いわゆる悪役令嬢の子孫の話
サブタイ「運命は酒場に落ちていた」
自由に、気高く、孤高に。
それがリストランテ家の家訓である。
その昔、政略的に結ばれた婚約者を他の女にとられて身を滅ぼした先祖の、末代まで語り継ぐようにという遺言のあった教訓だ。
晩年の彼女は、当時の自分を振り返って大層後悔したという。
――なぜあんな浮気男をいつまでも引きずっていたのだろう、と。
先祖曰く、婚約者の男は、先祖と婚約中の身でありながら他の女性と深い関係になり、最終的には邪魔になった先祖を罠に嵌めて婚約破棄したらしい。
謂れのない罪で婚約を破棄された先祖は、その後散々な目に遭い、それでもしばらくは元婚約者を忘れられず、最後は家を継ぐために両親が連れて来た婿をとって子孫を残したのだとか。
ゆえに、先祖は己の子どもたちにこう語った。
『心を一人の人間に明け渡してはなりません。それは破滅への一歩。よいですか。どんなときも信じられるのは、己のみと知りなさい――』
「――というわけで、その先祖が亡くなったあと、うちには裏家訓というものができたんです」
「裏家訓?」
セラの話を面白そうに聞いていた男が、なんだそりゃという呆れ顔で復唱した。
男の手にはウィスキー入りのグラスが握られ、中の氷がカランと音を立てる。
店内には多くの客が酒や料理を楽しんでいてそれなりに賑やかだが、男の声はよく通るため、そんな復唱するだけの覇気のない声もしっかりと耳に届いた。
「『結婚は自由に、浅く、ベタ惚れさせた上ですること』」
「ぶっ」
「なかなか面白いでしょう?」
「はは! 面白いなんて話じゃない。傑作だよ!」
男は自身のことをリカルドと名乗った。彼はこの酒場にたまに来る常連客で、とある事件をきっかけに知り合い、以来顔を合わせればこうして一緒のテーブルで呑む仲だ。
金髪が圧倒的に多いこの国で、リカルドは珍しい黒髪をもち、その瞳は雄みの強い鋭い金色をしている。
体格も騎士と見紛う厚みのある身体をしていて、大人の男の色気を惜しみなく漂わせる美丈夫だった。
しかし騎士かと訊ねたセラに対して、彼は「違う」と答えている。
傭兵でも警備隊に所属しているわけでもないようで、その素性は謎だ。
ただ、隠そうとしても隠せていない気品漂う仕草が、彼を一般市民には思わせない。
最初こそ彼の正体を暴こうとも思ったけれど、セラはすぐにやめた。
互いの正体を知らないからこそ、彼と呑むお酒はおいしいのだ。
おそらくだから、彼もセラの名前以上のことは聞いてこない。
「自由に浅く、ベタ惚れさせろ、ね。これまた矛盾が酷い家訓だな。なんでそうなった?」
「自由は言わずもがなよ。もともと政略的な責任があったせいで先祖は浮気男と知っていても逃げられなかったんだから」
「そうだな。セラの先祖のほうが責任感があったらしい」
「そういうこと。で、浅くっていうのは、先祖はたとえ政略的な繋がりだったとはいえ、婚約者のことを本気で愛していたの。それこそ周りが見えなくなって、嫉妬心から浮気相手の女性を害してもおかしくないと思われるほどに」
「……本当に濡れ衣だったんだよな?」
「濡れ衣よ! 後の歴史が何よりの証拠……なんだけど」
「言う必要はない。それを言ったら俺に正体がバレる」
「あら、お気遣いありがとう」
セラは空になったグラスを赤毛の女性店員に掲げながら「リンゴ酒追加で!」と声を張り上げた。
「じゃあ、最後のベタ惚れは?」
「べったべたに惚れてもらってたほうが、そもそも裏切られる心配がないじゃない? あの悲劇を繰り返さないためにも、相手の心を縛りつけろってことね」
「へぇ。自分の心は渡さないが、おまえの心は渡せってことか」
わがままだねぇ、とリカルドがグラスを傾ける。
かれこれ五杯目のくせに、その端整な顔が崩れることも、色が変わることもない。
いつも思うが、彼は随分と酒に強いらしい。
「リカルドのところにはないの。そういうおもしろ家訓」
「家訓は面白さを求めて決めるものじゃないんだよなぁ」
それでも律儀な彼は「んー」と唸りながら考えてはくれるようだ。
彼がお酒を呑むたびに上下する喉仏が艶めかしい。
至る所から香るアルコールの匂いが、セラの思考を奪うように酩酊感を誘ってくる。
多くの客の熱気に当てられて、熱くなった顔を冷ますために手で顔を扇いだ。
夏はまだ始まったばかりのはずなのに、すでに夜気にはじんわりとした熱がこもっている。
額から流れた汗が、そのままつうと喉を下っていく。
鎖骨のあたりで止まったそれをリカルドがハンカチで拭ってくれた。
