看病バッティング
スマホの起床アラームがけたたましく鳴る。私はいつものように手を伸ばしてアラームを止めようとするが、指先に力が入らない。取り落としたスマホが私の額に当たった。上手く呼吸が出来ず、身体が動かない。
(……息……苦しいよ……助けて……怜、士)
私の意識はそのまま、深い微睡の中へと捕らわれてしまった。
――どれくらいそうしていたのか、私がぼんやりと重い瞼を開くと、額に当たる冷たい手の感触と人影。まだすっきりとしない視界では、その人影を認識できない。
「怜、士……?」
「未来。目が覚めたんだな? どうだ? 何か食べられそうか?」
その人影の後方から、おかゆらしきものの載ったトレーを持つ怜士の声が遠くから聞こえて、私の意識が少しずつはっきりして来る。頭は重いが、さっきよりも呼吸は随分と楽になっていた。
私の意識が徐々に覚醒してくるのと同時に、目の前の人影に焦点が合う。私の目の前の人影は怜士ではなく、AIの彼が私の額へ熱冷まし用のシートを貼ってくれているところだった。
「え? なんで君が?」
「……俺は怜士じゃない。お前が夏風邪で倒れたと怜士に聞いた。先生がいないと困る。だから“俺が”看病する」
私が驚いて声を上げる。AIの彼の声音と表情が、極僅か。やや不服そうに私を見据えていた。
「ああ。実はな……」
――俺達候補生は時間厳守が当たり前だ。それを逸脱することは許されない。俺が講義の15分前。講義室のいつもの席へと座ると、いつもならとっくに来ている未来の姿が見当たらなかった。
(未来がこの時間に来ていないのは珍しいな)
未来は要領が悪いからと、他の候補生達の集まる30分前にはいつも講義室に座っていて、授業の準備をしている。そんな未来が今日はいない。俺は白衣のポケットのスマホの振動に気が付いて画面に視線を落とす。
『未来:れ、いじ。たすけ……』
全部ひらがなの途切れた文章。その文面から未来に何かあったのだと分かった。気が付いたら未来の部屋の前へと辿り着いていた。
――コンコン!
ノックをするが、未来の返事はない。俺の中に焦りが湧いて、俺は未来の部屋の扉を押し開けた。意外にもあっさりと開いてしまう扉。いつもなら鍵が掛かっているはずだ。
「未来っ!」
部屋に入ると、ベッドの上でぐったりとしている未来。いつもなら未来が抱いて寝ている古いクマのぬいぐるみが棚から落ちていて、未来のスマホが未来の顔の横に転がっている。俺の背筋が冷える。慌てて未来を抱き上げると、酷く熱い。呼吸も苦しそうだ。
「おい、未来っ! 未来っ!」
俺が呼んでも反応しない。未来の額に小さな赤い痣。もしかしたら取ろうとしたスマホが未来の額に落ちたのかもしれない。画面を見ると、俺へメッセージを送信した画面で止まっていた。
教授への連絡も出来ていなさそうだった。俺は未来の代わりにタブレット内のAIへ事情を説明し、未来の欠席の手続きをしようとタブレットを起動させた。
(……未来の。やたら行動履歴が詳細過ぎないか? 学院から既に監視されてるんじゃないだろうな)
俺のページと比べ、未来の行動履歴やAIとの接触履歴がやたらと詳細に記してある。俺は違和感を感じたものの、苦しそうに寝返りを打つ未来に気が付いて、以前看病した時に教えて貰った部屋の薬箱から体温計を取り出して彼女の熱を測る。俺は息を飲んだ。
「……40.1度!? こんなになるまで何してたんだ! もっと早く言えっ! ッ……いや、俺が先に気付いてやれば良かったんだな……取り敢えず医務室経由で病院の受診をさせて……薬も要るな」
(後悔しても今更だ。それよりも、早くコイツを助けてやらないと……)
俺は未来を背負い、医務室へ連れて行く。医務室に学院専属の医者が来て、無事に未来を診察して貰えた。未来の部屋のベッドに寝かせて、まだ意識の朦朧としている未来へと薬を飲ませる。しばらくすると、少しだけ未来の呼吸も落ち着いて来る。
「……ったく。なにやってんだ馬鹿。心臓が止まるかと思ったじゃないか」
