EP.35 憐れみの瞳
『不憫な娘よのぅ』
―――また、めんどくさい人物と会ってしまった。
部屋を出て、もときた道を正確に辿りながら側近達のもとへ向かっていた紗和は、知らずの内に下唇を噛み締めていた。
白いローブを着た、間違えれば魔法使いにも見えてしまいそうなあの老人の瞳の奥に最後に見えた色。
それは、自分を憐れむ暗い色。
「……っ」
正確にその意味を理解してしまったことを、果たして喜ぶべきなのか。
紗和は歩く歩調を速める。
けれど体の中ではまるで噴火寸前のマグマのような激しい激情が、心に揺さぶりをかけていた。少しでも気を抜けば、すぐに噴火してしまいそうで。
自分にはやらなければいけないことがある、だから、憐れに思われることなんてどこにもない。そう、これは自分で決めた。自分で、自分が。
―――じゃあ、その選択肢に、拒否権はあった?
思い出せない。
すべてが遠くにある。
もう、なにも。
「サワ、様?」
声をかけられた。
はっとして顔を上げれば、そこに居たのは茶髪の青年。
心配そうにこちらを見つめるその美しい面差しが露になっているのは、紗和が彼の中に勇気を見つけることができたから。
「アーヴィン。……あれ、私」
いつの間にか戻ってきていたのか。
「サワ様、最高等神官に、なにか言われたんですか?」
「え?」
アーヴィンの瞳がやけに暗い。
不思議なことを聞く青年だと、そう思って聞き返したとき、彼の長い指が紗和の唇に触れた。そっと触れて、そして離れていった彼の指に付着していたのは赤い液体。
「………」
驚いて自分もそこに触れる。
ぬるっとした感触がした。
気づかない内に、唇を噛み締めていたらしい。
皮を切って、血がにじみ出るほどに。
「アーヴィン、お願い」
いまだ心配そうにこちらを見つめる青年を見上げて、紗和は懇願した。
「このこと、誰にも言わないで。なんでもないの。私さ、考え事すると、こういうことする癖があってさ。だから、気にしないで、いつもの事だから」
幸い今自分を見ているのはアーヴィンだけで、他の者達の姿は見当たらない。
それにアーヴィンは自分を姉のように慕ってくれている義理堅い人物だ。こうしてお願いをすれば、きっと誰にも他言はしないはず。
目の前にいる青年の瞳が、迷うように小さく揺れる。
「こんなの私にとっては日常茶飯事なのよ。それなのにさ、みんなそれを知らないでしょ?それで余計な心配とかさせたくない。エドガーとかすごく大騒ぎしそうじゃない?だから、お願い。これは私とアーヴィンだけの秘密にしといて」
両手を合わせて上目遣いに彼を見上げれば、少しだけ頬に朱の色がさしたようだ。
しかしその色はすぐに消えて、再び心配そうな彼に戻る。
「……本当に、なんでもないんですね?嘘、言ってませんよね?」
「うん」
「もしなにかあるなら、言ってください。俺、サワ様の力になりたいんです。………頼りないかもしれないけれど」
真摯に自分を見つめてくるその瞳に映る自分を見たくなくて、視線を逸らした。
「……何言ってるの。私が嘘なんて言うわけないでしょ。それにみんなのことは頼りにしてるよ」
罪悪感渦巻く心中を隠して、紗和は笑ってアーヴィンの肩を叩いた。
―――笑顔で嘘をつくことに慣れてしまったのは、一体いつからだったか。
死んでしまっても尚、嘘をつき続けなければいけない自分。
『安らかな死を迎えられずに居る異世界の娘』
気に入らない老人ではあったけれど、きっと自分は、また彼に会いに行くことになるだろう。
『きっと紗和と気が合うんじゃないかな』
本当に、ダイちゃんの予想ほど当たらないものはないな、と、紗和はひっそりと自嘲した。