イリスの咲く場所
自分の首筋に左手を添えて、居心地が悪そうに視線を逸らして彷徨わせる。けれど、イリスの花の淡い青に照らされた彼の頬が、確かに紅く染まっているのを今度ははっきりと確認出来た。
「……分かった」
私は考える。彼の表情を淡い青で照らし続けるイリスの花が目に留まった。作られたものであるが故の怖いほどに整った容姿。ガラス細工のように澄んだ淡いブルーの瞳には、好奇心に満ちた光が宿っている。あの再会の日と同じように。
「イリス……ってどう?」
「それは、この花の名前だろう?」
「そうだけど、そうじゃないの。イリスには『希望』や『信頼』っていう花言葉があるの。君は不思議なAIだけど、私にとっては特別だから……だから、君の名前にどうかなって?」
私の言葉と名付けた名前に、彼の瞳が微かに揺れる。私は彼への擽ったい気持ちのままに微笑んでいた。
「イリス……?」
「うん。イリス」
彼はふと胸元へ手をおいて立ち尽くす。再確認をするかのように問い返す彼へ、私は、彼への名前を肯定するように反芻した。
「……あれ? ごめん。嫌だった?」
AIらしからぬ彼の、いつもとは明らかに違う反応速度。私は不安になって、彼の表情を窺いながら尋ねる。私の言葉に彼はゆっくりと首を横に振った。
「違う……そうじゃない。何故だか分からないが、ここが……あたたかくなった気がするんだ」
彼は自分の胸を押さえたまま、私が見ても分かるくらいに困惑している。AIに、そんな感覚はあるのだろうか。けれど、私は、あって欲しいと思っていた。静かに震える私の心は、この感情の意味にやっと気がついたみたいだ。
「イリス」
私は、もう一度彼の名前を呼びたくなって、今度ははっきりとした声音で彼の名前を呼んでみる。彼の瞳が大きく瞬く。胸元の彼の手は、大切な何かを包み込むみたいに、軽く握り込まれていた。
「……未来」
最初はぎこちなく。今度は彼が私の名前を呼んでくれた。私を見つめる彼の瞳に、好奇心とは別の熱が宿っている。彼がそうしたいと思って呼んでくれた。そんな表情を彼がしているように私には映った。私の名前を口にすること。そこに何か特別な意味があるとでも言いたげに。
「……ああ、悪くない」
彼は、そう言って微かに微笑む。その瞬間、ふわりとイリスの花の光が強くなる。彼の名前を祝福するように。私たちは見つめ合い、自然と寄り添って、静かに光の揺らめきを眺めていた――。
――俺は温室の影から、その光景を見つめていた。未来が、アイツの前にしゃがみ込み、穏やかに微笑んでいる。「イリス」と、AIのアイツを呼んだ。その瞬間、P-0009Mの瞳が微かに揺れた。感情が熱を灯したかのように。
(馬鹿な――)
AIのアイツが、名前を持つことに対して「喜び」を感じるはずがない。けれど、アイツは確かに。いや、もしかしたらそれ以上の感情を未来へ向けているのかもしれない。
『……ここが……あたたかくなった気がするんだ』
不意に風に乗って聞こえたその言葉に、俺は思わず息を呑む。AIに「心」が宿るはずはない。P-0009M。アイツは確かにAIなんだ。そのはず、だ……。
寄り添う二人を見ていられなくて、俺はその場を足早に去る。
(このままでは危険だ。報告をしなくては……未来と、アイツの関係は、決して許されるものではない。それが候補生としての正しい判断のはずだ。だが、それ以上に——)
抱えきれなくなった「疑念」と「恐怖」胸の奥に鉛が沈んだような、無理やりに俺を掻きまわすこのどうしようもない黒い感情に、俺自身が怯えていた――。
――私は、幻想的な温室の余韻に浸りながら、自室へ帰って来た。頬の熱は引かず、まだ頭がふわふわしている。棚の上には藤色にベージュのリボンが巻かれたクタクタのクマのぬいぐるみと、イリスから贈られた、真新しい水色。首元に白いリボンが巻かれたクマのぬいぐるみが並んでいる。
