6-④
穏やかな寝息。
眠ると少し幼く感じる。
アウルはマデリンをソファに横たわらせた。
ベッドに運ぶこともできたが、それはしてはいけないような気がしたからだ。
目が覚めた時、マデリンが嫌がるだろう。
彼女は大胆な性格に見えて、実のところ繊細なところがある。
アウルは上着を脱いで眠る彼女にかけた。
アウルはそっと部屋を出る。
ちょうど、侍女が戻ってきたところだった。
「アウル様? どうなさいました?」
侍女は不思議そうに首を傾げる。
アウルは愛想笑いを浮かべた。
「マデリンは疲れて眠ってしまったらしい。そのあいだに侯爵に挨拶に行こうと思って」
「そうだったのですね。でしたら、ご案内いたします。先ほど旦那様もお帰りですので」
「ああ、よろしく頼む」
アウルは前を歩く侍女の後ろをついていった。
侍女はちらりとアウルを見ると笑を浮かべる。そして、小声で言った。
「ご馳走様でした」
「いや。喜んでもらえたならよかった」
「あんな素敵なスイーツ、私たちはふだん食べられませんから」
侍女は嬉しそうに目を細める。スイーツの味を思い出しているのだろうか。
「アウル様がお嬢様の婚約者になって本当によかったと思っています」
「なぜだ? 前の婚約者のほうが地位が高いだろう?」
侍女は仕える主人の身分によって地位が変わる。
マデリンの地位が上がれば上がるほど嬉しいものではないのか。
「そうかもしれませんが、お嬢様は毎日つまらなさそうでしたから」
侍女は困ったように眉尻を落とした。
「ですが、今は毎日楽しそうなんです。ですから、アウル様でよかったです」
侍女は控えめに笑う。
言いたいことを言って満足したのか、彼女はまっすぐ前を向いて歩いた。
アウルはそんな彼女の背中に、一つの疑問をぶつけた。
「あの傷は、昔からなのか?」
アウルの質問に、侍女の足が止まる。廊下の真ん中で立ち止まった侍女は俯いた。そして、絞り出すように言う。
「五年前からです」
「五年前……」
それはマデリンが婚約をした年。
「正確には、大旦那様が亡くなってから……ですね」
侍女は眉尻を落とす。
「お嬢様が猟銃店に行かれるたびに。今は、狩猟に関わることがあるたびに」
「そうか……」
そんなに昔から。
どうりで古い傷あとが残っているはずだ。
アウルは拳を握りしめた。
強く握りしめすぎて、爪が手のひらに食い込む。
「このことはお嬢様には言わないでください」
「わかっている。マデリンは秘密主義だからな」
アウルはおどけて笑ってみせた。少しでも侍女が笑顔になるように。
侍女は困ったように笑う。
「安心してほしい。もう、そんなことにはならない」
この事実を知ってなお、同じことを繰り返させるなど考えられないことだ。
もう二度と、マデリンの肌に傷をつけることを許すつもりはない。
侍女は深々と頭を下げる。
「どうか、お嬢様のことをよろしくお願いします」
「言われなくても。もし、何かあれば教えてほしい。些細なことでも何でも」
「何でもですか?」
「ああ、そのための賄賂だ。ほら、マデリンは秘密主義だろ?」
アウルは笑う。
侍女もつられて笑った。
「賄賂を頂いたので、しかたありませんね」
「そう言ってもらえると助かる。君が私のところに来る未来がないほうが幸せだが」
アウルは眉尻を落とす。
何もないまま、マデリンがルート家に来れればいいと思う。しかし、そう単純な話ではない。
侍女は再び歩き出した。アウルはその後ろを追いかける。
マデリンの父――トルバ侯爵は執務室でアウルを迎え入れた。
「やあ、アウル君。娘のところに来ていたのか」
「ええ、侯爵。お久しぶりです。侯爵が帰宅したと聞いて、挨拶に来ました」
アウルは愛想笑いを浮かべる。
「狩猟大会の話は聞きましたか?」
「ああ、準備が大変だから、何度も行うのはやめてほしいものだよ。まったく」
トルバ侯爵は心底面倒そうにため息をついた。
狩猟を好まない人間に、狩猟大会の準備は億劫なのだろう。
ほとんどの準備は夫人や使用人がするとしても、参加をするのはトルバ侯爵本人だからだ。
「今回はマデリンとの参加を考えています。もちろん、貸していただけますよね?」
アウルは笑みを崩さずに尋ねた。
マデリンの意思を尊重しないこの問は、あまり気持ちのいいものではない。しかし、彼女を所有物のように扱うこの男には適した言い方なのだと思う。
トルバ侯爵の眉がピクリと跳ねた。
「娘はもう五年も馬に乗っていない素人だ」
「ええ、知っています。先日一緒に狩りにでかけましたが、昔のようにはいきませんね」
「なら、連れて行くのはやめたほうがいいだろう。恥をさらすだけだと思わないか?」
「下手だからといって恥にはなりませんよ」
トルバ侯爵は鼻で笑った。
「そんなに娘と大会に出たいか?」
「ええ、婚前の大きなイベントはこれくらいでしょうし、嫌なイメージを払拭したいんですよ」
「嫌なイメージ?」
「知っているでしょう? 私たちが『捨てられた同士の結婚』と裏で言われていることくらい」
トルバ侯爵はアウルの言葉に顔を歪めた。
アウルの耳にも入っているのだ。彼の耳に入らないわけがない。
マデリンだって知っている可能性がある。アウルとマデリン、それぞれの婚約破棄の理由は誰もが知っている。
そんな二人が結婚するのだ。噂になって当然だった。
「二人で狩猟大会に参加していい成績を残せられれば、そんな噂もなくなるでしょう」
「そんなうまくいくものか……」
「やらないよりはいいでしょう?」
アウルが強い口調で言うと、トルバ侯爵は顔を歪めながらも不承不承と頷く。
アウルは笑みを浮かべた。
「よかった。これで気兼ねなくマデリンを誘える。では、お邪魔しては悪いですから、私はこれで」
アウルは頭を下げると、部屋の扉に手をかけた。しかし、ドアノブを回す前に、わざとらしく声を上げる。
「ああ、忘れていた」
「まだ何かあるのか?」
「ええ」
アウルはもう一度トルバ侯爵に近づくと、笑みを深めた。
「狩猟大会まで、マデリンに怪我をさせないように注意してください」
トルバ侯爵な頬がピクリと動く。
返事を待たずにアウルは部屋を出たのだ。
***
マデリンはふわりとあくびをした。
まだ頭がふわふわとしていている。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「私……眠っていたのね」
マデリンは起き上がる。肩からパサリと服が落ちた。アウルの上着だ。
「アウルは?」