EP.25 入浴の習慣
紗和が、屋敷に戻ってまずされたこと。それは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったエイダに力の限り抱きしめられたことである。
「サワさまぁぁぁぁぁぁぁ、よかったぁぁぁぁぁ」
馬車を降りてすぐにエイダに抱きしめられかれこれ十分ほど、エイダは泣き止む気配を見せないでいた。
最初は落ち着きを取り戻させようと頭を撫でたり背中を撫でたり、安心させる言葉をかけていたのだが、それも数分ほど経つとめんどくさくなっていった。ので、もう諦めて自分のためを思って泣く侍女の好きなようにさせている。
側近達も困惑した様子で周りに立つだけで、止めようとはしない。
彼らもエイダの扱いには慣れていないのである。
ここで唯一騒動を止めることのできる人物はあいにく、湯殿の準備でこの場には居なかった。
「エイダちゃ~ん、もう私が無事なのはちゃんと確認したでしょ~?お願いだからもう泣き止んでよ~」
ドレスの肩が彼女の涙でデロデロになっていることは容易に想像できた。
―――ベティ、早く来ないかなぁ。
少し苦手意識を持っている彼女の存在をここまで求める日が来るとは。
果たして、そんな彼女の思いが通じたのか、誰かが素晴らしい足音を響かせながらやってくる気配がした。
「エぇぇぇぇぇ、イぃぃぃぃぃ、ダァァァァァ!」
この怒号は、もしかしなくても、である。
エイダの動きが止まった。
「あなたはまた自分の役目をサボって、一体何をしているのですか!?湯殿の準備に人手が足りないことは先ほど話したでしょう!」
再び鬼の化身と化したベティは、今だ紗和にしがみつくエイダの首元を掴むと、自分より少しだけ身長のあるエイダを問答無用で引きずり始めた。
「お嬢様、御見苦しいところとお見せいたしました」
「サワさまぁぁぁぁ、またあとでぇぇぇぇ」
「おー」
ベティに引きづられるエイダは、笑っているのか泣いているのは分からない表情で紗和にそう伝えると、そのままベティと共に屋敷の中に姿を消したのだった。
「ほんと、エイダちゃんって、日ごとにどんどん濃いキャラになっていってる」
最初は女子高生のようだと思っていたが、最近は更に酷くなっているに思う。もう彼女を何かに分類することを止めた。
「でも、エイダと居るときのサワ様はとても生き生きなさっていますよ?」
まるで面白いものを見たかのように笑うアーヴィンに紗和も笑って返す。
「まぁ、楽しいからねぇ」
日本に置いてきた幼馴染も色々な意味で濃いキャラではあったが、そういう類の人間は決して嫌いではない。常識に囚われすぎた人間なんかよりも遥かに自分を楽しませてくれると思うからだ。
自分がそうなりたいとは思わないものの。
「なんだアーヴィン、いつの間に呼び方変えたんだ?」
お嬢様の事をごく自然に『サワ様』と呼んだ同僚に気づいたフランが声をかける。するとアーヴィンはなにやら頬を赤く染めて紗和から顔を逸らした。
「………ん?」
なにやら乙女な漫画で見ることのできそうなその行動に紗和の目が点になったのは言うまでもない。
「さ、サワ様がせっかくご自信の苦手なものを克服して俺の事を見てくれたんです。俺も、これからはきちんと『サワ』様を向き合っていきたいと思ったものですから」
「ふ~ん」
頭の後ろで腕を組むコリンが大して興味も無さそうに適当な相槌を打った。
「良い心がけですね」
チェスターも両手を合わせて笑う。
アーヴィンが心を入れ替えてくれたのは嬉しいが、どう答えていいのか分からない紗和は、とりあえず無言を通すことでこの話題と離れることにした。
確かに、自分を紗和としてみてくれるのは嬉しい。
なのに。
―――なんで、こんなに、胸騒ぎがするんだろう。
ベリアに案内されて、体を清めることになった紗和は、いつも使う見慣れた浴場に向かった。
最初、お風呂と聞かされた時は、大きな大浴場を思い浮かべたものだが、実際はとても違っていてその場に棒立ちになってしまったのは一ヶ月以上も前の話である。
昔から日本史を好んで読んでいた紗和は、当然ヨーロッパの歴史についてはまったく無知だった。それでも、小説や映画で見るものとそれなりに似通っているのだろうと甘く見ていたのがまずかったらしい。
