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異世界恋愛短編集

辺境の鍛冶娘、王太子の剣を打つ

作者: 百鬼清風

 山深き辺境の村。森を抜ける小川のせせらぎと、遠くから響く鳥の声が日々の生活に溶け込む場所。村の外れにひとつだけ大きな煙突を備えた家があった。赤黒い煤に染まった石造りの壁。その煙突からは今日も黒煙が昇っている。


 鍛冶屋の工房。リーナは父の後ろ姿を見つめながら、火床の赤々とした炎をふいごで煽いでいた。炉の中で熱せられた鉄が白く輝き、父が振り下ろす槌の音が大地に響く。カン、カン、カン――村の誰もが聞き慣れた音。だが、リーナにとっては幼いころからの子守唄であり、日々の鼓動のようなものだった。


「よし、火加減はいい。リーナ、次の棒鉄を炉に入れておけ」


「はい、お父さん」


 額の汗を拭う暇もなく、彼女は鉄材を掴んで炉に差し込む。炎が一気に鉄を呑み込み、じゅっと火花が散った。男手でも重い仕事だが、十七になる彼女にとってはすでに当たり前の動作だった。


 村の者たちはよく彼女に言った。「女の子が槌を振るうなんて」と。村娘なら畑に出たり、機織りをしたりするのが常。煤で顔を汚し、腕を鍛え、髪を汗で貼り付かせて槌を振るう姿は、村の誰にとっても奇異に映る。だが、リーナにとって鉄を打つことは生きることそのものだった。


「リーナちゃん、また工房かい。ほんとに元気だねえ」


 水桶を運んでいた隣の老婆が、笑いながら声をかけてきた。その笑顔に棘はなかったが、背後で囁く声もある。


「嫁の貰い手なんてあるのかねえ」


「女鍛冶なんて縁起でもない」


 彼女は聞こえぬふりをする。耳に入れば胸の奥がざらつく。けれど、槌を振り下ろせば不思議と嫌な思いは溶けていった。火と鉄の響きは、彼女を孤独から救う音でもあった。


 しかし最近、工房の主である父の咳がひどくなっていた。炭の煙を長年吸い込んできたせいか、胸を押さえて苦しむこともしばしばだ。


「お父さん、大丈夫?」


「……大丈夫だ。まだ、槌は振れる」


 父は強がるが、腕は以前のようには上がらない。工房を回すのは、すでにリーナの肩にかかっていた。村人からの依頼、農具や鍬の修理、馬蹄の打ち直し――全て彼女が担う。


 夜、炉の火を落としたあと、父が苦しげに寝息を立てるのを見ながら、リーナは胸の奥に小さな決意を固めた。

(私が工房を支えるんだ。お父さんが築いたものを守るのは、私しかいない)


 そんなある日。村に数人の騎士が馬を駆ってやってきた。鎧の輝きも剣の鋭さも、村人が目にするのは年に一度あるかないか。彼らは王都からの巡回騎士団であり、辺境の治安を見回っているのだという。


「この村に鍛冶屋はあるか?」


 騎士団長らしき男が声を張り上げた。村人は一斉にリーナの工房を指差す。工房に案内された彼らは、剣や鎧を見せながら口々に修理を求めてきた。道中の戦いや訓練で傷んだ武具の手入れは必須だ。


 リーナは父に代わって応対した。


「はい、お預かりします。剣の刃こぼれも、盾のへこみも直せます」


「娘が鍛冶を? ……まあ、背に腹は代えられん」


 最初こそ怪訝な顔をしていた騎士たちも、彼女の手際の良さを見て次第に黙った。鉄を熱し、打ち直し、研ぎ澄ます。目にも止まらぬ動作に、彼らは感嘆の息を漏らす。


「見事なものだ。辺境にもこれほどの腕があるとは」


 リーナの胸は誇らしさで満ちた。だが同時に、彼女の心には初めて芽生える感情があった。

(王都の騎士たちがこんなに遠くまで来るんだ。もし私も……王都で槌を振るえたら?)


 憧れ。それは小さな火花のように心の奥で瞬き、消えずに残った。


 騎士団が村を去るとき、団長が言った。


「王都では今、大きな催しが開かれている。剣の競演の場だ。王太子殿下も直々に出場なさる。お前のような鍛冶娘が王都に来れば、きっと驚かれるだろうな」


 何気ない言葉だった。だがリーナにとって、それは雷のように胸を打った。父の工房しか知らなかった彼女の世界に、広大な王都の存在が強烈に焼き付いた瞬間だった。


(私が打った鉄が、もし王都で、王太子様の剣となったら……)


 夢想にすぎないと自分でも笑う。けれど、胸の高鳴りは抑えられなかった。


 それは夏の盛り、森を渡る風が熱気を含みながら村を揺らす日のことだった。

 リーナが工房で鎚を振るっていると、外からざわめきが聞こえた。人々の驚きと恐れを帯びた声――ただ事ではない。彼女が戸口から顔を出すと、村の広場に馬車の列が入ってくるところだった。


