永遠の世界から救い出してくれた、心優しいヒーローの話。
今回は、綴視点のお話になります。
桜をいつも通り見送った後。一息つけば、感じる視線――。
「綴、お前まだ本調子じゃないだろ?」
「……なんで、調は気付いちゃうかなぁ」
調にはいつもすぐに気付かれてしまう。
「何なら、食べられそう?」
「うーん、そうだなぁ……うどんが食べたいかな」
「ん、わかった。ちょっと待ってて」
少しそっけないと感じる態度の中にある、大きな優しさ。
出会ってから変わることのないその温かさに、こういう時はとても安心させられる。
調は、俺の事をもしかしたら俺よりわかっているかもしれない。
初めて出会った、あの時からずっと――。
「綴、出来たよ」
「ありがとう、調」
ことん、と音を立てて置かれた小さめの器からは、ふわりと温かな湯気が立ち上っている。
控えめに盛り付けられたうどんの上には、鮮やかな緑色の葱が散らされていてかつお出汁の優しい香りが、鼻をくすぐってきて心が温かくなる。
俺が体調を崩してしまうといつも作ってくれる、変わらない優しい味。
「ねぇ、何で調は俺が調子悪い時、すぐ気付くの?」
「それを言ったら、お前は隠そうとするから教えない」
食べながら聞けば、ぴしゃりと言われてしまった。
「綴は、人に甘えることを覚えろ」
「えー? 俺、十分みんなに甘えてない?」
「そうだったら、体調悪いの隠したりしねぇんだよ」
「……だって、いらない心配かけたくないし」
「ったく、わかってないなお前は……」
なぜか、ため息をつかれた……。調は諦めたように、キッチンへと戻っていく。
調とは、俺が昔いた孤児院で出会った。
といっても孤児院は表向きのもので、実情はギフトを人工的に生み出すための研究施設。
俺は元々能力覚醒をしていなかった。
だがそこで能力付与の為のディミナス実験の被検体として選ばれた俺は、人工的に物質形成の能力を植え付けられた。
俺の一番古い記憶は、研究室の水槽の中。
ガラスの向こうには、ぼんやりと白い服を着た大人の影。
――さみしい。
――つめたい。
膝を抱えて丸まっていても体に貼りついた管や電極は冷たく、水を漂うたびに肌が引っ張られて痛い。
口と鼻を覆うマスク。それに繋がれた管が今の俺の命をつないでいる。
ごぽ……ごぽっという自分の呼吸音が、耳の奥に響く。
息を吸うたびに、薬の苦い匂いが肺まで染み込んでくるようで気持ちが悪くて。外したい、だけど外したら、ここで息は出来なくなる。
何度も「出して」って叫んだけれど、声は水の中では音になどならず、吐きだす息と一緒に泡となり消えていく。
――ぱちっ。
刹那、全身を貫く電流。心臓が潰れてしまいそうなほどの苦しみ、手のひらから血の泡が浮かび上がり、体が痺れる。
声を出そうとしても、水の中ではただ喉を震わせるしかできない。
何度も、何度も……。何度も繰り返される地獄。
「まだ反応が弱い。出力を上げろ」
「壊れるかもしれないぞ」
「問題ない。替えはいくらでもいる」
遠くで交わされる会話。流れる涙は水に溶けて、誰も気づいてくれることはない。
俺は必死に水の中で藻掻く。だけど周りの大人は、誰も助けてくれることはなくて。
ずっと暗い水の牢獄に閉じ込められて、俺は気付いた。自分にはなんの価値もなく、ただ「消費」されるだけの存在なのだと。
感情というものは日が経つにつれて薄く、弱くなっていく。
泣いたり、怒ったり、恐怖を感じたり。そんな感情がなくなってしまえば、少し楽になった。
そしてある日、必死に手をのばしたとき。手のひらから小さな金属片が発生し、カランと小さな音を立てて水槽の底へと落ちていった。
俺は怖くて手を引っこめた。今起こったことが上手く理解できなくて。だけど、外の大人たちは初めて俺の事を見た。
「……成功だ」
水の中ではこもって聞こえるはずの声。そんな状態でも喜びが滲んでいるのが分かる。
物質形成の能力が目覚めたことにより、俺は水槽の中から解放され自由になれたんだと思っていた。
だけどそれは解放なんかではなくて、また新しい苦しみが始まっただけだった。
