芽生え
――午後の講義を終えた俺は、調べもののために学院の図書館へ立ち寄る。中立都市やAIについての研究本。貸し出し不可ではあるが、許可を取れば人間側の候補生なら閲覧出来る電子書籍。
AIと人間の歴史や、候補生の本人確認で閲覧出来る自身の家系図など。蔵書が豊富なこの図書館は、学院の候補生たちならば、自由に使えるよう解放されている。相変わらずの蔵書の数に図書館を見回して、俺は本の位置を調べる端末に近付いた。
ふと視線を送った端末の向こう側。そこには、先ほどとは打って変わって、機嫌の良さそうな未来が植物研究学の本を開いていた。未来が前から興味を持っていたイリスの花について書かれている、写真も豊富な書籍だ。イリスの花のページの隣は、アネモネについて記してあるページだ。
「未来? イリスの花か?」
「あ! 怜士。さっきはありがと。うん。明日新月だから、イリスの発光を見に行こうと思って」
人間とAIの共存を掲げたこの都市の象徴的なイリスの花。新月に光るというその花は、確かに美しい花らしいが、同種同士でないと繁殖を出来ないという特徴を持つ。
「ああ。折角この中立都市に来たんだしな。共存の象徴の花を確認するのもいいと思うぞ。俺が連れて行ってやろうか? 治安がいいって言っても、女性の一人歩きは危険だろう? いくらお前でもな」
「もう! いっつも一言多いって。私に失礼でしょ? でも、大丈夫。明日はあの子と見に行くんだ」
未来の言葉に、俺の思考が止まる。未来は、候補生としてあるまじき、政府のグレーゾーンへ踏み込もうとしているんじゃないだろうか。
「未来。お前本当に分かってるのか? お前とアイツの距離感、候補生としておかしいぞ?」
「怜士。大げさだって! 私はちゃんと分かってるから大丈夫だよ。それじゃあ怜士。またね」
未来とP-0009Mの距離が、無自覚に縮まっている。このままじゃ未来はここにいられなくなってしまうかもしれない。そんな焦りが俺の中へ湧き上がる。
「楽しみだな。イリスの花。どんなふうに光るんだろ」
本を閉じて立ち上がり、図書館を出ようとする未来の足取りは軽く、声まで弾んでいる。俺には見せたことのない笑顔さえも浮かべて。
(まるでデートみたいじゃないか……)
黒い感情が頭をもたげて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまうような錯覚を覚える。俺は未来の背中を睨みつけていた。
「未来っ!」
まただ。俺の声は届かない。伸ばし掛けた腕はその場に留まり、無意識に指先を強く握り込む。白くなった指先を俺は解けない。
(確かめる必要がある……俺たちは政府の候補生だ。AIとの特別な関係など、認められていいはずがない。俺は未来を守らないといけない……アイツも候補生なんだから……)
『――AIと人間の信頼関係なんて成立しないわよ。高祖父はそれで不幸になったんだから、私たちは間違った歴史を繰り返すべきではないわね』
俺の親族間で語り継がれてきたAIとの間違った関係の話が、こんな時に頭を過った。俺は未来を不幸にするわけにはいかない。今まで感じたことのない、暗く揺らぐ強い感情。冷静になれない俺の頭では、それが俺の本心なのか、もう判断が出来なかった――。
――新月の夜、私たちは約束通りイリスの発光現象を観察しに来た。辺りは闇に包まれ、足元すらおぼつかない。私は、子どもの頃に戻ったようなわくわく感を感じていた。彼が隣にいるこの瞬間が、内緒でこっそり宿舎を抜け出したこの時間が、私の心の中の好奇心をより刺激している気がする。AIの彼と二人きりの小さな冒険だった。
私は、認証AIにカードをかざして温室に入る。まだ発光は始まっておらず、初夏の熱を残した温室の中は少しだけ蒸し暑い。目の前には静かに白い花を咲かせたイリスの花壇が広がっている。