「俺のところは普通だね。そもそも結婚特化の家訓がある家なんて初めて聞いたくらいだしな」
リカルドがセラの汗を拭いたハンカチを仕舞おうとするので、思わずその逞しい腕を掴んでしまう。
汚いから洗って返したいと思っての咄嗟の行動だったけれど、予想より太く頼もしい腕に胸が高鳴る。
リカルドもまさか腕を掴まれると思っていなかったらしく、目を瞠っていた。
金色の瞳が途端に細まり、その熱の孕んだ眼差しに鼓動がどんどん早まっていく。
互いに無言で見つめ合い、まるで一夜の恋が始まる合図のように二人の距離が縮まっていったとき。
「リンゴ酒お待たせしました~」
酒場は男女の出会いとして多く利用されるからか、男女の艶めいた雰囲気に慣れている店員は二人の間に流れる空気などお構いなしにテーブルに注文の品を置き、空いたグラスを持っていく。
店員がカウンターの奥に消えてから、どちらからともなく噴き出した。
「タイミングが良いのか悪いのか、わからないわね」
「まったくだ。でも、今のはセラを口説く許しをもらったと、そう思っていいってことかな?」
「一夜のお相手として?」
リカルドとはもう何度も一緒に呑んでいる。
なのにこんなあからさまな駆け引きは初めてで、内心ではかなり動揺していた。
「いや、一夜だったらこんなに時間かけないよ」
苦笑する彼の瞳の中に交じる真剣さに、心臓がドキッと揺れる。
(あのリカルドが、私を……?)
リカルドのことは、出会った当初から好ましく思っていた。
以前この酒場で泥酔客に絡まれていた女性をセラが助けに入ったことがあるのだが、生来気の強いセラは泥酔客を逆ギレさせてしまい、あわや殴られそうになったのだ。
入店したばかりのリカルドが咄嗟に庇ってくれなかったら、セラの鼻は折れていたかもしれない。
けれどセラがリカルドを好ましく思ったのは、助けてもらったからというよりも、そのあとにセラの無謀さを叱ってくれたからという理由が大きい。
彼は出会ったばかりの女を本気で心配して、無謀と勇気を履き違えるなと怒鳴ったのだ。
そんなリカルドはやはりモテるようで、『恋人たちの日』には女性からたくさんアプローチされたり――名称と違って好きな相手に想いを伝える日とされている――この酒場で彼のほうが先に来ていると必ず女性客に絡まれたりしている。
女性なんて選び放題だろう彼に、まさか異性として好意をもってもらえていたなんて。
「嬉しいわ、リカルド。私もね、あなたを一夜の思い出にはしたくないし、ここで見る淡い夢にもしたくないわ」
「じゃあ今度、太陽の下で俺とデートしよう。この瑞々しい桃色の髪を、陽の下で見てみたかったんだ」
彼の手がセラの髪をひと束とって、弄ぶように梳いていく。
彼の言動一つ一つに心が浮かれる。鼓動が跳ねる。
だからこそ、その手を取れない。
「ねえ、リカルド。さっきの裏家訓の話、覚えてる?」
「さすがに忘れない。強烈すぎたからな。なに? まさか、それのせいで俺とデートできないって?」
「半分正解で、半分違うわ」
「どういうこと?」
「私、この裏家訓のこと、結構納得してるのよ。本気で好きになった相手に浮気されたら、立ち直れないわ」
「セラは俺が浮気するような男に見える? ――って問い詰めたいところだけど、確かに信じられるわけないか。俺も、セラも、まだ互いに本名すら名乗ってない」
リカルドは降参するように両手を上げた。その手にはいつのまにかセラの汗を拭いたハンカチがなくなっていて、隙を見て仕舞ってしまったのだろうと己の迂闊さを後悔する。
蒸し返すこともできず、とりあえずセラは会話を続けるために頷いた。
「でもまあ、悪い気分じゃない。それって要するにさ、裏家訓を守れないほど、俺に心を傾けてくれてるってことだろう?」
「……まあ、そう、ね」
認めるのは恥ずかしかったけれど、事実なので首を縦に振る。
リカルドが息を呑んだ。
「いや、そうねって…………そこで素直に頷くのか」
えぇー……とリカルドが片手で頭を抱える。
「俺がさ、名前を名乗らないのは、そのせいでセラに逃げられたくないからなんだけど。セラ、俺の名前を聞いても逃げないって約束できる?」
「それは聞かないとわからないわよ」
「うーん、ごもっとも。顔赤いのに全然意識しっかりしてるの、セラって感じ」
「かわいくない?」
「なんだそれ。誰かにそう言われた?」
「ガードが堅すぎるんですって」
「ガードが堅くて偉いよ。誰にでも緩かったら困る」
「もしかしてリカルド、私のこと結構好き?」
