EP.10 十日目
その日は、朝から何かがいつもと違っていた。
普段なら少しでも視界に日の光が入るだけでその眩しさに閉口していたはずなのに、その日はそれがなかった。気だるさもなく、いつになく爽快な目覚めだった。
上半身だけを起こした状態で、紗和は、じっと自分の手の平を見つめる。
何か、尊いものに受け入れられたような、そんな洗礼された気持ちになって、胸が痛いほどに締め付けられて。
遠くで時間を告げる鐘の音が聞こえてきた。
突然、ひどく風に当たりたい気持ちになった紗和は、静かにベッドから降りると夜着のままベランダに出た。朝の空気を含んだ風が紗和を包み込む。
朝露の匂い、朝日の色、人々の起き出す気配。そのすべてが風と共に紗和の元へ飛び込んできた。もう一度、緩やかな風が舞い込む。
それと同時にクリスティアナの青銀の長い髪が舞い上がる。
冷たく透き通った水を飲み干したときのような、潤いを持った何かが彼女の体に溶け込んでいく。
この幼い少女の体に。クリスティアナという少女の存在の一部に、溶け込むことが出来たんだと実感できた。
「お嬢様~、そろそろ起床のお時間で……」
エイダはいつものような明るい声音で部屋の扉に呼びかけ部屋をのぞく。
しかし、彼女の捜し求める人物はベッドの上には居らず、代わりに部屋の中にある大きなカーテンが朝の風を受けて翻っていた。
「お嬢様」
「おはよう」
エイダは探していた人物の名を呼ぶ。
カーテンの翻りと共に視界に入り込む一人の少女の姿。
その人はいつもとは少し違う笑みをその顔に浮かべてエイダを振り返った。何かが変わったのだと、彼女は唐突に感じた。
ここ数日、大半の時間を共有してきた彼女にはわかる変化。
幼い少女の姿に、なぜか、大人の黒髪の女性の姿が重なったように見えた。
「サワ、様」
「……」
エイダの呼びかけに、紗和は驚いたように目を見開いて、そして泣き笑いにも似た表情をした。
―――あぁ、そうだ。自分は「紗和」だった。この体は自分のものじゃない。
「うん、そう、私、サワだった」
もう少しで、忘れてしまうところだった。この洗礼された気配に飲み込まれてしまうところだった。
「ねぇエイダ、これからも、私のことはサワって呼んでもらえないかな」
じゃなければ、きっと私は私を忘れてしまう。
そんな紗和の声を感じ取ったエイダはしっかり頷いた。
「もちろん、そんなことお安い御用ですよ、サワ様!!」
「ありがとう」
礼の言葉を言って、紗和はもう一度ベランダの外に顔を向ける。
そこに広がる景色はいつも以上に近くに見えた。
「私、なんか、ようやくこの世界をちゃんと見た気がするよ」
「え?」
「これから、もっとよく知っていきたいな。……私の時間が許す限り」
そう言って穏やかに笑う少女は、一回りも年上の女性のような笑顔だった。幼さの抜けきった、ただただ穏やかさだけが残る表情。
エイダはこのとき、初めて紗和という人間をきちんと垣間見たと思った。
ようやくこの新しい世界に受け入れられたのだと実感したとき、紗和はようやく自分の居る国と、そしてその世界を知ることになった。
今彼女が居る国の名前は『ギィリス』そしてこの国の地図を見せてもらって驚いたこと。それは、世界の形が日本で見た世界地図を大差がなかったこと。
その日から、紗和はもう、この世界が夢であると思うことも夢であってほしいと思い込むこともやめた。