 白馬に引かれた豪奢な馬車。甲冑に身を包んだ近衛騎士団の姿。その整然とした行進は、辺境の村に住む者たちにとって夢物語の一場面のように映った。

 そしてその馬車の中に、燦然と光を放つ存在がいた。王国の第一王子、アルディス。後に「剣の王子」と呼ばれる青年である。


「この村に鍛冶屋はあるか?」


 騎士団の隊長が声を張り上げる。村人はおそるおそるリーナの工房を指さした。

 すぐに数人の騎士が工房へ押し寄せる。炉の赤い光が、彼らの銀鎧に反射した。


「王太子殿下の剣が損傷した。至急、修復できる鍛冶師を呼べ」


 リーナの父は咳き込みながら立ち上がろうとしたが、すぐに胸を押さえて膝をついた。慌てて駆け寄ったリーナが代わりに応じる。


「私が、やります」


 騎士たちは顔を見合わせた。「娘が鍛冶を?」という冷笑が洩れる。だが彼らが振り返った先、馬車から現れた人物がすべてを制した。


 白い外套に金糸をあしらった鎧、整った顔立ちと冷たい蒼眼。その姿を見ただけで、誰もがひれ伏した。

 アルディス王太子は無言で剣を差し出す。鍔に王家の紋章を刻んだ、美しくも威厳ある剣。しかし刃は大きく欠け、戦場での激しい使用が伺えた。


「お前が直すのか?」


 凍りつくような声に、リーナは思わず背筋を正す。


「はい、殿下。鍛冶屋の娘、リーナと申します。必ずや修復いたします」


「……田舎娘にできると思うか?」


 低く吐き捨てるような言葉。リーナの頬が熱を帯びる。だが、その蒼眼を真っ直ぐに見返した。


「できます。鍛冶師の誇りにかけて」


 アルディスは鼻で笑うと、わざと人々に聞こえるように言った。


「いいだろう。失敗すれば、王家への反逆と見なす。覚悟して臨め」


 村に緊張が走った。だがリーナの手は震えていなかった。彼女の胸に灯ったのは恐れではなく、ただ一つ――鉄を打つ者としての誇りだった。


 その後、剣は慎重に工房の作業台に置かれた。村人たちは遠巻きに見守り、騎士団は警戒するように周囲を固める。

 アルディスは冷淡な視線を投げながらも、剣から目を逸らさなかった。その刃こぼれは深刻で、素人目には折れてもおかしくないほど。だがリーナは静かに指先で刃をなぞり、火床に目を向けた。


(鋼の質は素晴らしい……でも打ち直さなければならない)


 父が動けない今、この責務は自分の肩にかかっている。

 ふと背後から父の声がした。


「リーナ……剣は……王家の象徴だ。気を抜くな」


「うん。分かってる」


 炉に薪をくべ、ふいごを力強く引く。火は轟々と唸り、工房の空気を一変させた。リーナの額から汗が流れ落ちる。その姿を、アルディスは何も言わずに見つめていた。


 やがて夜になり、村に灯りがともる。工房の炉は赤々と燃え続け、リーナの槌の音が響き渡った。

 村人たちは「田舎娘に任せて大丈夫なのか」と囁き合う。けれどリーナは一切耳を貸さず、ただひたすらに鉄を打ち続けた。


 アルディスはその様子を冷たく見つめながらも、心の奥にわずかな揺らぎを覚えていた。

(娘の身で……なぜあれほど迷いなく槌を振れる?)


 彼の胸に去来したのは、軽蔑とも、ほんの少しの興味ともつかない感情だった。


 深夜。ついに修理を始める準備が整った。炉の炎に照らされるリーナの瞳は、まるで炎そのもののように燃えていた。

 剣を掲げ、静かに誓う。


「この剣を直しきってみせる。私の誇りにかけて」


 その声は工房を越え、夜の村に響いた。誰もが黙り込み、その姿を焼き付けるように見つめていた。


 王太子の剣を託された瞬間。リーナの人生は、確かに大きく動き始めていた。


 王太子アルディスから突き付けられた「失敗すれば反逆」という言葉は、村中に重苦しい空気を落としていた。だが工房の中でリーナの瞳は、不思議なほど澄んでいた。恐れよりも強い決意が、彼女の胸に燃えていたからだ。


 夜通し、炉の炎が赤々と燃え盛った。リーナは剣を分解し、刃を火にくべる。白熱した鋼を取り出すたび、火花が四方に散り、煤が顔を汚した。だが彼女は拭おうともしない。ただ、ひたすらに槌を振るい続けた。


 村人たちは工房の外に集まり、落ち着かない面持ちで成り行きを見守っていた。

「女の子に任せて大丈夫なのか」

「でも、あの子の槌の音は本物だ」

小声のやりとりが飛び交う。


 それでもリーナは耳を貸さなかった。槌を振るう音だけが、彼女の世界のすべてになっていた。


 だが作業は容易ではなかった。王太子の剣は王都の最高の鍛冶師が作り上げた逸品。鋼の層は厚く、刃こぼれを直すには並外れた集中力が要る。彼女は何度も火加減を誤りそうになり、汗が炉の熱で蒸発して目に沁みた。


 一度、刃の温度を見誤り、鋼を赤くしすぎてしまう。思わず槌を振り下ろす手が止まり、心臓が跳ねた。

(だめ……! 私が失敗すれば、父も、村も巻き込むことになる)


 その時、耳の奥で父の声が蘇った。

「鉄は心を映す。迷えば、刃は濁るぞ」


 リーナは深く息を吸い込み、震える手を押さえた。もう一度、炉の炎をじっと見つめ、ふいごをゆっくりと引く。炎が落ち着きを取り戻し、再び鋼を包んだ。


(大丈夫。私は、できる)