それからは真っ白な部屋に入れられて、指示されたものを創り出す毎日。
日に何十時間もやらされて、頭が朦朧とする中気絶するように眠りにつく。
そんな途方もなく長い時間を、永遠に繰り返す。
震える手をのばし目の前に物質を形作ると、こめかみの辺りの血管が激しく収縮し強い痛みを伴う。
視界は霞み、ぐわんと回る。
頭が痛くても、手が震えても、作らなければいけない。
――それが絶対。
何かを考える余地なんて俺にはどこにもなく辛いとか苦しいという、感情は忘れてしまったと思っていた。
そんな辛い実験の中でも時々、ほんの少しだけテーブルと椅子のある小さな部屋に入れられることがあった。
俺にとって、何もしなくていい時間というのはとても貴重だった。だから、そこではただ座って体を休めることができる。
そこで過ごす時間が唯一の救いだった。
いつ、そこへ行っても数人は部屋の中にいたが「話すな」と言われたわけでもないのに、不思議と口を動かす気にならなくて。いつも部屋の隅に座り、じっとしているだけ。
けれど、ある日。
「お前、名前は? いつからここにいるの?」
不意にかけられた言葉に、心臓が跳ねた。
俺と同じくらいの年齢だと思う……。雪のように白い肌に、少し青みがかったような黒髪。
「俺の名前……は、えっと綴……いつからいるのかは、分かんない」
自分の名前を聞かれるなんて思いもしなくて、その音を口にしたのはとても久しぶりだった。
「綴は、ここに連れてこられたわけじゃないのか?」
「それが、よく、わかんなくて……俺、外の世界を見たことがなくて」
「え……」
「じゃあ、どうやって……親、とかは?」
「……分からない。自分の事も殆ど分からない、ただ毎日能力を使うだけ……俺はここから出たら駄目だって言ってた」
目の前の子は一瞬だけ顔を不思議そうに顰めたけど、すぐにその表情は元に戻った。
しばらく何かを考えた後、彼は少し声を落として聞いてきた。
「綴、どうしてお前は此処にいるのか、少し考えてみろよ」
「俺が、ここにいる理由……?」
どうして――?
その言葉に、心が揺れた。そんなこと……考えたこともなかった。いや、無意識下で考えないようにしていたのかもしれない。
「そう、何で此処にいないといけないんだと思う?」
命令に従うため? ずっと水槽の中で痛い事をされて、寂しくて――。
考えれば考えるほどに、胸はざわついて違和感のようなものが広がっていく。
「なんで、だろう? 俺は、何でここにいるの?」
この子は、命令とかではなく俺の言葉を引き出そうとしてくれる。
考えているうちに頭の中の何かが、ひび割れていくような音が聞こえた――。
その時だった。
「おい! 二十四番、時間だ! 早くこっちへ来い!」
扉が開き、白い服の大人たちが数人入ってくる。
「どけっ! 邪魔だ!」
目の前の彼は、俺へと手をのばしてくれたが突き飛ばされてしまう。
大人の強い力で俺の肩を掴み、座っていた椅子から乱暴に引きはがされる。
「あっ……ゃだ、たすけて」
咄嗟に出た本音――。まだ俺は彼に質問の答えを返せていない。せっかく俺なんかに声をかけてくれたのに。
遠ざかっていく視界の中で、彼の瞳だけが俺の事を見ていて。
答えを出すことが出来なかった。
俺はまた真っ白な部屋に戻されて、同じように命令を下される。
いつも通りの決められた形を創り出す単純な指示。
ただそれだけ。
いつもなら迷いなんてなく形作るのに、なぜかどうしてもそれが上手く出来ない。
――綴、どうしてお前は此処にいるのか、少し考えてみろよ。
その言葉が耳の奥で、何度も再生される。
どうして? 俺は何でここにいるの?
息が上手く吸えているのかが分からなくなってきて、手がいつもとは違う理由で震えてしまう。
創り出したものは、いつもより少し歪んでしまった。
周りの大人たちは眉を顰め、手元のバインダーに何かを記入しているのが見える。
「集中しなさい」
無機質で温度の感じられない声。
それに従おうと必死に目を閉じても、先程のあの子の問いが頭から離れてくれない。
――俺は何のために、ここにいるのか。命令されて言われたものを創り出すため?
