隠すのが上手い彼の抱えるものを、少しだけ分けてもらえたような気がした時の話。
今回は、調視点のお話になります。
突然、そこそこの音を立てて開かれた自室の扉――。
「ねぇ調! 雑炊の作り方教えて!」
開口一番がそれだった。
また唐突な……。
「……お前、料理できねぇだろ」
「そこをなんとか! お願い、調! 燎、ご飯食べられそうなんだって」
「ダメ……俺がメインで作るから、それを手伝うだけにしてくれ」
「えーそこをなんとか……」
お願い! なんて手を合わせて言ってくるこいつは、如何せん料理ができない。
「……お前この間、キッチンとんでもないことにしたの忘れてねぇからな」
綴は……米すら炊飯器で炊けないレベルの料理音痴だ。
少し前に和が体調を崩した時、俺は桜と湊を連れて任務に出ていた。
頼みの燎も弥と悠を連れて別任務にあたっていて、葵も私用で外出していた。
綴はスマホを片手に雑炊を作ろうとしたようなのだが、何をどうしたのかキッチンは酷い有様になっていて、帰ってきてすぐ異臭に気付いた湊によって、その状態が発覚したのだった。
鍋は真っ黒になり、床は水浸し……。
鍋を焦がしたことにより、どうしていいのか分からなくなった綴はひとりで狼狽し、俺はその惨状に開いた口が塞がらなかった。
「それは、すみません……」
その日は結局、俺が雑炊を作って桜に届けてもらった。
申し訳ないが湊にも協力してもらい、任務後の疲れた状態で約二時間かけて掃除しないといけない羽目になったのだった。
「でも、俺も調みたいに作れるようになりたいんだよぉ……」
徐々に小さくなる綴の声。こいつはいつだって、自分より周りの事ばかり。
こいつは、本当に馬鹿なやつだ。そして俺も、それを放っておけない馬鹿だ。
「……わかった。ただし、俺の指示以外では絶対に動かないこと。それが、出来ないなら俺が作って持って行く」
俺がそう告げると、綴は待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。
「……! ありがとう、調」
結局、二人で並んでキッチンへと立つことになり、鍋に火をかけた俺は綴でも出来そうな簡単な作業を任せる。
隣で小さい時の悠や桜のように、俺の動きを真剣に見つめていた。
――確かに、燎が体調を崩すのは珍しい。
記憶にあるのは、燎がリヒトに来てからの数日間の間だけ。高熱に魘されて起き上がることの出来ないほどの頭痛に呻き、泣いていた。
あれ以降、大きな不調を目にすることは減り、能力を完全に使いこなせるようになってからは殆ど見ていないような気がする。
十五年以上一緒にいるが、燎は「見せない」という事が上手い。年齢を重ねるにつれて、なおさら。
本当は、隠していただけなのかもしれない――。
体調を崩しているところよりも眠れない事が多いという印象の方が、俺としては強かった。
母親を自分の能力によって殺してしまった燎は、一時的に不眠症状に悩んでいたことがある。
俺たちが住むアジトは、三階建ての建物だ。
一階はリビングとキッチンが一続きになっていて、そこは賑やかなことが多い。
二階には個人部屋として七部屋、三階にも六部屋あってそれぞれの階に風呂とトイレも設置されてある。
三階には洗濯物を干せるサンルームもあり、そこはよく日差しが差し込む。
地下には鍛錬場も設置されていて、燎や湊は時間さえあればそこで鍛錬をしていることが多い。
建物は長方形の造りをしていて、中央には広い中庭がある。
そこにはプールやハンモックなんかもあって、外部からの視線を気にしなくていいような作りになっているので、悠や桜は小さい頃からよくそこで遊んでいた。
湊や弥が、リヒトに加入するより前――。
今から十四年ほど前までは縁や纏も住んでいたのだが、俺と綴が成人を迎えたのを機に「子守から解放されたい」と笑って引っ越していった。
けれど本当の理由は縁なりの下の子たちへの気遣いだったのだろうと、今では思う……纏は、多分巻き込まれただけ。
今は俺と綴、燎が三階。後の子たちは、二階に部屋がそれぞれある。
アジトは今でこそ笑い声が絶えないほどに賑やかになったが、燎が来たばかりの頃は違った。
縁や纏は日々任務が忙しく、アジトには寝に帰ってくるようなものだった。
そのため俺と綴の二人とまだまだ幼かった桜しかおらず、空室ばかりで常に閑散としていた。
当時、綴は四歳になったばかりの桜の面倒を見ることに必死だった。
初めてだらけの慣れない子育てに追われて、正直余裕なんてなかったと思う。
燎の事も気にしていたようだが自分の事に加えて、一日中桜の世話をして夜は寝かし付ける。
そして疲労からそのまま一緒に寝落ちてしまうような日々の中では、燎が眠れない夜を抱えていることに気付けるはずもなかった。
俺自身、あの時の燎の母親の顔を忘れることができない。
火事の中で苦しんだとするのならば、息も絶え絶えになり、その痕跡が多少なりとも残るはず……顔色も、青白くなると思う。
それなのに眠っているかのような穏やかな表情をしていて、妙に赤く染まった唇と紅潮した頬。
その不自然さが、異様で異常を物語っていて――。
一酸化炭素中毒では、助かる余地はもうどこにも残されていない。血色がよすぎるほどのその姿が、今でも焼き付いて離れない。
あの頃の燎は……自分の能力を嫌っていて、母親を殺してしまった炎を憎みながら、それでも捨てきれずに抱えていた――。
