EP.23 アーヴィン
「聖女とどんな関係があるの?」
確かに彼女は特別な存在なのだろう。しかし、なにがどう特別なのか、紗和はいまひとつわかっていなかった。
「お嬢様はさ、聖女だろ?聖女っていうのは、この世で唯一四つの聖霊のすべての加護を受け入れることができる選ばれた存在なんだ」
コリンがまるで自分の事のように自慢げに言うものだから、思わず紗和は笑っていた。
本当に彼はクリスティアナが好きなのだ。
「ふぅ~ん、すごいねぇ」
正直、聖霊の話や守護の話をされても、紗和にはいまいちピンとこない。
元々彼女自身そんなに信仰のある人間ではなかったし、ファンタジーなどにもそんなに興味はなかったからだ。確かに、そういうことを思いつく人はすごいと思うし、ドラゴンや天使はかっこいいと思う。
ただ、腐れ縁の幼馴染はいつもいつもその大きくも小さくもない瞳を子供のようにキラキラ輝かせて、ファンタジーというものがいかに二次創作を盛り上げるかを力説していた。まぁ、紗和はいつものようにまったく聞いていなかったけれど。それでも聞いているか聞いていないかはその幼馴染にとってはどうでも良いらしかった。大切なのはどれだけ彼女自身が熱を上げて話せるかということで。
―――あの子がよく繰り返してた単語っていえば………。
まさか異世界に来て、家族よりもあの幼馴染の事を思い出す方が多くなるとは思ってもいなかった。
「魔法使い?……騎士、王子、王様、貴族の息子………天使、化け物………んーと、後は」
「何を呟かれているんです?」
頭を捻りながらぶつぶつ呟き始めた紗和を見てエドガーは聞いた。すると彼女はすぐにはっと我に返ったような表情で忘れてくれとでもいうように笑う。
エドガーも深くは検索しない。クリスティアナに関わるようなことでなければ、彼の興味を引くものはほとんどなかった。
九時課の鐘が鳴り始めた頃には、紗和の一行はすでに帰途についていた。
川を眺めることに夢中になっていた紗和が異変に気がついたのは、後ろの方から何かがなぎ倒される鋭い音をその耳で聞いてからだった。
「まずい!フラン達の馬車がジハング達に襲われている!」
ベリアの切羽詰った声と共に紗和達の乗る馬車が速度を上げた。
「な、なに!?」
急に重い緊張が漂い始め、ただでさえ上下に揺れ動く馬車が速度を増したことで左右にまで揺れ始める。まだ状況のわかっていないのは紗和で、条件反射のように抱え込まれたチェスターの腕の中で目を白黒させながら彼を見上げた。
普段からとても女性っぽい彼でも、きちんと男なのだと認識せざるを得ない広いしっかりとした胸板。
しかし注目するところはそこではない。
「だ、だが、この辺りにはジハングはいないはずだろ!?この数十年そんな報告一度も聞いたことがないぞ!」
「私が知るわけがないだろうっ」
「………」
焦りの声をあげたアーヴィンにべリアの一喝が飛ぶ。
その時、馬車の天井が軋み声を上げた。まるで重い何かを置いたようなその軋み具合に、馬車の中に居た四人は息を詰める。
「チェスター、いけるか」
「えぇ」
「へ?」
細身の剣を構えるベリアの言葉にチェスターが答えた。
彼は紗和を抱きか抱えたまま拳を作り、上を見上げている。
「アーヴィ……」
ベリアの言葉が不自然に途切れる。
不思議に思ってそちらに顔を向ければ、口を一線に結び銃を持つアーヴィンが居た。その姿は敵を迎え撃つにはどこか違和感のある格好で。
「………」
その彼らしくない行動に瞠目していた紗和は、けれど少し思い当たることがあったので、それ以上は何も言わずチェスターの服を握った。
―――大丈夫、なにがあっても彼らが守ってくれる。『私』は今、『お嬢様』で、彼らはそのお嬢様の騎士達なんだから。
「アーヴィン!」
「!?」
ベリアの叱咤する声が聞こえる。
それと比例するように馬車が異常なほど左右に揺れた。まるで何者かに揺さぶられているようだ。
「あ、エドガー!エドガーは!?」
馬車の外に居るであろう人の存在を思い出して、チェスターの腕から少し身を乗り出した。
まるでその時を待っていたかのような、その瞬間。
「あっ!」
「お、おじょうさ……っ」
なぜ、先ほどまで胸だけしか見えなかったチェスターが、こんなにもはっきりと全体的に見えるのだろうか。その隣に居るベリアの仮面も、アーヴィンの姿もきちんと捉えることができる。
それだけではない。
自分の乗っていたはずの馬車の全体像もその上に群がる大きな黒い狼のような生き物の姿も、馬車の操縦席で剣を振るっているエドガーの姿さえ見ることができた。
「……っ」
そこでようやく、自分が馬車から投げ出されたということを理解した。
大きく風を受ける体。速度があったためか、クリスティアナの小さな体は地面に衝突することはなかった。その代わり、風の流れに沿うように浮いたその体はどんどん地面から離れていく。
通常ではありえない角度から見える側近達の姿。
―――そういえば、あの時も、こんな風に体が跳ね上がったんだっけ。