――それとも間違ってるの?
答えは出ないのに、胸のもやもやは大きくなるばかりで……。
あの問いかけの答えを見つけられないまま、時間は過ぎていった。
――どうして、ここにいるのか。
一度、それを考え始めれば胸の奥が締め付けられるように痛くなる。
ただ与えられる命令をこなす日々に疑問を抱いてしまった今。あの子と会う以前のように、静かに心を鎮めることが出来なくなってしまった。
彼の言葉が、俺の心をこの世界へと引き戻す。
彼と、もっといろんな話をしてみたい。あの時の強い光を放つ瞳を忘れることが出来ない。
次、あの子に会えるのはいつか分からないし、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
だけど抱いてしまった希望は、胸の奥にずっと眠っていた感情をいとも簡単に起こしてしまう。
――どうして、俺は従わないといけないのだろう。
ふと、そう思ってしまったらもうだめだった。
感情がじわじわと戻ってくるような感覚がして、苦痛を思い出した俺はそこから逃げ出した。
もう限界だと思った――。寒くて、痛くて、寂しい。そんなのは、いやだ。
無我夢中で走り、気付いたら俺の手には金属製の棒。それを使って制御システムの核になる機械を目一杯の力で叩き壊す。
――これで、他の子も逃げられるはず……。
警報が鳴り響き研究員たちが慌てふためく中、俺は必死で走りその場から離れた。
全身が恐怖で震えてしまい、心臓の鼓動が耳元でガンガン鳴っているのが聞こえる。
身を隠しながら、必死にあの子の姿を探す。背後からは、怒鳴り声と複数人の足音。
次の瞬間、破裂音のようなものと共に俺のすぐ横の壁が砕け散った。
――銃だ。
心臓が喉元までせり上がる。
俺は咄嗟に応戦しなければと同じものを創り出す。だけど、撃つことは出来なくて……これは人を殺してしまうかもしれない凶器。
その銃口を人に向けることが怖くて――。
俺は何とか銃弾を交わしながら物陰へと隠れ、荒くなる息を抑えて必死に考える。
どうすればいいか考えろ……。どこへ逃げれば――。
「綴!」
その時、声がした。そこには、会いたかった彼の姿。
「えっ……」
「しーっ! 大丈夫だから、声を出すな」
また、会えた――。
「君は……」
そういえば、彼の名前を聞いていなかった。
「俺は、調。ここから逃げるぞ、綴」
――しらべ。
「……どうして? ……どうして調は、俺を助けてくれるの……?」
調はなぜ、こんな俺の事を気にかけてくれるの? 何で俺を助けてくれるの?
「さぁな、俺にも分からない。だけど、ひとつ言えるのはお前だから……かな」
その言葉に、初めて誰かから存在を認めてもらえたような気がした――。
視界が滲んでしまい、俺は咄嗟にそれを隠すため下を向く。
あの日、あの時。俺の世界にヒーローである調が現れたから、俺の時間の流れは永遠じゃなくなった。
俺はずっと物を創り出すだけの道具で、能力入れておく器で――誰にも望まれてなんていなかった。
なのに今、目の前にいる調だけは違う。俺はここにいてもいいのだと、言われているようで。
「とにかく今は逃げよう、綴」
「そうだね、行こう、調」
――初めて、俺は誰かに必要とされた。
「綴っ! こっちだ、行くぞ!」
あの時、のばしてくれた手を離すまいと必死と握り返した。
その手は物理的には少し冷たいのに、なぜか不思議と温かくて。
あのぬくもりを今でも俺は、忘れることができない。
「ねぇ、調。あの時、俺に声をかけてくれてありがとう」
「何だ急に……礼なんていらねぇよ。俺が綴と話してみたかっただけなんだから」
「ほんと、調は俺のこと大好きだねぇ」
「……勝手に言ってろ」
「そこは、素直に好きって言うところでしょー?」
呆れたような顔を見せてくる調。
「はいはい、好きですよ、綴くん」
「もぉー。さては俺のことめんどくさくなったなぁ」
二人して吹きだす。こんなくだらないやり取りですら楽しくて――。
俺がここにいられるのは、間違いなく調のおかげ。
「……綴、お前のその……いや、何でもない。忘れてくれ」
「もうなにぃー? 凄い気になるじゃん」