 村の仲間たちもまた、彼女を支えていた。水を汲んでくる者、木炭を運んでくる者、食事を差し入れる者。彼らは「自分たちの娘」が王家の剣を直す姿を、誇りと不安の入り混じった眼差しで見守った。


「リーナ、無理するな」

「ここまで来たら、最後までやり遂げるんだ」


 声援は小さいながらも確かに彼女の背を押していた。


 槌の音が夜を越え、東の空が白み始める。リーナの腕は痺れ、体力は限界に近かった。だが彼女の瞳は炉の炎と同じ色に燃えている。


「……仕上げだ」


 彼女は砥石に刃をあて、細心の注意を払って磨き上げる。火花が散るたび、剣は少しずつ輝きを取り戻していった。まるで眠っていた魂が目覚めるかのように。


 最後の一打を振り下ろした瞬間、リーナは全身から力が抜け、膝をついた。だが作業台の上には、見事に修復された王家の剣が横たわっていた。


 その剣を手に取ったのは、王太子に仕える近衛の一人だった。彼は半信半疑で振るい、空を切る。――キィンと澄み渡る音が響いた。

「なんと……!」

周囲の騎士たちが息を呑む。刃は欠けひとつなく、むしろ以前より鋭さを増している。


「試し斬りを」

騎士団長が頷き、用意された丸太に剣が振り下ろされる。乾いた音とともに、太い木が一瞬で両断された。


「信じられん……」

「王都の鍛冶師でも、ここまでとは……」


 村人たちが歓声を上げ、騎士たちさえどよめく中、ただ一人、アルディスだけが無表情のままだった。


「……悪くはない」

短く言い放つと、彼は剣を鞘に収める。その声音は冷たいが、瞳の奥にかすかな光が揺れていることにリーナは気づいた。


 工房の外に出ると、朝日が村を照らしていた。リーナの体は疲れ果てていたが、胸の奥には確かな熱が残っていた。

(やり遂げた……私の槌で、王太子殿下の剣を甦らせたんだ)


 その瞬間、彼女は鍛冶師としての誇りをこれまで以上に強く刻み込んだ。

 だが、アルディスの態度が意味するものは何か――それを知るのは、まだ先のことだった。


 王太子アルディスが放った「失敗すれば反逆」という言葉は、村全体を震わせた。だが工房の炉の前に立つリーナの胸には、恐れよりも強い決意があった。鉄と火と槌に生きてきた彼女にとって、これは逃げられぬ試練だった。


 夜の闇に、炉の炎が赤々と揺れる。リーナはふいごを押し、白熱した刃を取り出す。大槌を振り下ろすたび、乾いた音が闇を切り裂いた。


 工房の外では、村人たちが怯えながら囁き合う。

「女の子に任せて大丈夫なのか……」

「いや、あの槌の音は本物だ。あの娘ならやり遂げる」


 村人たちはやがて薪や水を運び込み、差し入れをした。煤にまみれたリーナが振り返ると、年老いた隣人が笑みを浮かべて言った。

「無理はするなよ」


 リーナは力強く頷いた。

「大丈夫。私は鍛冶師です」


 再び槌を振るい、音は夜通し続いた。


 だが作業は容易ではなかった。王太子の剣は名匠が打った逸品で、幾重もの鋼が折り重なっている。温度をわずかに誤れば、刃は砕ける。


 深夜、リーナは火加減を見誤り、刃を赤くしすぎてしまった。焦りで手が震え、槌を取り落としそうになる。


(駄目だ……失敗すれば、村も父も、全部巻き込むことになる)


 耳の奥に、父の声が蘇る。

「鉄は心を映す。迷えば、刃は濁るぞ」


 リーナは唇を噛み、ふいごを静かに引いた。炎が穏やかになり、刃の赤が落ち着いていく。彼女は深く息を吸った。

「大丈夫……私ならできる」


 震えを押さえ、再び槌を振り下ろした。火花が散り、闇を明るく照らした。


 夜が明ける頃、彼女の腕は痺れ、膝は鉛のように重かった。それでも瞳は燃えていた。


「……仕上げだ」


 砥石に刃をあて、細心の注意で磨き上げる。火花が散るたび、剣は青白い輝きを増していった。最後の一打を終えた瞬間、リーナは全身から力が抜け、膝をついた。作業台の上には、見事に修復された王家の剣が横たわっていた。


 近衛の一人がそれを手に取り、恐る恐る振るった。澄んだ金属音が空気を震わせる。

「これは……!」


 別の騎士が丸太を用意し、剣を振り下ろした。鋭い閃光が走り、太い木は音もなく両断された。断面はまるで鏡のように滑らかだった。


「信じられん……」

「王都の鍛冶師でも、ここまでとは」


 村人たちが歓声を上げ、騎士たちでさえ驚嘆の声を漏らした。


 だがアルディスだけは無表情だった。静かに剣を鞘へ収めると、冷たい声を落とした。

「……悪くはない」


 その瞳の奥に一瞬だけ光が揺れたことに、リーナは気づいた。


 工房の外に出ると、朝日が村を黄金に染めていた。疲労に震える体を抱えながらも、リーナの胸には確かな熱が残っていた。


(やり遂げた……私の槌で、王太子殿下の剣を甦らせたんだ)


 その誇りが、彼女の心を支えていた。


 翌朝、村は騒然としていた。

 王太子アルディスの剣を修復したという噂が一晩で広まり、老いも若きも広場に集まってきた。誰もが「リーナがやり遂げた」と誇らしく語り合いながらも、王家の逆鱗に触れるのではと不安を抱えていた。


