼女であったが、紗和が冷静で居られるほどには普通の顔立ちをしていた。しかし、眼鏡の奥の苛烈な瞳に、彼女が少し恐怖心を持った。自分のすべてを見透かそうとするその瞳が、少し恐い。
「お嬢様、一時課を知らせる鐘がなりました。どうぞこれにお召し変えください」
そう言ってベティーナは白いドレスを差し出す。
紗和は条件反射のようにそのドレスを受け取ったものの、自分で着たことがないことを思い出し途方に暮れた。
「お嬢様、わたしがお手伝いします」
ベティーナに聞くのもなんとなく憚れ、眉を八の字に曲げドレスを見下ろしていた紗和に、エイダが声をかけた。
上を向けば、年下らしい可愛らしい笑顔を浮かべた彼女が腕を差し出している。
この瞬間、エイダは紗和の中で、信頼してもいい人間に仲間入りした。何かあれば一番にエイダに聞こう。
部屋の隅にあった衝立を広げ、その奥でドレスに着替える。
まったく着方のわからない紗和を不審に見ることもなく、エイダは丁寧にドレスの着替えたかについて教えてくれた。
「大丈夫です、お嬢様。着替えはこれからわたしがいつでもお手伝いしますから、そんなに無理して覚える必要もありません」
普通の紗和であれば、この言葉に少しばかり疑問を覚えてもおかしくはない。しかし、この時の紗和は、いつもの彼女ではなかった。
着替えを終えたところで、彼女は自分の視界が激しくぶれる感覚を憶えた。立っていられず、近くに居たエイダに寄りかかる。
「お嬢様?いかがされました?」
「……ちょっと気分が悪いかも……」
紗和はこの体が病弱であることを思い出す。今までずっとベッドの上で過ごしてきたこの体は、まだ、少し休息を必要としているのかもしれない。
エイダの助けを借りて、再びベッドに戻った。
すると、いつの間にか姿を消していたベティーナが、湯気の立つ何かを持って帰ってきた。
「朝食でございます」
「…………あ、どうも」
ひどく動揺してしまう。
確かに自分は正真証明の『お嬢様』になっているわけだが、それはあくまでも外観だけで、彼女の精神は中間層のままである。
着替えを手伝ってもらったり、朝食をわざわざ運んでもらったりすることは、背中がこそばゆくなるだけであまり楽しい気分ではない。逆に畏まってしまうほどだ。
そんな紗和の心の葛藤をよそに、ベティーナとエイダは手際よく朝食の準備を行なう。
すぐに、おいしそうな匂いの漂うスープ、そして焼きたてだと思われる小さなロールパンが二つ、机の上に用意された。
よくよく考えれば、自分が異世界なるものに飛ばされて早一日、何も口にしていなかったことを思い出す。すると急激に空腹という単語が脳内、否紗和の体中を駆け巡った。
机の前に座ると、ありがたく朝食を頂く。
あまりに空腹だったせいだろう。
スープは三度おかわりをしたし、牛乳もコップ二杯は余裕だ。
「………お嬢様、こんなに食べられる人だったっけ?」
紗和が食事を平らげる様を後ろで見守っていたエイダは首を傾げた。彼女自身は、あまりクリスティアナを知らない。しかし、病弱で、食が細いという話は聞いた事がある。
だが、今彼女の前にいるのは、まるっきり逆の人物だ。
「お嬢様は、普段あそこまで食べられる方ではありません」
「!……え、エドガー様………?」
「よう、エイダ」
「ふ、フラン様?」
後ろから声をかけられ、驚いて振り返った先に居た人物達に、エイダは文字通り目を点にした。そこにいるのはクリスティアナの付き人達。総勢六人のこの屋敷でも屈指の麗人達。今エイダの目の前にいるのも、全部で六人であるから、それは間違いないだろう。
しかし、なぜか皆、揃いも揃って奇妙な仮面を被っている。
鼻までを覆い隠すその仮面は、人によってデザインが異なっていた。
「み、皆様、なぜ、そのよう……な」
少し身を引くように体の配置をずらしたエイダの姿を見て、その中に一人が慌てて理由を話す。
「いえ、昨日お嬢様が、仮面をつけるようにと」
「あれは、お嬢様じゃない。お嬢様のお顔をした、どこかの卑しい女に決まっている。でなきゃ、お嬢様があんな……あんな……」
「コリン様」
エイダが、自身よりもまだ少し背の低い少年に目をやり、少し痛ましげな表情をした。
クリスティアナの付き人達は個人差はあれ、皆に人気がある。それは一重に彼らが優秀かつ端整な容姿をしているからだ。
そして、そんな彼らに黄色い声を上げるのはエイダとて例外ではない。
ただし彼女は基本年上好きであるため、自分よりも幼いコリンに対してはどこか弟を見るように接する。
付き人の中で、誰よりもコリント接する事が多いのもまた要因の一つだろう。
エイダが再び紗和の方へ視線を戻した所で、異変に気がついた。
紗和は、急に立ち上がったかと思えば、口に手を当てて顔を真っ青にしている。
すぐに何が必要か思いついたエイダは、急いで部屋に備え付けられてある桶を紗和に差し出す。一瞬エイダを天使か何かをみるような瞳で見上げた後、彼女は桶を口元に持っていき、そのままテラスに駆け込んだ。
エイダも後に続く。
案の定、紗和は桶の中に、先ほどまで食べていたものを戻していた。
「食べ過ぎたのでしょう」
ベティーナは冷静にそう言って紗和の背中を擦る。それがあまりに機械的で、エイダが自分が変わりにやると申し出た。
それも、ベティーナの冷たい一瞥で却下されてしまった。