あそこにある優雅さはまったく皆無であったのだから。
そもそも、彼らには『入浴』といった習慣があまりなかったようである。
あっても三日に一度や四日に一度の程度。酷いときは一週間に一度ということもあるらしい。紗和は一瞬気を失いそうになった。しかも体の匂いは香水で消すのだという。
それをエイダに言われたとき、紗和は彼女に向かっていかに入浴が大切であるかを小一時間ただひたすらに語ったものだ。
最初は大人しく聞いていたエイダも、途中何度か口を挟んでは紗和を諭すようにこの時代の状況を説明する。
そして紗和も納得した。
確かに、この時代の作業はすべて手動で行われる。電気さえもない時代なのだから、紗和のいう大きな浴場にお湯を溜めるというのは少々無理があるだろう。
それをするとなると、人々は何度も水場に足を運んでは湯を沸かし、それを浴場に入れるという作業を永遠としなくてはならないのだ。
それに、この時代の人々は入浴することに抵抗を感じている風でもあった。そこから悪い伝染病が流行ったと信じられているらしい。それについては紗和も言葉の返しようがなかった。彼女はもちろんそのような話を信じようとは思わないが、それでもこの時代ではまた違った視点から物事を捉える。
当然見方が違うのは当たり前の話。
だが、そんなこと、紗和の知ったことではない。
さすがに使用人達に無茶はしてほしくないので、風呂を使うのは二日に一度という決まりになった。三日に一度はさすがにきつい。
余談だが、クリスティアナの側近達は美麗な見目の通りマメな方で、夏は二日に一回、冬は三日に一回の回数で風呂を使うらしい。彼らは元々匂わない体質の上に汗もそんなに出ないという。それを聞いたとき、紗和は軽く殺気立った。
いざお風呂に入るとなったところで再び驚いたのが、風呂場の造りである。
この国の人は、湯に浸かるより、シャワーのように湯を上から浴びることを主流としていた。
一つの天幕のついた大して大きくない桶の中で、すべてが行われた。木棺の中央に立っている、紗和より幾分か高い位置にある噴水のような形をしたところにお湯を入れ、その穴から流れ出る暖かい湯を浴びるのだ。それはすべて手動であるのがまた紗和の涙を誘った。
自分が風呂に入る間、世話をしてくれる女中達がせっせとお湯の入った樽を、上の噴水口に入れる様を見ていると、まったく風呂に入った気がしない。一度は我慢ならず、自分でやると申し出たのだが、ものすごい勢いで断られてからはどうにか堪えるようになった。
しかもその作業がどこかバケツリレーを連想させるものだから時々噴出さずには居られなかった。涙と笑い、どちらも提供してくれるのがこの世界のお風呂の時間だ。
四人の侍女がお湯の担当をし、一人が紗和の体を洗ってくれる。
これについてもまた、最初はそれなりに揉めた。
彼女は紗和の体を洗うと言い張り、紗和はどうにかしてその意見を却下しようと勤めた。結局、紗和が自分で体を洗う間もう一人がクリスティアナの長い髪を洗う、ということでこの戦いは終わった。それにこちらの方が時間短縮にもなるし水を無駄にしないですむ。
使わずに済んだお湯は他の人間に回すよう、紗和は元より言っておいたのだ。
こんなことを考える辺り、自分はやはりケチな日本人の象徴なのかとため息も出たが、それでも環境のためだと思うとため息も引っ込むというもの。
紗和の入浴の手伝いをしてくれる六人の侍女達は、エイダと同じように、早くから『サワ』のことを認識していた。彼女達のいう『お嬢様』の単語は、クリスティアナではなく紗和に向けられており、彼女が多少変な行動をとったとしても笑って受け止めてくれる。
それもこれもすべて、最初に果てしない言い合いをした紗和を見ていたことと、どうにかして使う水の量を減らそうと頭を悩ましていた彼女を見守っていたことが関係するのだろう。
入浴が終わり椅子に座って侍女の一人に髪を拭いてもらっていた紗和は、ベリアがそこに居たことに、ようやくその時になって気がついた。
もちろん、内容はなんとなくわかってはいる。