 その只中、近衛騎士団が整然と広場に並び、煌めく鎧が朝日を反射してまぶしく光った。馬上のアルディスは冷然とした表情で群衆を見渡し、真っ直ぐにリーナを指し示した。


「鍛冶娘、お前を王都に連れて行く」


 その一言で、広場は悲鳴とざわめきに包まれた。


「ど、どうして私を……?」


 リーナが息を呑んで問うと、王太子は淡々と告げた。


「お前の腕をさらに試す。王都には宮廷鍛冶師が揃っている。比較して初めて真価が分かる」


 それは招待ではなく命令だった。騎士たちが村人を押し分け、彼女の家を囲む。


 咳き込みながら工房から出てきた父が、必死に声を張った。

「リーナ……無理をするな。だが、行くのなら胸を張れ。お前は鍛冶師だ」


 その言葉にリーナは拳を握った。

「……分かりました。王都へ、ご一緒します」


 出立の準備は急だった。村人たちは心配そうに食料や衣を持ち寄り、彼女の荷をまとめる。

「本当に行くのか?」

「王都なんて、遠い世界だぞ」


 リーナは微笑んで答えた。

「大丈夫。私は鍛冶師。どこへ行っても槌を振るうだけ」


 子どもたちが駆け寄り、小さな手で彼女の手を握る。

「帰ってきてね!」

「都会でも負けないで!」


 その声に胸が熱くなる。リーナは一人ひとりに頷き、荷を背負った。


 やがて馬車が用意された。王太子と共に乗り込むよう命じられ、リーナは煤で汚れた作業着のまま座席に腰を下ろした。豪奢な内装に囲まれ、場違いさを痛感する。


 対面に座るアルディスが鋭い視線を投げた。

「……その煤だらけの格好で座るな。馬車が汚れる」


「これは鍛冶師の証です。恥じるものではありません」


 リーナが真っ直ぐ言い返すと、王太子はわずかに口角を上げた。

「田舎娘のくせに口が達者だな」


 視線を外さず、低く呟く。

「だが嫌いではない」


 リーナの頬に熱がこもる。挑発とも本心ともつかぬ声音に、胸が妙にざわめいた。


 王都への道は長く、馬車は森を抜けて進んだ。木々が鬱蒼と茂る中、突然、茂みから矢が飛んだ。馬が嘶き、騎士の一人が声を張る。


「敵襲!」


 盗賊の一団が飛び出し、十を超える人数が馬車を囲んだ。


「殿下を守れ!」


 近衛たちが剣を抜き、応戦する。金属がぶつかる甲高い音が響き渡り、混戦が始まった。


 馬車に迫る盗賊の刃を見て、アルディスが立ち上がる。

「下がっていろ!」


 鋭い剣筋が光り、敵の一人が倒れる。美しくも冷徹な動きにリーナは一瞬見惚れた。だが次の瞬間、別の盗賊が馬車に飛びかかってきた。


 リーナはとっさに荷から鉄槌を引き抜いた。

「やあっ!」


 渾身の力で振り抜いた槌が盗賊の肩に命中し、鈍い音を立てて吹き飛ばした。煤と汗にまみれた娘の姿に、騎士たちの目が見開かれる。


「女だぞ……! なんて力だ」


 息を切らしながらも、リーナは再び槌を構えた。その目に怯えはなかった。


 やがて盗賊たちは撃退され、森に逃げ散った。騎士団が息を整える中、リーナは鉄槌を握ったまま膝をついた。


 アルディスが歩み寄り、彼女を見下ろす。

「愚かだ。無手で盗賊に挑むなど、自ら死を招く行為だ」


「放っておけませんでした。守るべき人がいたから」


 その瞳は真っ直ぐで、震えはなかった。アルディスは一瞬言葉を失い、やがて低く呟いた。

「……勇敢だな。愚かだが、勇敢だ」


 初めて口にした素直な評価。その言葉はリーナの胸を温かく満たした。


 馬車は再び進み出した。木漏れ日の先には、憧れと試練が待つ王都がある。リーナは鉄槌を抱き締め、心の中で誓った。


(どんな場所でも、私は鍛冶師。槌を振り、鉄を打ち続ける。それが私の誇り)


 その誇りが、やがて王国の運命をも左右することになるとは、このときまだ彼女も知らなかった。


 馬車が長い街道を抜け、丘を越えると、遠くに広がる白い城壁が見えた。高くそびえる塔、金色の尖塔、無数の屋根が連なる王都。初めて目にする景色に、リーナは思わず息を呑んだ。