冗談交じりに訊いたのに、フッと笑ったリカルドの目は見たことないくらい甘くてたじろいでしまう。
「好きだよ。無鉄砲だが見ず知らずの人間を助けようとする気概とか、話しやすいところとか、俺の話も聞いてくれるところとか。食の好みも、価値観も似てる。一緒にいてこんなに居心地のいい相手は初めてなんだ」
まさかそんなふうに思ってくれているなんて知らなくて、意図せず顔に熱が上った。
「浮気しないっていうのは、言葉じゃなくて行動で示すものだろうから。まずは俺と恋人になろう? セラが裏家訓を大事にしてるなら、俺が君にどれだけベタ惚れかその間にわからせてあげるよ。だからどう?」
気のある相手からここまで口説かれれば、セラも抗うことは難しかった。
けれど、そのためにはもう一つクリアしなければならない問題がある。
それを話そうと思ったら、先にリカルドが続けた。
「で、セラに信用してもらうための初めの一歩じゃないけど、一つ、伝えておかないといけないことがあって。本当はセラをデートに誘うのは、これを片付けてからのつもりだったんだが……あんな雰囲気になって言わないのも男じゃないと思ってさ」
「?」
「実は、まさに今、両親から政略結婚させられそうになってて。誤解がないように言うと、相手は婚約者ですらない。おそらく向こうも急に俺をあてがわれて困惑してるんじゃないかと思うくらい、急にこの話が浮上しててね」
「リカルド……」
「待て引くな。セラの先祖みたいに婚約はしてないから。そもそも話をされたのが三日前なんだ。断ったけど両親が聞いてくれなくて」
必死に弁明するリカルドに、セラは緩慢に首を横に振った。
おそらく顔からは血の気が引いていることだろう。
リカルドのせいでこうなっているのではない。ただ、ただ、全く同じ状況に、びっくりしたのだ。
「実はね、うちの家訓、自由恋愛推奨だけど、ある年齢に達しても結婚する気配がない場合は、家の存続のために例外規定が設けられてるのよ」
「例外規定? ここで話題に上らせたってことは……なんか、嫌な予感しかしないんだが」
「ええ、たぶん想像どおり、政略結婚よ。私も、今度その相手と引き合わされる予定なの」
「婚約は」
「まだよ」
そう答えたら、リカルドがテーブルに突っ伏すように長い息を吐き出した。
なにしょぼくれてんだ、とリカルドの背中を他の常連客が叩いていく。それに文句を言って顔を上げたリカルドが、テーブルに頬杖をついた。
「つまり俺たちは――まあ薄々勘づいてたけど――どっちも貴族か」
「そうね、薄々気づいていたけど」
「どうする。俺はセラがいいし、俺のほうはたぶん断れる話だ」
そっちは? と言外に問われて、視線をリンゴ酒に落とす。
「微妙ね。相手は私より上の階級の次男らしいの」
「階級の問題でセラをとられるなんて冗談じゃないんだが」
頬杖をついたままむくれる彼は、いつもの凜々しさからは想像できないほどにかわいいことになっている。
さっきから思っていたけれど、リカルドは言葉を惜しまないタイプのようだ。それとも、その言葉にいちいち心臓が反応してしまう自分のほうが変なのだろうかと困惑する。
「……セラ」
「なに?」
「今夜、ここの二階で君を奪うのは、やはり最低か?」
この酒場の二階は、宿泊できるようになっている。
宿として旅人が逗留することもあれば、ここで一夜の相手を見繕った男女が使うこともある。
今のリカルドの言葉の意味が後者に近いものであることは、ある程度の性教育を受けているセラにもすぐに察せた。
他の男なら最低だと答えるところだが、お酒では全く顔色を変えなかったリカルドが顔を真っ赤にして言うものだから、それが彼なりの必死さの表れなのだとわかってしまって胸がきゅうっと甘く痺れる。
不意に手を握られて、ああもうだめだと、その色気に目眩がした。
「最低じゃ、ないわ。できれば奪ってほしい……けど」
「うん」
「後ろめたい気持ちがあると、その、あなたに集中できないだろうし」
「あ、ああ」
「頑張って幻滅してもらってくるから、一週間後、またここで会いましょう? ちゃんと片付いたら、そのときは私からキスするから」
「っ……セラって、意外と大胆だよな」
リカルドが口元に手を当てて言う。
「リカルドは意外と初心よね」
だって、いつも余裕綽々としていた彼がこんなに頬を染めるところなんて、想像することもできなかった。
「うるさい。セラからどう見えてるか知らないが、これでも初恋なんだ」
「え、その顔で!?」
「その顔って……まあよく言われるけど」
