EP.2 『麗人恐怖症』
この作品には軽い流血、殺生などの残酷シーンが含まれます。
「……さま」
「き……いた……」
「……だ………く…り―――」
周りが騒がしい。
紗和は眉を寄せて寝返りを打った。
記憶が正しければ、自分はすでに死んでいる。雨の中、大型トラックに跳ねられてきっと即死。つまり生きていないということ。妖怪と同じ。人間ではない。否、元人間、今幽霊。いや、幽霊ですらないのかもしれない。
ということはだ。
某アニメソングでもあったように、学校も仕事もなにもない。テストも仕事も、心配することは何もないのだ。だったら、どれだけ寝ていようが誰も文句は言わないはず。
言われないはずなのに。
「……おじょう……ま」
「おま……が…」
周りの騒音が、人の声だと認識するのに少しの時間を要した。というか、脳を動かしたくないのに、こうして判別する時点で脳が働き始めている。
紗和自身、眠りから少しずつ覚醒していくのが分かっていた。
―――頼むからもう少しでいい、寝かせてよ。生きていた頃は仕事ばかりで疲れが溜まっているんだから、ここで少しでも安眠を貪っていたいのよ。
もう働くこともなくなるのに、彼女はそんな風に考えていた。
それでも、周りはそれを許さない。
「………もう……二…日だぞ!」
無視できないほど、脳内活動が活発化してきている。
「だから!いつ目を覚ますんだって聞いてんだよ」
一際大きな声が聞こえてた時、紗和は完全に覚醒した。
「う~る~さ~い~!!黙ってくれないかな!?てか、もう少し寝かせてよ!こっちは連日仕事で疲れてるんだから!」
ついに堪忍袋の緒が切れ、紗和は布団から起き上がった。
「鬼○郎だって子供なのに寝てるじゃない!!自由気ままに生きてるじゃないのよ!?確かに人のために尽くしてるかも知んないけど、昼寝とかすっごいしてんじゃん!それが私には許されないってこ……」
もちろん、文句を言うことは忘れない。
文句の内容が少々変な方向へ飛んでしまったが、それでも失礼な奴らの顔を拝んでやろうと視界を開けたところで、紗和は自分の体中から冷や汗が、穴という穴からまるで噴水のごとく噴出したのを感じた。
「……ぎ…」
「お、お嬢様!とうとう、お目覚めになられました……」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
一番近くにいた金髪の少年が嬉しそうに駆け寄ると同時に、紗和は生きていた時でさえ絶対にやらなかったことをした。人生初めて行うことが、まさか人生を終えてしまってからやることになろうとは、誰も予想できていなかったに違いない。
喉が潰れんばかりの叫び声を上げ、これ以上にないほど目を見開き、そして、布団から飛び上がって―――脱兎のごとく、逃げ出したのだ。
「いやぁぁぁぁぁ」
走りながら、紗和の喉は叫び声を上げ続ける。
こんなに声を上げたのは初めてだ。
電車で初めて痴漢に逢った時も、大きな声を出したが、それは彼が痴漢であることを皆に知らせるために言ったもので、こうして切羽詰った悲痛な叫び声ではなかった。
自分にもこんな叫び声を上げる時がくるとは、正直考えていなかった。
しかし、何よりも予想できなかったのは、紗和の今いる状況だ。
―――なに、なんなのあれ!?なんだってあんな綺麗な人間達がっ。
脳内がパニックを起こしている。
驚きすぎて、自分がどこに行っているのかもなにもわからなかった。
長い長い廊下らしき道を、当てもなく走っていると、いつの間にか外に出ていた。
「お嬢様!」
「一体何が!?」
後ろからゾロゾロとやってくる人々。否、付け加える事を忘れていた。「麗しい人々」がやってくる。
そしてそれは、紗和にとっては地獄絵図以外の何者にもならなかった。
「いやぁぁぁ、こないでぇぇぇ」
再び叫び声を上げて外へ出る。
どこか隠れる場所はないかと辺りを見渡したが、そこは庭のようで、木々ぐらいしか生えているものがなかった。
慣れない状況に心臓が激しく叫び声を上げている。後ろからは人々がやってくる。
彼女に残された道は一つしかなかった。
―――こうなったら。
「お、お嬢様!?」
「危険ですっ、今すぐ降りてきてください!!」
正直、紗和としてもどうしてこんな事になっているかわからなかった。
一番大きいと推測した木に手をかけ登っていると、下から人々の慌てる声が聞こえる。しかし下を見ればきっとそれまでだ。
心臓発作か何かで死んでしまう事は確実。
一まず体を落ち着けられそうな大きな枝のところまで到達したところで、紗和は木登りを止めた。
正直なところ、紗和自身まさか自分に木登りが出来るとは思っていなかった。さすがは火事場の馬鹿力。人間やろうと思えばなんとかなるもんである。
「お嬢様~」
「お願いでございますから、降りてきてくださいませ!」
一度下を見て、そして顔を逸らす。
別に彼女は高所恐怖症などではない。
ただ、「麗人恐怖症」なのだ。
だからこそ、初め目を覚ました時、そんな「綺麗な人達」に囲まれていた彼女は逃げ出したのである。彼らを直視してしまったら最後、きっとあの恐ろしい過去を思い出して失神してしまうか、最悪の場合除霊の念仏を呟いてしまうのがオチだ。いや、念仏なんぞ紗和が知るわけがないのだが。
自分が生きていることにほっと安堵した矢先、彼女は先ほどから聞こえていた気になるフレーズを思い起こす。
「………お嬢、様?」
自分は決してそんな風に呼ばれる立場に居たわけではない。ここが死んだ後の世界だとしても、そんな風に呼ばれる謂れはないはずだ。
なんといっても、自分の容姿は平凡という言葉を具体化したようなものなのだし。
まぁ、ありふれた小説の設定のように体が入れ替わり、美少女の姿になってしまったというのなら話は別だが。
「はははは、まさか」
そう乾いた笑いを浮かべたところで、紗和は自分の手が異常に白く、そして小さいことに気がついた。その手は、間違っても自分のものではない。少し日に焼けた女にしては少し大きな本来の手とは似ても似つかない少女の手が目の前にあった。
「………」
―――えぇぇぇぇぇぇ!?
外には出さなかったものの、とりあえず心の中で叫んでみる。
拳をつくっては開くという行動を繰返して、その手が自分の脳と繋がっていることを改めて確認すると、新たな冷や汗が溢れてきた。
手を自分の頬に当てたところで、またしても不自然なことに気がつく。
―――つい今朝方見つけた大きなにきびの感触がない。
その肌は若い人間と同じだ。モチモチとした触感を残しつつスベスベとしているその肌は、間違っても二十八歳で仕事人間の紗和のものではなかった。
とりあえず状況がわからず戸惑う。
交通事故に合った時も、ここまで動揺はしなかった。
再び、下に居る人間が声を上げた。
「今すぐに降りてこなければ、わたくし達が行きますからね!」
「クリスティアナ様、どうぞ素直に降りてきてくださいっ」
『クリスティアナって誰だよ』というある意味一番大切な疑問を脳内に浮かべると同時に紗和の意識は、何かを考える暇すら与えることなく、一気に吹き飛んだ。