「これが……王都……」


 声は自然と漏れた。辺境の村しか知らぬ娘には、すべてが夢のようだった。


 だがアルディスは窓の外を見やりながら冷ややかに言った。

「見とれるのも今のうちだ。ここではお前のような田舎娘はすぐに笑い者になる」


 リーナは悔しさを堪え、唇を結んだ。

「それでも私は槌を振ります。どこにいても、鍛冶師であることに変わりはありません」


 馬車が城門をくぐると、衛兵が整列し、民衆が歓声を上げていた。人々は王太子をひと目見ようと押し寄せ、その視線は自然と彼の隣に座る煤だらけの娘にも注がれた。


「誰だあの娘は」

「まさか王太子のお側に?」


 囁きが波のように広がる。リーナは視線に耐えながらも背筋を伸ばした。


 城へ到着すると、豪奢な大広間に案内された。赤い絨毯、天井から下がる黄金のシャンデリア。辺境育ちの彼女にはまぶしすぎる光景だった。


 だが、そこで待っていたのは宮廷鍛冶師たちだった。宝石をあしらった衣をまとい、誇らしげに顎を上げる彼らが、冷笑を浮かべながらリーナを見下ろした。


「殿下、この娘が例の鍛冶娘ですか?」

「田舎娘が王家の剣を直したと? 笑わせる」


 リーナは唇を噛んだが、言い返さなかった。自分の槌と炎だけが証明になると分かっていたからだ。


 そのとき、広間に修復された王家の剣が運ばれた。近衛の一人が壇上で抜き放ち、刃がきらめきを放つと、場の空気が変わった。


「……美しい」


 思わず漏れたのは、宮廷鍛冶師の一人の声だった。彼らは互いに顔を見合わせ、動揺を隠せない。


「欠け一つなく直されている……」

「むしろ以前より鋭い光を帯びている」


 ざわめきは広がり、やがて大広間を満たした。


 だがアルディスは冷ややかに言った。

「これで勘違いするな。技は認めよう。だがここで生きることは容易ではない」


 リーナは彼を見上げて、きっぱりと言い返した。

「私は逃げません。鍛冶師として、鉄で語ります」


 王妃や貴族たちが玉座の近くから彼女を見下ろしていた。装飾を纏った女性が小さく笑った。

「辺境の娘を側に置くなど、殿下のご趣味も変わっておりますこと」


 別の貴族が続ける。

「王家の剣を預ける相手が田舎者とは、嘆かわしい」


 嘲りは次々と降り注いだ。リーナは拳を握り、堪えながらも頭を下げた。


「私は侮られても構いません。ですが、剣は嘘をつきません」


 その言葉に場が静まり、誰も続けて嘲笑うことはできなかった。


 その夜、城の中庭でアルディスと再び言葉を交わした。月明かりに照らされた彼の横顔は冷たく、しかしどこか思案げだった。


「お前の剣は確かに見事だ。だが王都はお前のような純粋な娘を簡単に食い潰す」


「それでも私は槌を振り続けます」


 リーナは迷いなく答えた。


「どこにいても、鉄は同じです。私はそれを打つだけです」


 アルディスはわずかに目を細め、言葉を切った。


「……ならば見せてもらおう。お前の誇りがどこまで通じるのか」


 その声には、以前よりも冷たさが薄れていた。


 こうしてリーナは、煌びやかな王都に足を踏み入れた。嘲笑と疑念、誇りと矜持が渦巻く中で、彼女の槌の音はこれまで以上に強く鳴り響くことになるのだった。


 王都に来て数日。リーナは毎日、城の片隅にある作業場に通っていた。火床の大きさも道具も村のものとは比べものにならないほど整っている。だが、その空間に漂う空気は、辺境の工房のような温かさとは無縁だった。


 宮廷鍛冶師たちは横目で彼女を見ては鼻で笑う。

「煤だらけの娘が王城にいるなど、見苦しい」

「殿下の気まぐれに付き合わされるのも骨が折れる」


 耳に刺さる言葉を無視して、リーナは槌を振った。火花が散り、金属の音が高く澄み渡る。その音が唯一、彼女の心を守っていた。


 数日後、大広間で武術の試合が催されることになった。各地から騎士や兵士が集まり、王都の民衆も見物に押し寄せた。王太子アルディスも自ら参加するという。


 試合当日、アルディスはリーナが修復した剣を手に壇上に立った。金の装飾をまとった貴族たちがざわめき、民衆は息を呑む。


「殿下、あの剣をお使いになるのか」

「田舎娘が直した剣を? 無謀だ」


 嘲笑が響く中、アルディスは刃を抜いた。鋭い光が走り、観客は一瞬にして黙り込む。


 対戦相手は王国の近衛隊長。屈強な男が盾を構え、剣を振り下ろした。火花が散り、重い衝撃が広間を揺らす。


 リーナは観覧席の隅で両手を握りしめた。

(折れないで……どうか耐えて……)