そうだろうと思う。むしろ百戦錬磨の顔つきだ。
でもさすがに失礼だったかなと思い直して謝ろうとしたとき、彼が思い出し笑いをするように噴き出した。
「でも、セラは本当に素直だな。その顔でって……ははっ。みんな思っても言わないのに」
「ええ、今のはちょっと正直すぎたわ。不快に思ったならごめんなさい」
「いや、そこがいい。そんなセラだから、得がたいと思ってる。セラに恋をして初めて、自分の好みがこういうタイプだったのかって知ったくらいでさ。そりゃあ、初恋が遅くなるわけだよ。俺の周りにセラみたいな女性はいないし」
納得のいくような、いかないような。
「貴族じゃなければいそうだけど」
「ああ、確かに。これでも結構いろいろな町に行ったことがあるから、他に出会わなかったわけじゃないのは確かにそのとおりだ」
それでも、と彼は続けて。
「セラの仕草がいちいち俺のツボなんだよなぁ。食べ方は綺麗だし、笑うポイントも同じだし。そういうのを総合的にみると――ほら、得がたいだろ?」
ふと手を差し出されてリカルドを見上げると、いつもの彼の、悠然とした笑みが視界に映った。
あるいはそれは、どこか挑発的でもあって――。
「約束だ。一週間後、またここで。そのときには互いに自己紹介から始めよう」
「ええ。お互いに頑張りましょう」
*
太陽がぎらつく昼下がり。
リカルドに褒めてもらった桃色の髪を、ひと昔に流行って今は逆に忌避されているぐるんぐるん巻きにして、濃いめの化粧を施し、その化粧で眦を吊り上げ、目が痛くなるほどのきらきらドレスを着て、セラは――セラフィーナ・リストランテ侯爵令嬢は、決戦に備えた。
今日は件のお見合いがある日である。
相手はずっと後学のために世界を巡っていたらしい第二王子、グレンヴィル・デスタ・シュトラード。彼の兄である第一王子が立太子したのを機に、国に戻ってきたという。
そのため、第二王子についてわかっていることは少ない。
彼がどんな女性を嫌うかもわからなかったのでとりあえず誰が見ても酷い格好をしてみたが、普通に緊張する。作戦どおり破談になれば重畳だが、変に激怒されたらどうしようかという不安が消えない。
ちなみに、こんな格好をしていることはもちろん両親には内緒だ。
お見合いは侯爵家で行われるが、両親には同席しないよう言い含めている。
まあ、今日はお茶会という名のお見合いなので、そこまで堅苦しいものでもないけれど。
協力してくれた赤毛の侍女とともにテラスへ出ると、テーブルセッティングのされた椅子へと腰を下ろした。
パラソルが日差しを遮ってくれているとはいえ、やはり夏の昼中は暑い。
しかしだからこそ、場所をテラスにしたのだ。これなら第二王子も早く帰りたくなるだろう。
(ふふ。完璧だわ)
第二王子が来るまで、少しだけ時間がある。
その隙を狙って、侍女のカロンが話しかけてきた。
「お嬢様、何かあればすぐに私を呼んでくださいましね! 本にしか興味のなかった引きこもりのお嬢様が、ようやっと好い人を見つけたんですもの。タイミングが悪くて今回のお話は断れなかったようですけど、お嬢様には、ぜひあの方と結婚してほしいと思っておりますので」
「ありがとう、カロン。万が一のときはお願いね」
カロンがリカルドのことを『あの方』と口にしたのには理由がある。
実はセラフィーナがたまに通っているあの酒場は、カロンの家族が経営しているところなのだ。
たまに人手不足でカロンが店員として駆り出されることもあり、セラフィーナは最初、それに便乗して息抜きをしていたに過ぎなかった。
だからカロンだけはセラフィーナに想い人がいることを知っていた。
ただ、あまりにも人気の男だったから、自分なんかを好きになってくれることはないだろうと半ば諦め、友人というポジションで満足していた。
それがなんの奇跡か、彼からアプローチを受けて、このチャンスを絶対に逃さないと決めたのだ。
やがて王家の紋章付きの馬車がアプローチに着いた知らせが届き、いろんな緊張で吐きそうになる己を叱咤しながら王子を待つ。
そうして離れた場所に控えるカロンから王子の到着を目で合図され、椅子から立ち上がると、頭を下げた状態でポーズを取った。
視界に上等な靴が入り、ついに戦いのときが来たとごくりと唾を呑み込んだとき。
「面を上げよ、リストランテ侯爵令嬢。楽にしてくれて構わない」
一瞬、その声に引っかかりを覚えたセラフィーナだったが、第二王子の命令どおり顔を上げる。
(さあ、幻滅作戦その一! 直視するのも躊躇うほどの化粧の濃い顔を見なさい!)
