EP.29 似たもの同士
いつものように一時課の鐘が鳴り始めた頃、紗和の意識が戻ってきた。
薄っすらと目を明ければ、なぜか至近距離で見えたエイダの顔。それは鼻と鼻が触れ合うのではないかと思うほどに近く、一瞬息を止めた紗和は、驚いて飛び上がった。
「え、エイダ!?」
「おはようございます、サワ様」
紗和が何故驚いているかなどまったく気にした様子のないエイダはにっこりわらって紗和に朝のあいさつをする。
幸いにもベティはまだ部屋に入ってきてはおらず、お約束である彼女の手堅い突っ込みがエイダに向けられることはなかった。
「昨日はよくお眠りになられましたか?」
今日着る服何着か見繕い紗和の前に差し出してくるエイダが、思いついたように尋ねてくる。
青、白、赤と色とりどりのドレスの中で、青いドレスを選んだ紗和は、そのドレスを手に取り、エイダと共に部屋の片隅にある衝立に向かって歩き出す。
「うん、普通」
「そうですか、よかったです」
「なんで?」
「いえ、昨日お話したことで、サワ様が妙な気を揉まれていないかと」
エイダは自分が余計なことを話しすぎてしまったのではないかと思ったようだ。紗和が軽く笑い飛ばせば、ほっとしたように息をついた。
着替えが終わり、ベティが朝食を持ってくる。
それをありがたく頂いていると、エドガーがやってきた。
食事中は口を挟むことなく静かに紗和を見つめていたエドガーであったが、どこか思い詰めたような表情をしているようにも見え、食事を終えた紗和はすばやく彼に近づき仮面を被る執事を見上げた。
何かを探るような紗和の瞳に、エドガーは少しだけ戸惑った。
しかし彼は彼で紗和には負けたくない、対等で居たいというよくわからないプライドがあったため、実際彼らは静かに見つめあうことになった。
どちらも何も言わず、ただ相手の顔を凝視する。
誰かが止めなければいつまでも続くと思われたその意味不明な行動に終止符を打ったのは、もちろんエイダだった。
「お二人とも、一体何をしてらっしゃるんですか?」
率直且つ己に素直に生きている歳若いメイドは、時として誰よりも最強になる。
「……」
ベティ自身も聞きたかったのだろうか。彼女は珍しくエイダの言葉に何も言わなかった。
軽く咳払いをして、紗和とエドガーは視線を外す。
どうしても互いを前にすると闘争心というものが湧き上がるらしい。それはもう本能に近いもので、どちらも止めようがなかったし、他の者たちも当の昔に諦めていた。
「昨日のことなら、エドガーに責任はないって。あれは事故。不可抗力。どうにもできなかったことでしょ」
お嬢様溺愛の執事がなにをそんなに思いつめているのか、正直すぐにピンときていた。
紗和の的を射た言葉を聞いたエドガーは、なぜか唐突に片膝を床につき、紗和の右手を己の両手で包み込む。
「へ?」
今までこんなことをされたことがない彼女は戸惑いつつも自分を見上げてくるエドガーに視線をやった。
仮面から辛うじて見えるその瞳には、なにやら懇願の色が含まれているようにも見え、なんとなく動揺してしまう。
エドガーはしばらく黙ったままだったが、自分が包み込んでいる紗和の手の上に額をくっつけ口を開いた。
「どうか、どうか『クリスティアナ様』のことを、よろしくお願いいたします」
「………」
「あの時、お嬢様の体が馬車の外に飛び出したとき、私は心臓が止まったように感じました。誰にも彼女を止められない、救うことができないと直感した時は、剣を取り落としてジハングの餌食になってもいいとまで思いました。けれど、『あなた』が居た。誰よりも『クリスティアナ様』の傍にいる『あなた』は、その機転で彼女を救ってくれた。お礼のしようがありません」
エドガーは礼が言いたかったのだ。
いざと言う時に無力だった自分達の代わりに大切な『お嬢様』を救ってくれた『紗和』に。
そう思うとなにやらくすぐったい気持ちになると同時に、本当にエドガーはクリスティアナのことを大事に思っているんだなと微笑ましくなる。
「これからも、もしかしたらあなたに頼る場面があるかもしれません。その時は、どうぞ我らのお嬢様のことを……、よろしくお願いします」
「はいお願いされました」
エドガーが頭を下げると、それにつられるように紗和も頭を下げた。
「大丈夫。進んで危険なところには行かないように気をつけるから。………でね、今日はちょっと書庫に行ってみたいと思うんですけど」
いつまでもこんなに奇妙な空気でいるのは嫌だと思った紗和は、些か無理やりではあるが、話題を変えるためにお願い事をしてみた。
「わかりました」
エドガーに改まった態度で何かをお願いされることがなかったため、二人の間には微妙な空気が流れる。簡単に言えば居心地が悪いのだ。
それはエドガーも同じだったのだろう。
他の側近達を連れてくると言って、早々に部屋から立ち去った。
それから数十分後、エドガー、フラン、アーヴィンの三人が部屋にやってきた。