 剣は唸りを上げ、相手の刃を受け止め続けた。刃こぼれ一つ起こさず、むしろ鋼の歌のように澄んだ音を響かせている。


 やがてアルディスが一歩踏み込み、相手の盾を真っ二つに切り裂いた。観衆からどよめきが上がる。


「なんという切れ味だ……」

「宮廷の鍛冶師の作でも、ここまでの剣はない」


 宮廷鍛冶師たちは唇を噛み、顔を青ざめさせていた。


 試合を終えたアルディスは汗を拭い、剣を掲げた。


「この剣は確かに田舎娘の手によって修復された」


 ざわめきが走る。アルディスは続けた。

「だが剣に宿るものは技だけではない。心だ」


 その言葉にリーナの胸が震えた。


「……剣に心、ですか」


 隣で聞いていた兵士が鼻で笑った。

「剣はただの鉄の塊だ。心などあるものか」


 リーナはきっぱりと答えた。

「鉄は人の心を映します。槌を振るう者が迷えば、刃も迷います」


 その真剣な眼差しに、嘲っていた兵士も言葉を失った。


 だが全員が納得したわけではない。王妃は冷ややかに扇を動かしながら言った。

「身分も学もない娘が、剣の理を語るとは滑稽ですこと」


 別の貴族も続ける。

「殿下があまりに庶民をかばわれるのは、宮廷の威信を損ないます」


 冷たい視線がリーナに突き刺さった。彼女は震えそうになる足を必死で踏みしめた。


「私は鍛冶師です。身分はなくとも、剣は嘘をつきません」


 その声は震えていなかった。


 沈黙を破ったのはアルディスだった。


「この娘の言葉を笑うなら、まずはこの剣を折ってみせろ」


 剣を壇上に突き立て、彼は冷ややかに周囲を見渡す。誰一人前に出られなかった。


 やがて王は重々しく口を開いた。

「良い。王都において、この娘の腕を試し続けよ」


 それは名誉であると同時に、厳しい試練の宣告でもあった。


 その夜、中庭に出たリーナにアルディスが近づいた。月明かりに照らされた彼の横顔は、いつもの冷たさの奥にわずかな揺らぎを帯びていた。


「お前の言葉が耳に残った。鉄は心を映す、か」


 リーナは驚いて答えた。

「はい。そう信じています」


「ならば、俺の剣には何が映っている」


 問いかけに、リーナは一瞬迷ったが、やがてまっすぐに言った。

「孤独です」


 アルディスの目が細くなり、沈黙が落ちた。やがて彼は小さく笑った。


「……田舎娘にしては、鋭い」


 その笑みは冷たさを含みながらも、初めて人の温度を帯びていた。


 リーナは胸の奥に不思議な感覚を覚えた。王都の嘲笑に晒されながらも、彼と交わした言葉が小さな光となって心を照らした。

 剣に宿るものは鉄ではなく心。彼女はその信念をさらに強く抱きしめた。


 王都に来てからの日々は、リーナにとって厳しいものだった。宮廷鍛冶師たちの冷たい視線、貴族の嘲笑、慣れぬ礼儀作法。けれど彼女は毎日炉の前に立ち、槌を振るい続けた。その姿は、少しずつ兵士や騎士たちの間に「辺境の娘だが確かな腕を持つ」という噂を広めていった。


 だが同時に、彼女の存在を快く思わぬ者たちもいた。王家に仕える重臣たち、宮廷鍛冶師たち、そして一部の貴族。彼らにとって、身分の低い娘が王太子の剣を任されていることは、屈辱に等しかった。


「こんな娘が王宮に長居するなど、王国の威信を汚す」

「殿下も気まぐれが過ぎる」


 そんな囁きが、陰の回廊を這うように広まっていった。


 ある晩。リーナは作業場に戻ると、炉の脇に置いていた鉄材が消えていることに気づいた。代わりに、焦げ跡のついた破片が床に散らばっていた。


「誰か……触った?」


 背後から声がした。

「辺境娘に任せるからだ」


 振り向けば、宮廷鍛冶師の一人が冷笑を浮かべていた。


「火加減を誤って鋼を割ったのだろう? 王家の宝を傷つけるとは、大罪だ」


「違います! 私は……」


 言い返す前に、近衛の兵が駆け込んできた。

「リーナ殿、陛下の命により、あなたを拘束する」


 工房はざわめきに包まれ、リーナは腕を取られて引き立てられた。


 牢に入れられた石の床は冷たかった。鎖の擦れる音が耳に重く響く。彼女は膝を抱え、かすかに震えた。


「どうして……私が」


 その時、足音が響き、牢の前に一人の影が立った。アルディスだった。


「殿下……」


 彼は冷ややかな視線で鉄格子越しに彼女を見つめた。


「お前が本当に火加減を誤ったのか。俺には分からない」


「私は……絶対にしていません。剣も鉄も嘘はつきません!」


 リーナの声は必死だった。アルディスはしばし黙り込み、やがて低く呟いた。


「……ならば真実を見極めるのは俺の役目だ」


 そう言って背を向け、去っていった。その言葉が嘘か本当か、リーナには分からなかった。だが小さな灯のように胸に残った。


 数日後、牢に閉じ込められていたリーナの耳に、不穏な噂が届いた。隣国が国境付近で兵を動かしているという。戦の兆し。王国は緊張に包まれていた。


 牢番の兵士たちが囁き合う声が聞こえる。

「殿下はどう動くつもりだ」

「だがあの鍛冶娘の件が……」


 リーナは鉄格子を握りしめ、心で叫んだ。

(私はこんなところで終われない。まだ槌を振りたい。剣を打ちたい。……守りたい人がいる)


 その夜。再び足音が近づいた。格子の前に立ったのはアルディスだった。松明の炎に照らされ、彼の顔は険しかった。


「お前をここに閉じ込めておくのは、敵の思うつぼだ」


「殿下……」


「だが俺が庇えば、さらに大きな反発を招く」


 彼は少しの間、視線を外し、再び言った。

「鉄は心を映すと言ったな」


「はい」


「ならば、お前の槌が嘘をつかぬことを証明してみせろ」


 リーナは目を見開いた。

「……私に、もう一度、槌を振らせてくださるのですか」


 アルディスは短く頷いた。

「敵はすでに動き始めている。王国にはお前の鉄が必要だ」


 その言葉に、リーナの胸に再び火が灯った。


 こうして、彼女を巡る陰謀の影は深まる一方だった。しかしその影の中で、王太子と鍛冶娘の間に芽生え始めた信頼は、確かに揺るぎないものへと育ち始めていた。


 隣国軍が国境を越えたという報せは、王都を一夜にして混乱に陥れた。鐘の音が鳴り響き、人々は不安げに街を行き交う。兵士たちは急ぎ城門を固め、王宮では連日軍議が開かれた。


