EP.36 風の音
屋敷に戻った彼女はすでにいつもの自分を取り戻していた。
嫌なことは早々に忘れてしまう。それが己の内だけに秘めるものならば。忘れてしまえばいい。そしてもし、その秘め事がさらけ出された時は、またその時考えればいい。
でなければ長い人生やっていけない。
―――って、長い人生って誰の話よ。
そう思って笑えれば、自分がきちんと戻ってきていることを確認できた。
「サワ様、最高等神官はなんと?」
自室のソファーに身を投げ、大きく背伸びをして体を解す紗和を見つめ、エドガーが言った。
アーヴィンに連れられて彼らの元へ戻った直後、エドガーが切れた唇を目ざとく見つけ、そして質問攻めにしたのは予想の範囲内の行動だった。ので、その数手上手をいくことができた紗和はのらりくらりと確信から逃れることができた。
それゆえに深くは追求されることなく、けれどそこで安心していたのが間違いだったらしい。
伸びを終え、今度は腕と肩を回し始めた紗和は、エドガーの質問にどう答えようかと思案する。それは傍から見れば、ただ柔軟運動に行っているとしか見えず、不信感を与えることはない。
「別に、ただ、がんばってくださいとだけ。後は、必要があれば手助けをしてやるとも言われた」
絶体絶命の時に、というありがたいお言葉付きだ。
「それだけですか?」
「うん」
ベリアがなにやら思案するような素振りを見せ、エドガーもまた眉を寄せる。
ちなみにキールは自室にて仕事中なのでこの場には居ない。本当に忙しい父である。ご苦労様、と紗和は心の中で合掌した。
「サワ様、いかがでしたか、初めての神殿は」
柔軟運動している紗和にタオルを渡しながらエイダが尋ねてきた。
「すごかったとしか。っていうか、全部が白かったのには少し驚いたけど」
「白は神聖な色ですからね」
「………それにしても、最高等神官は何を思ってサワ様を呼び出したのでしょう」
「もういいじゃん。ちょっと顔が見ときたかっただけの話でしょ」
エドガーが呟いた言葉を聞き逃すことができなかった紗和は、軽く跳ね除ける意見を放つ。無理矢理ではあるがどうにか勘のするどい執事の思考を別のものへと追いやりたかったのだ。知られればまたややこしい話になる。
『紗和』はあくまで『クリスティアナ』が戻ってくるまでの繋ぎの存在。余計の事を知られる、つまり『クリスティアナ』ではない『紗和自身』の問題に触れられることは、正直してほしくない。
でなければ、勘違いを、してしまうだろう。
「クリスティアナちゃんが帰ってくるまで、もうそんなにかからないだろうし、私もがんばってこの体を完璧な健康状態に保って置いてみせるよ」
「お願いしますよ」
結局、エドガーの思考を逸らすために、紗和は『クリスティアナ』の話題を使うことにしたのだった。
● ● ● ● ● ●
それから数日後、紗和は屋敷の庭先でエイダと共に日光浴に励んでいた。
今回は珍しく付き人六人が勢ぞろいして、眩しそうに目を細め太陽に向けて手を翳す二人の少女の姿を眺めていた。
「こうしていると、自分達が生きているというのが実感できますね」
「だねぇ」
エイダが嬉しそうに笑うと、紗和も心が温かくなる。
共に噴水の縁に腰掛け、手のひらを太陽に透かせれば、光の暖かさが手に直接伝わってきて、また自然と笑みを浮かべた。
紗和の笑みを見るとエイダもまた嬉しい気持ちになるということを、紗和はきっと知らないだろう。
会話もなくただぼーっとしていたところで、エイダがなにやら思いついたように手を合わせ、隣に座る紗和を向き直る。
「サワ様は神殿の周りに位置する像をごらんになりました?」
「像?」
正直神殿での思い出は、ほとんどあの憎らしいじいさんで占められている。そのため周りはあまり頭の中に残っていなかったのが本当のところだ。