● ● ● ● ● ●
部屋を出て廊下を歩く。
時間帯も早いためか、廊下はいつも以上に明るい。これには紗和もほっとする。夕方に廊下を歩けば、薄暗さになれていない紗和は半分以上の確率で転んでしまう。何も無いところでも、ドレスに足を取られてしまうのだ。
そういう場合、フランが持ち前の反射神経を生かして紗和を抱きとめてくれる。
さすがはがっしりした体格の持ち主だ。最初に腕で抱きとめられたとき、その上腕二頭筋に感動してしばらくフニフニと揉ませてもらった。
あんなにしっかりした筋肉を生で拝んだのは初めてで少しドキドキした。
「ですがお嬢様、何故急に書庫に?」
三人の先頭をきって歩いていた紗和の背後に問いが投げかけられる。もちろんエドガーからの質問だ。
歩きを止めないまま顔だけを少し後ろに回転させて紗和はその質問に答える。
「いや、やっぱり暇だしさ、書庫に行ってなにか発掘できないかなぁって」
「それは良い心がけですが、屋敷に閉じこもってばかりだからと言って、後々暴れまわらないでくださいよ」
「私は我侭な小娘か何かか!」
「おや、違いましたっけ」
「だ~か~ら~、そうやって人の年齢をさ、自分の好きなようにコロコロ変えないでくれない?」
「臨機応変と言ってください」
エドガーが眼鏡を人差し指で押し戻し、不敵に笑った。
「誰が!」
紗和といえば盛大に舌打ちをして前を向いた。
もうすでに一種の名物となっている二人のやりとりに、アーヴィンは笑い、フランは少し呆れを含めた苦笑いをした。そんな二人に乗っかるように、紗和とエドガーもまた笑い出す。
先ほど真剣なやり取りよりも、こうやって軽口を言い合っているほうが全然自分達らしい。確かにこれから必要に応じてはあんな風に少し居心地の良くない雰囲気の中で言葉を交わさなくてはいけないだろう。だが、その後にこうしてまた言い合うことができるなら、仕方がないと目を瞑っておこう。
二人はまさか、お互いが同じようなことを考えているとは思わなかった。
それから数分もしない内に、彼らは書庫に到着した。
二、三度訪れたことはあるが、その時は扉から少し覗いた程度で、ここまでしっかり中に入って中を見渡したのは初めてだ。
部屋すべてを覆うのはもちろん本。
日本の図書館のように本棚が並び、しかしその高さは天井まであった。しかもほとんどが古いもの。
本棚の高さのせいだろう、書庫には踏み台ならぬ踏み梯子があった。これを使って本をとった場合、片手だけで降りなければいけないのかと思うと空恐ろしい。
扉の反対側に位置する壁はガラスの窓になっていて、そこから部屋全体に光が降り注いでいた。
そのため、明かりがなくても今の時間帯はとても明るく、逆に眩しいぐらいである。
「ではお好きなようにお過ごしください。私達もその辺りに居りますから」
「オーケー」
「あ、それと」
何かこの書庫には曰くつきでもあるのだろうか。そう思うほど真剣な表情でエドガーが紗和を見る。それに応えるようにに紗和も心持ち少し身構えた状態で彼を見上げた。
エドガーの笑顔がきらりと光った。
「間違っても本を破ったり、読んでいる途中に眠り込んで涎を垂らしたり、なんてこと、なさらないように」
「………」
「っ!?」
本にはまったくといっていいほど興味のない若者アーヴィンは、エドガーが紗和に注意事項を述べている最中、少しその辺りの探索に出ていた。
あまり書庫に入った記憶がないため、念のため配置と誰か居ないか確認していたのだ。
そんな彼が入り口扉の方に戻ったとき、とても奇妙な光景を目撃した。
エドガーが寒気が走るほどの爽やかな笑顔を貼り付けたまま紗和を見ていただけでも十分奇妙だが、その上、紗和も変な汗が出るようなにこやかな笑顔を浮かべてエドガーを見ていたのだ。
そんな二人の間に挟まれオロオロしているのは青白い顔のフランである。そういえば、この間ベリアに胃痛薬を頼んでいたな、とアーヴィンはぼんやり思い出す。
すべて見ない振りをして背中を翻そうとしたその直後、フランとばっちり目が合った。
「………」
普段は執事のエドガーが側近達を纏める事が多いのだが、時々彼らが感情的になった場合、一番年上のフランがその場を公平な態度を持って収めることがある。
彼らにとって大人な男の存在である彼のここまで弱気な表情は始めて見た。
アーヴィンが知らず知らずの内に唾を飲み込んだところで、紗和が動いた。
「………おほほほ、こんなことをするのもいい加減時間の無駄ですわね。じゃあ、失礼しますよ、ロリコン執事様」
「えぇ、そうしていただけるとこちらとしてもありがたい。年上の方の面倒まで見るほど暇でもないので」
「「………」」
空気に罅が入る音がした。
「……お、お嬢様、とりあえず早く本でも探してくれ。窓際には小さなカウチもあるから、そこで読むといい」
フランが必死にその場を収めようとしているその様子に、アーヴィンはなぜか少し泣けた。