EP.46 笑顔
重い空気がその場に居た人間に伝染する。
自分の行動に後悔はないが、それでもこれでよかったのかという迷いは生まれるもの。ベリアの姿を隠すように閉まった大きな扉を見つめたまま、紗和はしばらく動けずに居た。
「ど、どうすんのさ」
コリンの焦りと戸惑いに満ちた声が後方から聞こえ、ようやく紗和は自分が前だけを見つめていたことに気づく。
何故コリンが驚いたような声音を発したのか原因を追究しようと後ろを振り返れば、チェスター以外の全員が仮面をつけていなかったことがわかる。
綺麗な人達の視線がすべて自分に向いているにも関わらず紗和が冷静で居られるのは本当にすごいことで、二ヶ月と少し前の彼女ならば予想すらしていなかっただろう。
―――というか、自分の『死』すら予期できなかったんだから当たり前よね。
それを思い出すと少し笑えた。
「ベリア、ほんとに怒ってたよ!これってさ、『仲違い』ってやつでしょ?どうするの、もしベリアがサワ様に会いたくなくって、職務放棄しちゃったら」
コリンが矢継ぎ早に言葉を紡ぎ一人でオロオロしていた。
けれどすぐに周りの誰もが自分ほど危機感を持っていないことに気づくと、ぴたっと動きを止め、恥ずかしそうに俯く。
「みんな心配じゃないの?」
傍にいたエイダを恨みがましく見上げれば、彼女は首を竦めて見せた。まるで自分が子供であることを改めて思い知らされるようなその行動に少しだけむっとする。
時に自分より子供っぽい行動をするエイダなのに、時々年長であるフランよりも大人びた表情をする時があるのだ、この不思議な侍女は。
「コリンくん、大丈夫よ」
紗和が言った。
エイダから視線を外し、サワを見れば、疲れたような彼女の顔が見える。
喜怒哀楽をしっかりと表情に表す紗和だが、こんな風に曖昧な表情はあまり見たことがないとコリンは思った。
「私もベリアも大人だから。公私ははっきり分けられる」
だから、たとえベリアが『紗和』を嫌ってしまっても、『お嬢様』にはなんの影響もないのだ。自分だけの好き嫌いで大切なものを見殺しにしてしまうような女性では、ベリアは決してない。
「公私って、………どこが?」
「ベリアはベリアである前に、医者です。それが彼女がお嬢様の傍にいる一番の理由ということを忘れたわけではないでしょう?ベリアが医者であることを放棄すれば、彼女はここには居られない。私達同様お嬢様を大切にしているベリアが職務放棄することはまずありえませんね」
エドガーの砕いた説明に、一番年若い側近は納得するように頷く。
そしてまた紗和を見た。
「ベリアならまだわかるけど、なんでサワ様が、公私の区別をつけなきゃいけないのさ」
「……え?」
不意をつかれたように目を見開いた紗和は変な緊張感が己の体を駆け巡ったのを瞬時に感じ取り、無意識の内に拳を握り締めていた。
「だって『サワ様』は『お嬢様』なんでしょ?」
ただ純粋に輝く琥珀の瞳が自分を映すその事実は、今の紗和にとって拷問のように思えた。
コリンの言葉に誰も否定の意を示さないことにも、激しく動揺した。
初めてアーヴィンが『サワ』と呼んだ時に感じた微かな違和感。
その理由が今はっきりとわかってしまった。
「サワ様?どうかされましたか、お顔が真っ青ですよ?」
コウを抱いたままのチェスターが心配そうな雰囲気を纏わせながら紗和を見つめている。
彼だけはまだ仮面をつけたままだ。
しかしそのことを深く考える暇が、今の彼女にはなかった。
「う、ううん。なんでもない。………なんでもないから、大丈夫」
無理矢理、口端を持ち上げた。
けれどその心中は穏やかなものではない。少しの間でも色気のなくなった顔は、彼女の凍りつく心を見事に表していたのだ。
―――この人達は、無意識の内に『私』を『お嬢様』と認識し始めてしまっている。
最悪だ。
それは決してあってはならないこと。
『クリスティアナ』の居場所を『紗和』が奪ってしまうことと同意義なのだから。
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いつものようにベランダで語らいで居た紗和は、ベリアとの手厳しいやり取りを思い返しながらスコーンを二つに割る。
そして先日気づいてしまった最悪な状況を考えながらスコーンの表面にブルーベリーのジャムをたっぷりと塗った。
「ねぇ、エイダ」
「はい」
自分の目の前で紅茶用のポットと紅茶のカップを持ち、今まさに紅茶の補充を行おうとしていたエイダは一度動きを止めて紗和を見た。そんな彼女に続けていいと仕草で合図して、紗和はスコーンを一齧りする。
ブルーベリージャムとスコーンのサクサク感がうまい具合に合わさっている。しかも出来立てなのがまたうれしい。これでクリームチーズがあれば文句なし。
テーブルの上を走り回っていたランにも少しだけスコーンを分けてやればようやくその動きを止め、実においしそうに食べ始めた。
コウは傍でミルクを飲んでいて、リョクに至ってはいつものように紗和の膝の上でお昼寝中である。
食べたものを飲下して紗和は言う。
「エイダはクリスティアナちゃんに会った事ってある?」
「いいえ、わたしは一度もお嬢様にお会いしたこともお話をさせていただいたこともありません」
ポットとカップを置いて、エイダは紗和の向かい側に座った。
「今回も、『紗和様』にお仕えするためにここにおります」
「そうなんだ」
「えぇ、わたしは元々下っ端侍女ですから」
エイダの言葉に酷く安心感を覚えている自分がいる。
「でもこうしてサワ様にお仕えすることができて、今、本当に幸せなんですよ?」
「エイダ……」
妹のような少女の言葉に図らずも感動してしまいそうになった紗和。だがしかし、エイダが力強く拳を握り締めたところで少し嫌な予感を覚えた。
「だって、あんなに麗しい方々と何度も顔を合わすことができるのですもの!しかも周りの目を気にすることなく!!」
「って、そっちかい!」
久々に紗和の突っ込みが炸裂した。
「もちろんですよ。サワ様もあの麗しいカンバセ達を心置きなく堪能しなくては女が廃るというものです」
「エイダ!あなたという子はっ」
今まで会話に参加せず後ろに控えていたベティも思わずと言った風に口を出した後、呆れてものが言えないという風情で頭を振っている。
「くくっ、あははははは」
久々に見た二人のやりとりと相変わらずのエイダに、思わず大きな笑い声が零れた。
スコーンに夢中だったランが紗和の笑い声に合わせるようにテーブルの上を飛び跳ねる。その様子を見ていたコウが、兄の行儀が悪いと思ったのだろうか、静かにランの元に歩み寄り、ぴょんぴょんと飛ぶ兄の尻尾を思いっきりその足で踏みつけた。それによりランは大人しくスコーンを食べることに戻った。
「エイダっ、もう!」
一頻り笑って身尻に溜まった涙を拭えば、やさしい顔をしたエイダと目が合った。
「やっぱり、サワ様にはそんな風に大きな声で笑う方が似合っています」
「そう?」
「はい!」
「そっか……。うん、笑顔、忘れちゃだめだよね」
紗和が笑うと、エイダの瞳がより一層眩しく輝く。
「それでこそわたしのサワ様です!」
「誰が、あ・な・た・の、ですか」
ベティの突っ込みもまだまだ健在のようで、それを聞いた紗和は再び声を上げて笑った。