その意気込みのままやる気に満ちた表情で、相手を視界に入れた瞬間――。
「「……えっ?」」
思わず、間抜けな声が出てしまった。
でもそれはセラフィーナだけではない。セラフィーナの声に重なって、第二王子からも素っ頓狂な声が聞こえてきた。
いや、違う。第二王子というか……。
「リ、リカルド、よね?」
「その声……やっぱりセラかっ?」
瞬間的な間を置いて。
「「なんでここにいる(の)!?」」
二人の叫び声が重なった。
「セ、『セラ』ってまさか、セラフィーナだから!?」
「待って待って。やだ、リカルドこっち見ないで!」
「え!? 俺が何かしたかっ?」
「そうじゃなくてっ。カロン! カロン来て!」
両手で必死に自分の顔を隠しながら名前を呼ぶと、慌ててカロンが駆けつけてくれる。
彼女はとても有能なので、セラフィーナが自分の顔を隠したがっていることに気づいて近くのテーブルから素早く抜き取ったテーブルクロスを持ってきてくれた。
ありがたく受けとって、自分の顔に当てる。
そこでようやく落ち着きを取り戻した。
「あの、本当にリカルド、なのね?」
「あ、ああ。そういう君は、セラだよな? なぜ顔を隠す?」
「だって……! わ、私、第二王子殿下に嫌ってもらおうと思って、その、だいぶ酷いお化粧をしているから……」
沈黙が流れる。
午後のうららかな空気が今はとても居た堪れない。
テーブルクロスの隙間から様子を伺おうとしたが、それより早くリカルド――改めグレンヴィルが沈黙を破った。
「それは、俺のためか?」
「~~っそうよ。それ以外あるわけないじゃないっ。でもまさかグレンヴィル殿下がリカルドだったなんて……思わないじゃない~!」
「ははっ」
「笑いごとじゃないんだけど!?」
相手は王子殿下なのに、つい酒場で会うリカルドと同じ態度をとってしまう。
「そうよ、そもそもなんで王子が下町の酒場にいるのよ……!」
「それは同じ疑問を君にも返すがな。むしろ男の俺より侯爵令嬢のほうが問題だろう? 酒場に来るんだから、高くても子爵家までだと思ってたのに」
よっ、と小さく呟いて、グレンヴィルがセラフィーナを横抱きにした。
驚きのあまり顔に当てているテーブルクロスを外してしまいそうになったけれど、それだけは死守する。
「見せたくないなら構わないが、たぶん見てもかわいいとしか思わないんじゃないかな」
「絶対嘘よ」
「嘘じゃないさ。顔というより、そんな作戦で乗り越えようとしてくれていたセラフィーナの行動がもうかわいすぎて、何を見てもかわいいと思う自信がある」
「…………」
しばらく考えてみたが、でもやっぱりそれとこれとは違う気がして、テーブルクロスを取ることはしなかった。
「ところでリカルド、どこに向かってるの?」
「もちろん、このまま婚約の許しを得るためにご両親の許へ」
「え!? このまま!?」
「まずい?」
「まずいわっ。両親には内緒の作戦なの」
ということで、彼にはセラフィーナの自室へ方向転換してもらう。
その道すがら、テーブルクロス越しの額に何かを押しつけられたような感覚がして、セラフィーナは内心で首を捻った。
「リカルド?」
「ん?」
「あの、約束のキスなんだけど、数日早めても、いいかしら」
本来なら三日後が、その約束の日だった。
また、額に何かが触れる。
「セラのそういうところがツボなんだ。俺も待てそうにないから、ぜひおねが――」
彼が言い終わらないうちに、テーブルクロスから抜けだして彼の頬に唇を押しつけた。しゅっとしている彼の頬は、見た目どおり少し固い。
「……続きは、お化粧を直したらね」
「~~わか、った……!」
かわいすぎる、という彼の呟きは、恥ずかしいので聞こえないフリをしたセラフィーナだった。