 その中で、リーナはまだ牢の中にいた。鉄格子の向こうで、兵士たちが慌ただしく行き来している。


「……戦が始まるの?」


 彼女の呟きは、誰に届くこともなく石壁に吸い込まれた。


 夜更け、足音が近づいた。牢の前に立ったのはアルディスだった。松明の灯が揺れ、彼の影が長く伸びる。


「お前をここに置いておく余裕はない」


 リーナは立ち上がり、鉄格子に手をかけた。

「殿下……!」


「国境は炎に包まれている。兵たちの士気を保つには武具の修繕が不可欠だ」


「私に……それを任せてくださるのですか」


 アルディスは短く頷いた。

「槌を振れるのはお前しかいない」


 その言葉に、リーナの胸に熱がこみ上げた。


 解き放たれた彼女は、王都を出る軍に同行した。列をなす兵士たちは重苦しい空気をまとい、誰もが戦の恐怖を隠せずにいた。


 野営地に到着すると、傷だらけの剣や折れた槍が山のように積まれていた。リーナは炉を組み、火を起こした。


「鍛冶娘が……?」

「戦場で槌を振るだと?」


 兵士たちの疑念を背に受けながらも、彼女は黙々と鉄を打った。カン、カンと響く音が夜の闇を震わせる。


「すげえ……あの速さで剣を直している」

「手際が宮廷鍛冶よりもいいぞ」


 やがて兵士たちの間に驚きと感嘆の声が広がった。


 その最中、アルディスが彼女の元へ歩み寄った。剣を差し出しながら低く言う。


「これが俺の剣だ。前線に立つ前に、お前に打ち直してもらう」


 リーナは両手で剣を受け取り、刃の傷を確かめた。深く刻まれた痕は、激しい戦いを物語っていた。


「必ず甦らせます。この剣に、殿下の心が映るように」


 アルディスは眉をひそめた。

「心か……またその話か」


「はい。槌を振るう者の想いは必ず刃に宿ります」


 彼はしばらく黙り、やがて小さく呟いた。

「……ならば見せてもらおう。俺の心を映す剣を」


 リーナは夜を徹して剣を打ち直した。火花が飛び散り、兵士たちが見守る中、彼女の姿は次第に伝説のように語られていった。


「鍛冶娘の槌が鳴る限り、俺たちは負けない」

「この剣に触れると、不思議と勇気が湧いてくる」


 兵たちは彼女の槌の音を合図に、恐怖を忘れて戦に備えた。


 夜明け。完成した剣をリーナは両手で差し出した。


「殿下……この剣で必ず勝ってください」


 アルディスは剣を握り、試すように振るった。澄んだ音が戦場に響き、兵士たちは歓声を上げた。


「見ろ! これが鍛冶娘の剣だ!」

「この剣と共に戦えば必ず勝てる!」


 士気は一気に高まり、疲れた顔に炎が灯った。


 その直後、伝令が駆け込んできた。

「敵軍が迫っています! まもなく衝突します!」


 陣中は騒然となった。アルディスは剣を掲げ、力強く声を張り上げた。

「この剣は辺境の鍛冶娘の誇りだ! 俺たちが背負うべきものは、王国の未来だ!」


 兵士たちが一斉に鬨の声を上げた。リーナはその光景を見つめ、胸が熱くなった。


(私の槌が……人々を支えている。これが鍛冶師の誇り……)


 炎の中で誓った彼女の想いは、ついに戦乱の渦に呑み込まれていった。


 朝靄の立ちこめる戦場。地平線の向こうに、隣国の旗が無数に翻っていた。黒い甲冑をまとった兵が波のように押し寄せ、王国軍は必死に陣を整えていた。

 兵士たちの顔には緊張と恐怖が浮かんでいる。それでも彼らの瞳には、一つの光が宿っていた。リーナが打ち直した剣。その存在が、彼らの心を繋ぎ止めていた。


 陣の中央で、アルディスは静かに剣を抜いた。刃が朝日を浴び、鋭い光を放つ。


「これが……俺の剣だ」


 声は低く響き、兵たちの心を奮い立たせた。


「鍛冶娘の槌が打ち直した剣! 俺たちはこの刃と共に進む!」


 兵士たちは鬨の声を上げ、地面が震えるほどの勢いで槍を叩いた。リーナはその後ろ姿を見つめ、胸の奥で祈った。


(どうか……折れないで。殿下を守って……)


 やがて戦の火蓋が切られた。隣国軍の先陣が突撃し、王国軍の盾が衝撃で軋む。剣と槍がぶつかり、甲冑が砕ける音があたりに響いた。


 アルディスは真っ直ぐ前へ進み、敵将の姿を探した。やがて、赤い外套をまとった大将が馬上から睨み返す。その手には巨大な斧が握られていた。


「殿下、あれが敵将!」


 近衛の叫びに、アルディスは頷いた。

「俺が行く。道を開けろ!」


 剣を振りかざし、馬を駆って敵陣に突入した。


 敵将との一騎打ちが始まった。重々しい斧が唸りを上げ、地面を抉る。アルディスはそれをかわし、鋭く剣を振るう。火花が散り、衝撃が走る。


 リーナは後方からその姿を凝視していた。槌を握る手が震える。

(あの剣は……殿下と共にある。折れるはずがない。けれど……!)


