EP.4 ダイちゃん
どこか遠くで、鳥の鳴き声がした。
フクロウを連想させる辺りに響く深い低音のそれは、夜だからこそ人の気持ちを物悲しくさせる。毛布を頭から被っていた紗和は、そろそろと顔を毛布の中から覗かせた。
青白くさえ感じさせる月明かりで照らされた室内には、ベッドに眠る彼女以外誰も居なかった。
失礼だとは思ったが、それでも、あの麗人達が居ないことに心底安心してしまう。
しばらく目だけで室内を伺う。大きなタンスや、化粧台、そしてソファーや机などがあるだけで、特に変わった様子はない。危険なものがないと自分の中で判断をしたところで、彼女はゆっくりとベッドから降りてみた。
そこで、自分の背が元に比べてかなり低くなっていること、そしてこの体の持ち主がまだ年端もいかぬ娘なのだということに気づいた。胸も未発達であるし、女性特有の体の柔らかな弧線も目立つほどではなかった。
部屋の中を歩きまわる。
途中、着ている膝丈ほどもあるネグリジェらしき服が邪魔になって少しイライラしたものの、好奇心が旺盛な彼女は探索を止める事はなかった。
とりあえず、自分が今どこに居るのかぐらいは把握しておきたかったのだ。
しかしそれも、一つの部屋、しかもまだ若い少女の部屋だけでは知ることすら難しい。部屋にあるものといえば、ドレスや化粧道具、蝋燭などどこか中世ヨーロッパを思い起こさせるものばかり。
「………え、いや、ちょっと待って」
自分の思考の中に浮かんで消えた一つの単語をもう一度掘り起こした。
「中世、ヨーロッパ」
血の気が引いた。
もしかしなくても、かの有名な猫型ロボットのかの有名な道具、タイムマシーンとどこでも○アを使ってここまで来てしまったのか。とさえ勘繰ってしまいそうなほど、紗和は混乱した。
『紗和』
「!?」
いきなり誰かに名前を呼ばれる。
それでなくとも、自分の導き出した展開に混乱しているというのに、その上急に名前を呼ばれたのだ。紗和の心臓が一瞬本当に動きを止めた。
しかし次の瞬間には、すべての血流が体の中を駆け巡る音が聞こえそうなほど心臓が激しく鳴り出す。
彼女は幽霊を信じている。幼い頃、一度だけ会った事がある、と彼女は思っていた。そしてそれが、紗和を『麗人恐怖症』にしてしまったすべての原因なのだ。
『紗和、とりあえず、怯えてないで、この布どけて』
最初どこから聞こえてくるのか分からず視線を忙しなく動かしていた紗和であったが、声の主の言葉でどうにか位置を把握した。
彼女の視線が一点に向かう。
そこにあるのは、化粧台の鏡。といっても、布が掛けられているため、一眼に鏡とはわからない。しかし布をどけろということは、きっとそこなのだろう。
怯えながらも、紗和は化粧台へ歩みを進めた。
体は恐がっているはずなのに、心のどこかが大丈夫だと、彼は平気だと伝えてくる。
―――どこかで、聞いた事のある声だ。
小さく震える指先で、布の端を掴み、そしてゆっくりと引っ張った。そんなに力を込めなくても、布はあっさりと音もなく床に滑り落ちた。
「ひっ!?」
黄金の装飾があしらわれた鏡には、本来映るはずのない人が居た。そのことに驚き、さらにその人物が変な仮面を被っていたものだから、紗和は二重に驚いた。
思わず悲鳴を上げそうになって、しかし夜だということを思い出し手で口元を抑える。
『あ~、声は出さない方がいいよ。扉の前に、付き人達が居るから。一応眠らせたけど、いつ起きるかわからない』
鏡の中に居る変な人物は、仮面で隠れていない口元に微笑を浮かべた。
付き人と言われて思い出す、先ほどの麗人達。
「……あの人達が、居るの?外に?」
『うん。まぁ、しょうがないよね。『お嬢様』が昼間あんな変な態度取ったんだから。少し警戒してるみたいだ』
すべてを知っているかのような口調に、紗和は眉を寄せた。
けれど口を挟む事はしない。
