EP.56 深入りは禁物
あいさつも終わり、アルは再び弟に関心を戻す。
「しかし何だって急に顔を隠せと?」
ずばっと核心を付かれ、紗和は思わず顔を逸らしてしまった。やはり彼の布は自分のためのものだったのかと再確認し、再び自分の不甲斐なさに落ち込みそうになった。
「しかも何故お前までそんな変な仮面を被っている?」
二言目でまたさらに紗和は落ち込んだ。
不甲斐なさという車に拍車がかかる様が脳裏で変に浮かび上がってくる。それこそ、山の頂から転げ落ちるほどの速さで。
こんなことでは、社交界デビューなんて到底無理ではないか。
そんな紗和の心の中だけの思いを誰が察するわけでもなく、チェスターと兄の会話は続く。
「それには少し事情がありまして。ですが深く説明することもないですよね?兄上も同じなんですから」
「言うようになったね」
弟の物言いに怒るわけでもなく、兄は逆に少し口端を持ち上げた。
「さぁ、客人をこのようなところに立たせておくわけにもいくまい。客間にご案内させていただこうかな」
そう言って腕を広げ、一行を先導するように進みだしたのは言うまでもなくアルである。
今日は一泊することになっていたのだ。少しでも他の貴族というものを知っておくべきだと進言したチェスターに、エドガーも二言目を発することなく同意した。しかも相手は爵位第三位。特訓するにはもってこいの状況だったらしい。
―――確かに、このお兄さんのキャラに慣れれば相当怖いものなしになるわよね。
エドガーの腹の底を読めたところで、紗和とエイダが客間に通された。
そこは別荘として使っていたクリスティアナの部屋とほぼ同じくらいの大きさだった。やはりキースの邸が広すぎるだけで、普通はこんなものなのだろう。
確かに、日本人の感覚では到底追いつきそうにもない豪華さと広さではあるが。
紗和が泊まる部屋の左側の壁に、ドアが備え付けられている。それは廊下に続く正面の扉とは異なり、もう一つの部屋に続いていた。一回りほど小ぶりなその部屋は、エイダのために用意されたもの。
侍女という立場上、いつでもお嬢様の傍でお世話をできるようにというアルフレッドの配慮なのだ。変人ではあっても、きちんとした貴族であることに代わりはない。
紗和に与えられた室のある同じ階の一番端に、エドガーとアーヴィンが泊まる部屋があった。やはり仕える身である以上、クリスティアナと同列の客人としては扱えないらしい。
ただ、それを確認するような視線をアルフレッドがアーヴィンに送ったことに、紗和は気がついていた。どちらかといえば、アーヴィンがそれを望んでいるようでもあった。
「聖女様には、自分の屋敷にいるような気持ちで過ごしていただきたい。ここ居る間は、どこでも好きに出歩くがよろしい。あなたは先日まで病弱で、あまり世間を知らないと聞いたからね」
アルフレッドがクリスティアナを見下ろす。
「お気遣い、痛み入ります」
紗和がさっそく習った作法で頭を下げると、エドガーの頷く姿と、アーヴィンの嬉しそうな笑顔が見えた。とりあえず成功したようだ。
「……ただし、一つだけお願いしたいことがある」
「はい?」
「私と同じ髪色の少年が、もしかしたら無礼を働くかもしれない。その時は、どうぞ私とチェスターに免じて許してほしい」
アルが頭を下げると、並んでいたチェスターまでもが頭を下げてくるではないか。
事情を知らない紗和とエイダは同時に頭をかしげる。
「少年、ですか」
「私達の弟なのですが、あまり仲が良くなくて」
チェスターの声音のトーンが下がる。
「聖女様が来るとは伝えてあるが、彼がどのような対応にでるのか皆目検討がつかないのだ。私達は彼をまったく知らないのでね」
「なるほど」
この兄弟は、なにやら色々問題があるようだった。
先ほど、チェスターが言いかけた言葉といい、実の兄弟なのに対応の仕方がわからないという弟のことといい。
―――でもまぁ、一泊だけだし、別に深入りする必要もないか。
そんな、物語の主人公らしからぬことを紗和が思っていることに、チェスターを除く側近だけがなんとなく気がついていた。
だが紗和の人一倍捻くれている性格が、この兄弟の将来を百八十度変えてしまうことにまでは、彼らも、そして紗和自身もまったく気がついてはいなかった。