 大地が揺れるほどの激闘。剣と斧がぶつかるたびに観戦している兵士たちの喉が鳴った。


 やがて、敵将が嘲るように笑った。

「王太子よ! 田舎娘が打った剣で俺を倒すつもりか!」


 アルディスは蒼眼を細め、静かに答えた。

「この剣は俺の心を映す。お前には決して折れぬ」


 再び剣が振り下ろされ、敵将の斧と激突した。金属音が轟き、周囲の兵たちが思わず耳を塞ぐ。だが、折れたのは斧の刃だった。


「なっ……!」


 敵将の驚愕が戦場に響いた。その隙を突き、アルディスの剣が閃光のごとく走った。


「これで終わりだ!」


 敵将は馬上から崩れ落ちた。


 その瞬間、王国軍の士気は爆発した。

「殿下が勝ったぞ!」

「鍛冶娘の剣が敵を討った!」


 兵士たちは一斉に突撃し、隣国軍は動揺して退き始めた。


 リーナは胸に手を当て、涙をこぼした。

「折れなかった……。殿下の心と一緒に……」


 戦が終わった後、アルディスは剣を鞘に収め、ゆっくりとリーナの方へ歩み寄った。血と土に汚れた鎧姿のまま、彼は彼女の前に立った。


「お前の剣が、俺を守った」


 リーナは目を潤ませ、首を振った。

「いいえ。殿下が剣を信じてくださったからです」


 アルディスはしばし彼女を見つめ、そして強く彼女の手を握った。

「……共に歩むべきだと、初めて思った」


 その言葉に、リーナの胸は熱くなり、涙が止まらなくなった。


 戦場に響いた「鍛冶娘の剣」という言葉は、瞬く間に兵士たちの間に広まり、やがて王国全体を鼓舞する象徴となっていった。


 戦いは終わった。隣国軍は退き、王国には平和が戻りつつあった。だが、戦場の土の匂いはまだ兵士たちの胸に残り、戦火の影は容易に消えることはなかった。


 勝利の凱旋の日。王都の大門は旗と花で飾られ、民衆が押し寄せていた。王太子アルディスの姿が現れると、万雷の拍手と歓声が響いた。彼の隣には煤と汗にまみれた一人の娘――辺境の鍛冶師、リーナの姿があった。


「殿下だ!」

「そしてあの娘だ! 鍛冶娘が剣を打ったんだ!」

「我らを救った英雄だ!」


 群衆の叫びは熱狂となり、リーナは思わず立ちすくんだ。


「みんな……私なんて」


 彼女は戸惑いながら呟いた。だが、アルディスが横から静かに声をかけた。


「胸を張れ。お前の槌が、この国を守ったのだ」


 王宮の大広間には、王と王妃、重臣たちが揃っていた。戦勝の報告を終えると、貴族たちの視線が自然とリーナへ注がれた。冷ややかな視線、苛立ちを隠そうともしない表情。


「殿下、いくら功績があったとはいえ、庶民の娘を宮廷に置くなど前代未聞です」

「王家の威信に関わりますぞ」


 ざわめきが広がる中、アルディスが一歩前に出て剣を抜いた。澄んだ音が大広間に響く。


「俺の剣を打つのは、この娘だけだ」


 静寂が落ちた。誰も予想していなかった宣言だった。


 リーナは慌てて首を振った。

「殿下、そんなことを……! 私など……」


 アルディスは振り返り、真っ直ぐに言った。

「俺が戦場で立てたのは、この剣があったからだ。そしてその剣を打ったのはお前だ」


「でも……私はただの鍛冶師です」


「だからこそいい。お前の槌は身分や誇りに縛られず、ただ真実を映す」


 彼の瞳は真剣だった。リーナの心臓は高鳴り、言葉が出なかった。


 王妃が冷ややかに扇を閉じた。

「殿下……その言葉が何を意味するか、理解しているのでしょうね」


 アルディスは即座に答えた。

「もちろんだ。俺は王位よりも、この女を選ぶ」


 衝撃が広間を駆け抜けた。重臣たちが声を上げた。

「殿下、それは……!」

「軽率すぎます!」


 だがアルディスは一歩も引かなかった。


「俺が守るべきは形式ではない。この国を共に支えた仲間だ」


 リーナの目から涙が零れた。

「私なんかが……殿下の隣にいていいのですか」


「お前以外に誰がいる」


 彼は迷わず彼女の手を取った。その手は温かく、力強かった。


「リーナ。お前の槌が俺の命を守った。だから今度は、俺が一生お前を守る」


 リーナは震える声で答えた。

「私も……一生、殿下の剣を打ち続けます」


 二人の手が固く結ばれ、群衆から歓声が巻き起こった。


 その夜、王都の広場には無数の篝火が灯された。兵士たちは酒を酌み交わし、民衆は歌を口にした。人々の間で語られたのは一つの言葉だった。


「鍛冶娘の槌が、王国を救った」


 リーナは火の粉が舞う中で槌を握りしめ、静かに呟いた。


「鉄と共に生き、鉄と共に殿下と歩んでいく」


 アルディスがその隣で笑い、剣を掲げた。


「鉄は俺たちの誓いだ。これからも共に」


 二人の姿は炎に照らされ、王都の夜空に刻まれた。


 こうして――辺境の鍛冶娘と王太子の物語は、新たな伝説として語り継がれていくのだった。

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