「間に合ったか」
彼が呟き、時計を確認する。その声に促されて、私は彼の隣に並んだ。これから始まるであろう特別なレイトショーに、胸の高鳴りを抑えきれない。
「3、2、1……」
彼と一緒のカウントダウンが終わると同時に、温室の人工照明が落とされる。静寂の中、真っ暗になった天井を見上げた私の足がそっと触れたイリス。それを合図にして、淡く光を灯し、その光を繋ぐように、花びら同士が触れ合った先へと静かに青い光が広がっていく。まるで星が夜空に瞬くかのように、温室の中は優しく揺らめく青い輝きに包まれた。
「わあ……綺麗……」
感動して潤む私の瞳。イリスの花壇にしゃがみ込んで両手を合わせた私は、夢見心地で呟いた。そんな私の横顔を見ていた彼が、ポツリと零す。
「……綺麗だ」
「そうだよね! すっごく綺麗!」
私は弾む気持ちのままに彼を見上げる。その瞬間、息を飲んだ彼と目が合った。私と視線がぶつかった彼は、ひどく戸惑いながら瞳を逸らし、自分の口元を押さえている。彼の頬へ極僅かな朱色が滲んでいる気がする。一緒に花を見ていれば、彼と私の視線がぶつかってしまうことはないような――?
(……もしかして? でも、まさか、ね!)
AIのはずの彼の反応に一瞬過った淡い期待。私は慌てて自分の中で否定して、けれど大きく鳴った鼓動の音に首を傾げながら、改めて彼へと問い返していた。
「……い、イリスだよね?」
「……ッ……あ、ああ。綺麗だな。この花はどうして青く発光するんだ?」
「そうだね。仲間を見つけるため、かな?」
私と、珍しく言葉に詰まってしまった彼の間に、どこか甘くて細やかな沈黙が落ちる。彼の答えがなんだか少し残念なような、そんな気持ちも含んで。言葉には出来ないけれど、何かが私の心の柔らかな部分に触れて、大きく揺れた。
「そ、そうだ! 私の名前覚えてる?」
「如月未来だろう?」
気恥ずかしい沈黙に耐えられなくなってしまった私は、強引に話題を変える。彼と温室で再会した時に少しだけ触れた彼の名前の話題。私の唐突な話題転換に、彼は一瞬面食らったように瞬いていたけど。
「うん! どうして今フルネームなのかちょっと分からないけど、名前って、呼ばれるととっても嬉しいんだ。ねえ、君の名前は?」
「俺は、P-0009Mだ。お前も知っているはずだろう? デモンストレーションの後、お前と会ったのはここだった。だから、その時お前に教えて貰った名前を言った。俺が覚えているとお前が嬉しいと言っていたから……何かおかしかったか?」
彼の返答に、私の胸の音が、更に温度と速度を増した気がする。私の頬が熱を帯びて、なんだか叫び出したい気持ちになってしまう。
「う、ううんっ! そ、そうじゃなくて! 君の愛称とかさ。折角友達になれたんだから、そういうのがあったらやっぱり呼んでみたいなって思って」
「俺はP-0009Mだ。その情報だけで充分だろう? そもそも俺に通称は実装されていない。俺はまだ、作られて数年しか経ってない試験運用型だしな」
もっと親しくなりたいと提案してみたが、私のこの気持ちに、彼の理解はまだ追い付いてはいないようだった。それならば——。
「私が君に名前を付けてもいい?」
「識別番号の変更には政府の許可が必要だろう? 通称の必要性を……」
「違うよっ! そうじゃないの! “私が”君の名前を呼びたいの」
再会後の温室と同じ、彼の名前に対する反応。AIの彼には普通なのかもしれない。だけど私には、その反応が寂しく感じた。彼の言葉に被せるように私が食い下がると、彼は、一瞬戸惑った風に私を見つめた。
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