思い起こされるのは事故にあった雨の日の事。
宙に浮いた体は、いつか地上に戻される。
あの日の紗和は、運悪く硬いコンクリートの上に叩きつけられてしまった。だから、即死だったのだ。すべて、運が悪かったせい。
しかし今回はまだ助かる道があった。
先ほどまで自分が川を眺めていたこと、そして自分の今の位置と投げ出される瞬間の位置を思い出して、一つの勝機を見出した。
―――私は、この体を預かってる身。この体を傷つけることだけは、あってはならない。
何かを叫びこちらに向かってくる側近や護衛達。
それでもあの変な狼に邪魔をされて、きっと『クリスティアナ』を受け止めることはできないだろう。
ならば、『紗和』がどうにかするしかないのだ。
「くっ」
一か八かの賭けだった。
体が落下し始める直前、紗和は思い切り体を捻り、地面から仰向けの状態で放り出されたその体をうつ伏せにした。
次に目に飛び込んできたのは増量した流れの速い大きな川。
側近達が驚く中、紗和は自分自身の決断を行動に移した。
一度大きく深呼吸をして空気をその肺に溜め込んだ彼女は、躊躇いなくその川の中に飛び込んだのだ。
勢い良く落とされた水の中で、紗和はもがく様に腕を動かす。
なるべく酸素を無駄にしないように、最大まで息を止める。
最初は目を開けることはできず、ただ無我夢中で腕を動かした。
途中、ドレスが水を吸い込んで重くなっていくことに気づき、背中のファスナーに手をやった。しかし所詮体は十三の少女。
腕は届かず、ドレスの重みに敵うことはなかった。
それでも紗和はあきらめなかった。
だてに水泳を十年以上してきたわけではない。
確かに少し焦ってはいたが、冷静に物事を考えるだけの余裕は微かに残っていた。
水の中で目を開き、自分のドレスを確認する。
ドレスの裾を手で掴み、思い切り引き裂いた。一度では引き裂くことのできなかった裾でも、二度三度と繰り返している内に少しずつ解れが生まれた。
その引き裂かれた部分を更に引き裂き続け、どうにか胸の部分まで引き裂くことができた。首元まで二つに引き裂いたドレスを脱ぎ捨て、一目散に水面を目指す。
それでも、ここまでくるまでにかなりの労力を使ってしまったことは紛れもない事実で。
しかも、連日の雨のせいで流れの激しくなっている川は、無常にも十三歳の少女の体を水面に上げることをよしとはしなかった。
見ていた時はあんなに美しくかったはずの川が、一瞬にして恐怖を覚えるそれに変わる。
―――後少し……後、少しなのよっ。
とその時、何かが紗和の背中に辺り、そのまま一度大きく彼女の体を押し上げた。
そして、押し上げられた紗和の手を掴んだ大きな人の手。
「お嬢様!」
水面から顔を出して、最初に見たその人物の顔に、紗和は思わず目を瞬かせた。
「………アー、ヴィン、」
彼の名前を呼ぶと同時に、大きくむせ返る。知らず知らずの内に、大量に水を飲み込んでいたよう だ。体が水と引き換えに酸素を欲している。
咳きの止まらない紗和の体を抱え、アーヴィンは岸を目指した。
紗和があれほど恐怖を感じたその川も、無我夢中で進む成人男性のアーヴィンには大した障害にはなりはしなかった。
岸に向かう最中、彼の被っていた仮面が落ちるも、それに構っている余裕さえなく。
「お嬢様、お嬢様大丈夫ですか!」
地面に横たえられ、体を揺す振られる。
酸素が足りず白くぼやけていた彼女の視界が、少しずつ鮮明さを取り戻していった。
そして見えた、一人の青年の顔。
先日見たエドガーよりも鋭さのある赤茶瞳に、きりっと引き締まった眉。そして薄い唇に高い鼻。男らしい顔つきでいながら、エドガーよりもまだ幼さの残る顔と瞳にかかる長い前髪、そして襟足までの長さの茶髪を持つの青年は、せっかくの男前の顔を心配の表情で歪ませている。
「だ、大丈夫」
紗和はとりあえず微笑んでみた。
すると青年は少し安心したように瞳の色を緩めた。
―――こんなに素直に表情を出せる人だったんだ、彼は。
「ありがとね」
この人は、川が、というより水が苦手なのだと少し思っていた。
「わざわざ、嫌いな水の中に、飛び込んで、きて、くれて」
紗和がそういうと、一度驚いたように目を見開いたアーヴィンは次にはその男前の顔を再びくしゃくしゃに歪めて、己の前に横たわる少女を見た。
「サワ、様」
「勇気、だ」
紗和はアーヴィンの頬に触れた。
そこで彼は自分が仮面を被っていないことに気づき慌てる。しかし紗和は焦った様子もなくただ自分をやさしい表情で見つめてくる。
「大丈夫、勇気、見つけたから」
そう言って彼女はにっこりと笑った。
『それで、その克服の糸口として、顔以外のものに目をむければいいのではないか?、という提案をしたのです。いいですか、人間顔だけではないのですよ』
アーヴィンの脳裏に蘇ったのはエイダの言葉で。
彼は泣き笑いにも似た笑顔で、自分の頬に触れる紗和の手を握った。
「サワ様」
そしてもう一度、大切に、彼女の名前を呼んだ。