『僕達の問題に紗和を巻き込んで、本当に申し訳ないとは思ってる。でも、紗和なら大丈夫だと思ったんだ。それに、僕が、紗和にもう一度会いたかったんだよ』
「え、なに、あんた私を知ってるの?」
鏡に映る人物に、紗和は不信感を募らせた。白と銀の仮面は鼻までを隠していて、けれどその口元や顔の輪郭から察するにかなりの美麗だと思われる。そしてなにより目を惹くのは、結ぶ事もなく肩まで流れている黄金に輝くウェーブの巻き毛。それでも声音から、男だと思われた。
自分は決して、こんな怪しい人物と知り合った覚えはない。そう思い直したところで、少し引っ掛かりを憶えた。それは彼の髪の毛。
「……ちょっと、待って」
輝く黄金の巻き毛。その言葉を聞いてとすぐに思い出す人物が居る。今の紗和を生み出したかの少年は、天使と称えられるに値するに愛らしい容貌をしていた。
『思い出してくれた?そう、僕だよ、ダイだよ。紗和ちゃん』
「………今すぐ鏡から出てここに直れ」
紗和の額に血管が数本浮き出た。彼女の顔を暗い影が覆う。
『え、紗和』
その口元には薄ら笑みが浮かび上がり、どれだけの怒りが彼女の中に溜まっているのか如実に表している。
ここまで日本刀を欲したことはないと、後に紗和が語った。
「出来ることなら、いますぐにでもあの過去と共にすべてを一刀両断にしてやりたい気分よ。あんたのせいで私がどれだけ大変な思いをしたと……」
なんと続ければ良いか分からず、無言のまま背を向けた。
拳を握り締め、歯を食いしばる。そうでもしなければ、鏡に向かって怒鳴りつけ、拳を振り上げたくなってしまうのだ。
憤りに肩を振るわせる紗和を見て、鏡の中の彼は悲しそうに笑った。
申し訳なさと、再び会えた事の嬉しさの間で、彼もまた変な気持ちになっていた。
「なんで………あの時、居なくなったの」
背を向けたまま、感情を押し殺した声で紗和は尋ねた。
居なくなった。そう、彼は居なくなった。
昔、まだ自分が十歳になる前に出会った。友達だった彼。最初は誰よりも綺麗な彼に興味も持っただけで近づいた。けれど、いつしか彼といると楽しくなって、いつも一緒に遊んでいた。どこに住んでいるのかも、どこの学校に行っているのかも分からなかったけれど、仲良しで。たまに彼女の友達も一緒に遊んだし、家にも連れて行って、夕食だって紗和の家族みんなで食べたことだってあった。紗和の弟と妹が、彼に懐いていたのも、それに少し戸惑っていた彼もよく憶えている。
そんな彼が、居なくなった。
―――違う。違うの。本当は、消えた。そう、幼い私の前で、煙のように、消えてしまった。
残されたのは彼が着ていた洋服だけ。
恐くて。友達だった彼が急に消えたのがとても恐くて、家に飛び帰った。そこで家族に何が起こったのか半分泣きながら話して聞かせた。
『あのね、ダイちゃんがね、消えたの。洋服だけあってね、煙突の煙みたいにね、消えちゃったの』
すると彼らは不思議な顔をして言った。
『……誰の、話をしているの?』
最初に彼に会った時、あまりの綺麗さに本物の天使がやってきたのだと思った。いつか、神様が来て、彼を攫ってしまうのではなくかと、彼に会うたびに思っていた。それぐらい、綺麗だった。
だから、彼が消えて数日が経った時、唐突に思ったのだ。
あぁ、彼は、攫われてしまったんだ。綺麗だから、誰かに攫われていったんだ。
この出来事は、紗和に大きな影響を与えてしまう。
綺麗な人を見るたびに、いつか誰かがその人を攫っていってしまうのではないかと思うようになった。もうあんな風に友人が消えてしまうのは見たくないから、綺麗な人から距離を置いた。
恐いから、恐ろしいから。消えていくのを見たくないから。
そう思うようになって早十数年。
綺麗な人の姿を視界に入れることさえ憚れるになる。
そしてその後、紗和は見事に、『麗人恐怖症』と化してしまったのだった。