Ep.58 彼らの期待
額に何か冷たいものが当たっている。
そう認識すると同時に、漂っていた意識が一気に呼び起こされた。
「!」
勢いよく体を起こし、けれどすぐに寝台に逆戻りをしてしまった。
「サワ様、あまり無理をされてはいけませんわ」
額に当たっていた冷たいものは、どうやらエイダが水につけて絞ってくれた布のようだ。
「クリスティアナ様、ご気分はいかがですか?」
エイダの隣に立って心配そうな顔で紗和を見下ろしてくるのは、もちろん、心配症のエドガーだ。その隣にはアーヴィンとチェスターの姿もある。
「聖女様とは知らず、申し訳ないことをした」
眩暈がようやく落ち着いてきた頃合いを見計らってゆっくりと上体を起こせば、少しオロオロとした先ほど見かけた青年がいた。彼は今、チェスターの兄が付けていたような布で顔を覆っている。
それを見るにつけて、紗和は自分の選択肢は本当に合っていたのかと、自責の念にかられる。が、しかし、それについて思い悩むことはもう辞めたのだ。
自分のやり方で進んでいく。そう決心した以上はもうよそ見をしない。
紗和というのは、そういう女性だ。
「あなたが、弟さん?」
「あぁ、自己紹介すらもせずに私は・・・。お初にお目にかかる、バーンズ家が次男にして、この家の次期当主、ダグラス・バーンズと申します」
「・・・次男?」
なにか今聞いてはいけない事を聞いた気がする。
紗和の呟きに小さく反応した人物が居たが、あえて今はスルーさせていただく。知らされなかったということはきっと知らなくていいことだからだ。
人のプライバシーに土足で踏み込むような野暮な真似はしないのが紗和のモットーである。
「ワタシの、弟です」
「・・・・」
そう言ったチェスターの声音は少しだけ震えを帯びていたし、それに対するダグラスの反応も冷え切っている。紗和の予想通り、このバーンズ家にはなにやら深い因縁があるようだ。
―――まぁ、関係ないけど。
誰かが聞けば泣くようなセリフを再び心の中で呟く。
「なにも、言わないのか?」
そのまま流そうとしていた紗和に、驚いたような反応を示したのは、チェスターを除いたバーンズ家の人々。つまり、アルフレッドとダグラスだ。
「え、何か言ってほしいの?」
それ、聖女が言っていいセリフじゃないだろう。
その場に居た紗和とエイダを除く全員の心の声が重なった瞬間だった。
ちなみにエイダは、瞳を輝かせて紗和を見つめている。その心の中は容易く想像できるというものだ。
そんな彼らを気にした様子もなく、紗和は言葉をつづけた。
「なんか色々気にかかる言葉はあったけどさ、私はバーンズ家の人間じゃないもの。誰にだって触れられたくないものぐらいあるでしょう」
紗和の言葉は納得がいくものだった。
その場に沈黙が横たわる。
沈黙を破ったのはアルフレッド。
「流石は聖女殿。考え方が大人だな」
「どうも」
調子が戻ってきたと判断した紗和はベッドから降りるために己にかけてあった布団を持ち上げ地面に足を付ける。
さりげなく、アーヴィンの手が彼女を支えるように背に触れる。
「ありがと」
短くお礼を言って、紗和はすぐに彼から離れた。その際に見つけた傷ついた表情はあえて気づかない振りをする。気づいてたらきっとだめだと、そう言い聞かせて。
ふと窓から差し込む日差しの色が赤く染まっていることに気が付く。
顔を上げれば思った通り夕日が遠くに沈もうとしていた。
「あらら、だいぶ寝てたみたいね」
「えぇ、それはぐーすかと暢気に」
「エドガー、五月蠅い」
「これは失礼」
紗和とエドガーの軽快な会話に驚くのは、二人の間柄を知らないアルフレッドとダグラスだ。まるで先ほどの気まずさを無かったかのように振る舞う少女の姿は、二人には奇妙に映った。
普通の人ならば、気まずさにこの家を立ち去るのが通常なのである。
だからこそ、この家族を覆う暗黒は晴れずにいる。
けれど聖女と評されるこの少女は、不穏な空気に気づいているのかいないのか、非常に暢気な様子で今晩の食事について聞いている始末である。
「なるほど」
アルフレッドが小さく呟いた。
その言葉を聞きとめたチェスターとダグラスが胡乱気に兄を見る。
アルフレッドは苦笑した。久しぶりに弟の視線が自分に向いたことに気づき、どれだけ自分達の関係が拗れているのか思い出し末の笑いだった。
「チェスターが何故彼女を連れてきたのか、少しわかった気がするよ」
その言葉にチェスターは微笑みだけで返し、ダグラスはただその眉間に眉を寄せるだけで何も言わない。
「食事の用意が出来ましたので、ぜひ広間の方にお集まりください」
先ほどまで紗和とエイダと共に屋敷を回っていた侍女が部屋の扉を開きそう告げる。
「夕食の時間だそうだ!ぜひ皆で祝杯をあげよう!」
いつものように両手を広げまるで宝塚の登場人物のような動きと言葉で真っ先に歩き出したアルフレッドに
「なんのですか」
と呆れた様子で突っ込むアーヴィンが続く。
「お腹減っちゃったー」
紗和がお腹を押さえながら扉の方へ向かう。
「きちんとした令嬢はそのようなはしたない真似はしませんよ」
紗和の先回りをして扉を抑えたエドガーのお小言を片手を振ってやり過ごす紗和に、エイダが小さく笑って続いた。少し口元を引き攣らせながら、けれどエイダのために扉を抑えておくエドガーは執事の鏡である。
扉が閉まる直前、紗和は何やら堪えるようにその部屋に立ち尽くすダグラスを一瞥した。
「紗和様」
「ん?」
大広間へ向かう途中の道で、エイダが紗和を呼んだ。
彼女の方に顔を向ければ、なにやら薄ら笑いを浮かべているエイダがいる。
「なにを企んでいるんですか?」
「なにって」
エイダに隠し事はできない事は、紗和は一番よくわかっているつもりだ。エイダという人間は他の誰よりも、『紗和』に近い場所に居てくれるのだから、それは当然のことだろう。
関わる気など、まったくなかった。
人のおせっかいがいかに邪魔なものか彼女自身わかっているつもりだったから。
けれど状況が変わったのだ。
「期待されてしまったからには、応えてあげないとね」
エイダに爽やかな笑みを向けて紗和は言った。
―――誰からの、とは、あえて言わない。