とりあえず紗和は、像らしきものがあったかどうかを脳内から掘り起こす努力をした。しかしそれもほんの数十秒で諦め、改めてエイダを見た。
「ごめん、覚えてないや」
「……かなり大きな像ですよ?」
「うん。ちょっと、というか、かなり他のものに気を取られててね。………生きた化石みたいなのとかに」
つい本音が漏れた。
ふっ、と乾いた笑みが零れてしまう。
「神殿の周りを囲むように四体の石像があるのです。それはこの国の太古よりあるもので、観光名所の一つとしても、かなり重要視されているものなんですよ」
「神殿にある四体ってことは、あれ、天使達の像ってこと?」
「はい。その通りです。本当は五体なのですが、一体は上半身が取り壊されてまして……」
「空を司ってたっていう、堕天使のことでしょ」
彼の話をするとき、エイダはとても苦々しい顔をする。それを少し不思議に思いつつ、決して核心に触れるような話題は出さない。知っても、紗和にはきっとどうしようもないことだ。
他人の心の奥にある、自分にはどうにもできない問題を無理矢理聞き出して、下手な慰めを提供するのは逆に相手の気持ちを傷つけることにもなりかねない。
だったら変に関わるのは止めておいた方がいい。
会社の同僚には、それはとても冷たいことだと非難されたこともあったけれど。
太陽の日差しのせいだろうか。緩やかに流れる風のせいか。それとも。
紗和の記憶が、ゆっくりと昔を遡る。否、元居た世界に戻されていく。
「……さわさわ」
「サワ様?」
「サワサワ揺れる、風の音。キラキラ光る、太陽の音。リンリン響く、鈴の音」
母親の口癖が急に思い出されて、無意識の内に口ずさんでいた。
――貴羅、凛。
弟と妹は大丈夫だろうか。母は、父は、元気だろうか。
自分のことをあまり引き摺らずに、前を向いて歩いてほしいと願う。
「それは?」
エイダの声によって、紗和は世界に引き戻される。
見ればそばかすの少女が自分を見つめている。けれど、その瞳に映るのは自分の姿ではない。
「私の、名前の由来。サワっていうのは、草木が風に揺れるときの音からつけたって母が言ってた」
「では他の二つは……」
不意にエイダを見つめる紗和瞳が遠くなった。紗和が瞳に映そうとしているのは、目の前に居る自分ではなく、他の場所に居るなにか。
「弟と妹の名前。キラとリンっていうのよ」
「そうなのですか。兄弟が、いらっしゃったのですね」
「うん。……エイダは?兄弟っているの?」
そういえば、いつも自分の過去の話ばかりしている気がする。そのせいで、いつも傍に居る娘のことをまったくなにもしらないと、今更になって思い出した。
「兄が、一人」
「へぇ、お兄さん」
「ですが、行方不明なのです。六年前に家を出て、それっきり」
「そう、だったんだ」
「元々わたし達には両親がおりません。けれど義父母が居て、大事に育ててもらいました。そんな義父が病に倒れてしまって」
エイダの瞳が小さく翳った。
「……」
彼女の事情を聞いて、紗和は掛ける言葉を失っていた。
いつも元気で明るい少女であるのに、本当はこんな事情があったとは。
「そんなに重い病ではありませんでしたが、それからというもの、老いを感じ始めた義父は兄に会いたがるようになりました。兄を探すため、そして家にお金をいれるため、わたしは村を出て出稼ぎにでることにしました。そして、キース様に雇っていただいたんです」
何も知らずに、彼女をただの少女だと思っていた自分を、紗和は恥じていた。
「結局、兄の行方はわからないままですが」
「ごめん。私」
「そんな顔をしないでください、サワ様。サワ様に会えて、エイダはとても嬉しいです。義父母にも手紙を出しました。そうしたら、ぜひ今度連れてくるように言っていましたよ」
「え?」
「サワ様に会ってみたいと、義父と義母が」
―――本当に、この子は。
いつでも、どんな時でも、『お嬢様』ではなく『紗和』のことを見てくれる。