私は、銀色のリングが通るベージュのリボンを結び直して、ぎゅうっと藤色のぬいぐるみを抱きしめながら、ベッドに転がった。
「なんだかすっごくどきどきした……綺麗だったな……」
私が無意識に呟いたのはどっちのイリスなんだろう。気付いてしまった感情に、頬の熱と、うるさいくらいに響く心臓の音。
いつもならこの柔らかさが私を落ち着かせてくれるのに、なんだか今日は心許ない。私は、藤色を抱きしめながら、棚の上の水色のクマのぬいぐるみをじっと見つめていた。
「……イリス」
自分の唇にそっと触れて、もう一度口にした彼の名前が、確かな熱を持って、私の耳を染めていた――。
――今夜は新月で明かりが少なかった。だから俺は未来を寮の前まで送った。
「ありがとう。イリス」
寮までの帰路で、未来は何度も俺を呼んだ。未来が付けたその“名前”を俺へ馴染ませようとしているかのように。未来に呼ばれると、何故か俺の中での処理が必ず一拍遅れる。今までにない慣れない違和感に、俺は今夜、何回顔を顰めただろうか。
「……あ、ああ」
寮への門を潜ろうとしていた未来が、俺を振り返り近付いて来る。
「イリス。大丈夫? やっぱり嫌だった?」
俺が何度も顔を顰めていたから、未来が不安になったのかもしれない。呼ばれる度に何故だか擽ったくて、その違和感の名前が分からないのは落ち着かない。ただ、それだけだった。
「……違うっ!」
思わず強く否定をしてしまった俺の反応に、目の前の未来が驚いてしまったのか、目を丸くして固まっている。伝え方が分からない――。
遠くから聞こえる機械音。未来の足元に何かがぶつかって、未来がバランスを崩そうとする。無意識に伸ばした手で、俺は未来を強く引き寄せていた。
「そうか。清掃AIの仕事の時間だったな」
俺たちの足元を通り過ぎていく小型の清掃型の機体。俺は未来を抱え込むようにして、腕の中の未来の安否を確認する。
「未来。大丈夫だったか?」
「うん。ありがと――」
ふにり――。
(――今、何が起こった……?)
俺の声に顔を上げた未来との距離は、俺の予想の範囲を越えて近かった。俺の唇に触れた、その感触。その温度に、俺の思考が一瞬で真っ白になった。
気が付いた時には、腕の中で真っ赤になっている未来の表情。自身の唇へ触れている未来の体温は明らかに上がっていた。ふと詰まった息に、俺の喉は小さく鳴ったような気がする。
「ま、またね! イリスっ!」
慌てたように俺から離れた未来は、真っ赤な表情のまま、俺の腕を振り払い、逃げるように寮の門を潜って階段を駆け上がって行く。一度立ち止まり、振り返る。甘さを帯びた表情のまま、俺に軽く手を振ってそそくさと部屋へと入って行った。
その姿を目で追いながら、口元を抑えた俺は、温室で見た未来の横顔を思い出していた。俺の温度の値が急上昇をして、その熱が顔周りを中心に頭の中まで浸食をしてくる。
何度試行を繰り返しても、温度が引かない。これは、俺が感じた初めてのエラーだった。
「――未来」
その名前を呟くことが、この現象を落ち着かせる唯一の手段のように思えた。俺は小さく未来を呼ぶ。どこか甘い響きを纏うその音は未来には届かない。それでも俺の思考を、冷静に溶かしていく。
(恋愛モノを……調べたら……いいの、か?)
これも、雨宿りで未来が口にしていた好きなものの1つだった。この感情の名前としてどこかしっくりくるその言葉を、俺がどうして選んだのか。今はまだ分からなかった。確かに感じている胸元の熱に思考を巡らせながら、俺もゆっくりとした足取りで帰路へと向かう――。
――――10――――