体調はほどなくして回復したが、その能力を使えばまた、誰かを傷付けてしまうのではないか。
燎はそれをずっと恐れていて、俺はその矛盾に苦しみ続ける姿を、何度も見てきた。
まだ幼いその背中に見合わない、あまりに重すぎるもの。
その不安や辛さを俺や綴に悟られないようにと笑って見せていたが、その瞳に滲む迷いや怯えの色は隠しきれていなかった。
だけど、俺にはどう声をかけてやればいいのか分からなくて。
綴のように器用に寄り添えるわけでもなく、気の利いた事を言えるわけでもない。
綴はどんな時でもふわりと笑って、その柔らかい声で迷いや不安ごと溶かしてしまう。
燎だけではなくて、桜や悠には勿論。和や湊、葵や弥が甘えたときも、体調を崩したときも、あいつは迷わず手をのばしてやれる。
そういうことを当たり前にできるのが、綴。
俺にはそれができない。何か声をかければ、その小さな心にさらに重いものを乗せてしまうのではないか。
そんな不安ばかりが先に立ってしまう。結局黙って見守り、必要とされれば手を貸すことしか出来なくて。
そんな時偶々、夜中に目が覚めて喉の渇きを覚えた俺は、水を飲むためにリビングへと降りた。
部屋の照明は落とされているのに、控えめなテレビの音だけが静かに響いている。
不思議に思いながらもソファの目をやれば、体を小さく丸めて膝を抱え込むようにして座る燎の姿――。
「……燎」
「しらべ……?」
「どうした? 眠れないのか?」
「……うん」
声をかける事を、本当は一瞬迷った。綴のように、自然に近づいて慰められる自信が俺にはなくて。
だけど、そのままにすることもできなくて。
「燎、牛乳飲める?」
「……飲める」
「わかった。ちょっと、待ってて」
キッチンへ行き、ホットミルクを用意する。蜂蜜をたっぷり入れて甘くし、少しでも温かさを感じられるように。
「これ……」
マグカップをふたつ持って戻り、片方をそっと差し出せば燎はそれを受け取ってくれた。
俺も隣に腰を下ろし、マグカップに口を付ける。体の中に温かい感覚が通っていくのが分かり、その熱は体だけではなく心にも届いていくみたいだった。
「……ありがとう」
燎は、小さく呟いた。無理に話を聞こうとはせず、少しだけ他愛のない話をした。
甘い蜂蜜が効いたのか瞼が少しずつ重くなり始めた燎を、そっと抱えて部屋へと連れて行く。
ベットへと寝かせ、俺も自分の部屋へ戻ろうとした時。その手が俺の袖を引き留める。
「……しらべ、今日だけ……、一緒に寝てほ、しい」
寂しさの滲む声音。ここで断れるやつは、人間じゃないと思う。
その日は柄ではないが、一緒に眠った。燎の体温に俺もひどく安心できて、いつもより深く眠れたような気がする。
その後、頻度こそ多くはないが燎は少しずつ、甘えてくるようになったと思う。
正直なところ、俺は少しだけそれが嬉しかったりする。
まぁそれは、俺だけの秘密なのだが――。
燎にとって必要なのは、必ずしも言葉ではないということをあの夜知って、最近はそれでもいいのかもしれないと思えるようになった。
綴が輝く光なのだとすれば、俺は影になるのだと思う。光があるから影は際立つし、逆もまた然りだと思っている。
母親を失い、自分の力を恐れていても燎は懸命に前へと進もうとする。
その背中を、俺はずっと見てきた。言葉にすることはできなくても、その重さを分け合うくらいは俺にもできるはず――。
そして燎はリヒトで過ごすうちに、少しずつ変わっていった。
共に過ごす穏やかな時間や、下の子たちが入ってきたことによって生まれた誰かを守りたいという温かな気持ち。
それらが少しずつ、力への抵抗を塗り替えていったのかもしれない。
今ではその力は俺たちに欠かせない主戦力となった。燎は能力に頼るだけではなく血の滲むような鍛錬を重ね、身体そのものも鍛え上げてきた。
あの夜眠れなくて体を小さく丸めていた少年は、今では頼もしい仲間に成長した。
だから燎に稽古を頼まれたとき、正直凄く驚いた。俺じゃなくても、燎なら誰とでも渡り合えるはず。
「調だから、お願いしたいんだけど……だめ、かな?」
そう言われた瞬間、思わず視線をそらしてしまった。俺にだから頼みたい。
そんな真っ直ぐな思いが、伝わってきて目の奥がつんっとした。
母親の事を助けることが出来なかった俺に、燎が頼る言葉をくれるとは思ってもみなかった。
結局、断れるはずもなく俺たちは向き合う。
「じゃあ、始めるよ」
俺はそう声をかけながら、自然と口元が緩んでいた。
互いに汗を散らしながら、何度も間合いを詰め、受けて……返して。
攻撃を繰り出すたび、その精度は上がっていき動きは鋭くなる。
やがて一通りの稽古を終え、肩で息をしながらタオルで汗を拭っていた時――。
隣で同じようにしていた燎が、ふとこちらを見て言ったのだった。
「あのね、調。その……あの時、俺のことを助けてくれてありがとう」
その言葉に思わず、手の動きは止まってしまい、燎の方へと視線を向ければ、真剣な眼差しに射抜かれる。
「……っ」
――それは事故が起こったあの日の事か。
――それとも一緒にホットミルクを飲んだことか。
燎がどれの事を指しているのかはわからない。
滅多に揺れないはずの俺の心は、いとも簡単に揺さぶられてしまい、涙へと変わる前に顔をタオルで覆い息を整える。
――余計な感情を見せてしまわないように。
「……あぁ」
返事をしようとしたが喉が詰まったように声が出なくて、そう答えることが精一杯だった――。