「何でもねーよ。さっさとそれ食べて寝ろ」
「……はーい」
俺の体調不良の原因に、調は気付いているのかもしれない――。
ギフトの能力には絶大な力があれば、ある程にサクリファイスという代償が必要になる。
糖分や水分、酸素といった体内に必要不可欠なもの、血液のような体内組織に分類されるもの。
睡眠といった生命活動に必須なものや、見た目に影響するもの等、その内容は様々である。
――不完全で、未完成な能力。
稀に葵のようにサクリファイスが必要のないギフトもいるが、全体で見ても僅かにしか存在しないギフトの中でも、さらにその数は絞られる。
そして、それは本当に必要がないのか、現状まだ発覚していないだけということなのか。それは誰にもわからない。
過去にはサクリファイスが「存在」そのものというギフトも確認されている。
生まれついての寿命が極端に短いかわりに、能力の制限が掛からなかったようで、そのギフトは覚醒後三年で亡くなってしまった。
只でさえ、完璧ではないギフトたち――。
それが人工的に付与された能力となれば、その不完全さはさらに上がり、未完成品に限りなく近づく。
俺は能力を使えば使うだけ体力を消耗してしまい酷い時には、鼻血や吐血などの大きな反動がくる。だから、今回のようにすぐ体調を崩す。
恐らくだが、俺のサクリファイスは……「命」そのものなのだと思う。
確証はないのだが、自分の体の事は自分が一番分かる。
それに能力を使った日は、決まって同じ夢を見るのだ。
真っ白な部屋に佇む俺の足元には数えきれないほどのたくさんの煌めく星が落ちていて、毎回決まってひとつその星を手にしている。
能力を使いすぎた日は、手のひらサイズくらいの大きなもの。あまり使わなかった日は、飴玉サイズの小さなもの。
色とりどりの美しい見た目とは対照的に、それらは口に入れると微かに血の味がする。ざらりとした甘さの奥にある、顔を顰めてしまうほどの強烈な苦味。
「あまい……のに、にがい」
だけどそれを口に運ばない限り、目覚めることは出来ない。
それを夢の中で俺は、涙を溢しながら食べるのだ。
いつもそこで目が覚めて、朝を迎える。起きたとき必ず、俺の目からは涙が流れている。
そして能力を使用し夢を見る度、足元にころがる星は少しずつ減っていく。
研究室にいた頃は、薬の影響も大きかったのか夢を見る事なんてなかった。
だから外の世界へと出て初めてその夢を見たときは、怖くてたまらなくて。当時の俺はひとりで抱えていられなくて、怖い夢を見たと言って縁に泣きついた。
リヒトに加入してから能力を使う機会はめっきり減り、しばらくその夢をみることもなく、俺は平穏に過ごしていた。
普通の日常というのは俺にとって凄く新鮮で、忘れてしまっていた。
そして縁の任務に同行した日、俺は数カ月ぶりに能力を使った。
その夜、またあの夢。翌日、目覚めたときに唐突に理解してしまった。
夢の中の星は俺の命そのものなのだと――。
夢の内容は、言えなかった。なぜかこれを話してはいけないような気がして――。
そして俺は今だにその事を、調にすら話せていない。話さないといけないということは、分かっている。
「綴、もし……何か悩み事でもあるなら、俺にくらいは話してくれよ。いつでも聞くから」
「ありがとう、調は優しいねぇ。でも今は特に悩みないからなぁ――」
本当は言いたい。全部打ち明けてしまいたい。
だけど只でさえ色々なことに神経を使っている調の負担をこれ以上、増やすような事をしたくなかった。
調が俺の命の終わりを知れば、優しい彼はきっと無茶をする。俺のことを守ろうとして、自分を犠牲にしてしまう。
だから言えなくて、今も隠し続けてしまっている。
話せばきっと怒られるし、止められてしまう。
本当はあの時のように、助けてほしい。けれど、俺はそれを望んではいけない。
俺は桜や悠、弥のような子をこれ以上増やさないように、前線に立ち続けなければならない。
だから俺は心の奥で生まれた葛藤を、密かに噛み殺し続ける。
――ごめん、調。
眠りにつくとき、打ち明けることの出来ない痛みに見ないふりをして俺はいつも静かに目を閉じるのだった。