少しだけホッとして、呼吸の落ち着いた未来を見つめる。洋服のままベッドに転がっていた未来。そういえば昨日は月一限定のパンケーキを買いに行くとうきうきでショッピング街へと出掛けていたはずだ。あの日は午後から土砂降りだったのを思い出す。
(傘。忘れて行ってたんじゃないだろうな? 俺が持って行けと言った気がするが、未来は慌てて出て行った)
改めて未来を見る。俺たちは幼い頃からこの学院で一緒に過ごしている。艶やかな黒髪で色白。少し大きめの未来の瞳は、日本人には珍しい藤色だ。女性らしく、華奢で線は細いのに、時々大胆で危なっかしい。俺のコイツへの想いが変化していったのとは対照的に、未来は変わらずあの日のままで俺に接して来る。
(また綺麗になったな……)
思わず伸ばしてしまった手で、未来の額へとそっと触れた。まだ熱い。兄のような感覚で未来に頼って貰えるのは嬉しいが、時折それが、俺にとってどんなに酷なことなのか、コイツは微塵も気が付いてはいない。
「……俺の前でそんな無防備な恰好しやがって。あんまり無自覚だと、いつか襲うぞ……?」
俺はボソリと呟いて、未来の鼻を軽く摘まむ。溜息を吐いて腕時計を見遣った。今ならまだ、午前の最終講義には間に合う。俺は一旦、眠り込んでいる未来の部屋を出て、講義室へと戻った。
午前の講義を終えて、カフェテラスを通り掛かると、いつもの未来の席の前にP-0009Mが未来を待っていた。俺は一瞬通り過ぎようとしたが、極軽く舌打ちをして、P-0009Mへと声を掛ける。
「おい。未来を待っているのなら今日は来ないぞ」
「何故だ?」
「夏風邪だ。今日未来は熱を出して講義を休んだ。今も部屋で寝ているんだ。熱が下がらないからな。今から俺が看病に戻る」
「俺も行く」
どうして俺は親切にP-0009Mに未来の状態を伝えているのか。だが、黙っておくのはなんだか未来に後ろめたくて、俺はコイツに話し掛けていた。
「お前も? AIに看病なんて出来ないだろう?」
「データはある。俺も行く」
「人間の看病はデータじゃない。お前には無理だ。大人しくあっちの学部で勉強をしていろ」
「嫌だ」
きっぱりと言い放つP-0009Mの反応に俺は眉を顰めて、苛立ちを覚えていた。俺が歩を進めると、P-0009Mは、距離を詰めて付いて来る。俺が止まると止まり、歩き出すとまた歩いて付いて来る。
(鳥の雛みたいなヤツだな……)
どうやっても引き剥がせそうになく、俺は渋々、未来の部屋へコイツを伴って再度訪ねた。
――怜士の説明に、私は思わず頬を緩め、AIの彼を見る。
「そっか。ありがとう。ケホケホッ」
「……だから連れて来たくなかったんだ」
怜士の呟きに瞬いて彼を見るが、怜士は誤魔化すように咳払いをした。
「未来。おかゆだ。食べられそうなら食べてくれ。少しでも体力を回復しないと治りも遅くなるからな。なんなら俺が食べさせてやろうか? 昔みたいに」
私の前にトレーを置いて少し意地悪そうに微笑む怜士。冗談めかすその表情は昔のまま変わらず、優しい色を含んでいる。
「……食べさせる?」
怜士の言葉に反応したAIの彼が、トレーのスプーンを取って、ふうふうと息を吹きかけて私の口元におかゆを差し出して来る。
「あ~ん。っと言うのだろう?」
「だ、大丈夫! 自分で食べれるからっ!」
私は慌てて首を振り、AIの彼からスプーンごと受け取って口へと運んだ。ほのかに塩味の効いた優しい味は、孤児院出身の私にとって怜士の味だ。
「美味しい……久しぶりに作って貰ったかも……」
思わず頬を緩める私の表情を怜士はホッとしたように、AIの彼は観察するようにジッと見つめて来る。二人の視線が落ち着かなくて、私はもう一度おかゆを口へと運んだ。
「未来。何か出来ることはあるか? “俺に”言ってくれ」
おかゆを私に食べさせようとしてくれたAIの彼との距離は近かったが、彼が更に私へと距離を詰めてくることで、私は困ったように眉根を寄せた。
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