ヴィルニア村:2
はぁ、はぁ、はぁと、自分の荒い息が頭の中で反響する。
目の前にはベッドに寝かされている包帯に全身を巻かれた男性と、ベッドの隣で立つ女性がいる。
彼女はさめざめと泣いている。その泣いている声や音は聞こえない。ただ分かるのは、その女性が男性に対して涙を流していることだけ。
嗚呼、またか、と。
最早諦めに近い感情で、その光景を見つめる。
やがて、男性に向けられていた女性の目が、こちらを向いた。
涙をボロボロと流した彼女の目が、こちらを見た途端吊り上がる。
そして彼女は、こちらを指差して叫ぶのだ。
――お前のせいだ!、と。
「ッい」
ドタッ!と、ベッドから転げ落ちる。冷たく硬い木目の床に身体を強く打ち付けた彼女は、あまりの痛みに歯を食いしばりながら悶えた。
そんな痛みに悶える彼女の上に、パサリとシーツがかかる。全身を覆ったシーツに煩わしそうに顔を振った彼女は、まだ痛む身体を徐に起こした。
全身にかかっていたシーツは彼女が身体を起こしたことで頭から床に落ちる。途端、カーテンの隙間から洩れている陽の光が彼女の顔にかかり、その眩しさに彼女は顔を顰めた。
眩しさで霞む視界だったが、それは時間が経てば慣れていく。少しだけぼうっとすれば、ぼやけていた視界はその頃には明瞭になっていた。
はく、と大きく欠伸した彼女は、のろのろとベッドに戻り、ベッドの横にある窓を覆うカーテンに手をかける。カーテンを勢いよく左右に開けると、眩しいくらいの陽光が彼女の全身を覆った。
次に、鍵をかけていた窓の鍵を開けて、開放する。すると、冷たい空気が部屋の中に入ってきて、彼女の肌と髪を撫でるように吹いた。腰まである栗色の髪が風に揺れ、彼女は髪を抑える。藍色の瞳を細めながら「さむい……」と一言零した彼女は、窓から上半身を乗り出して、空を見上げる。
空は気持ちいいくらいの快晴。雲もなく、雨が降ることもない絶好の日和。
本来であれば清々しい朝の目覚めになる筈なのだが、彼女の気持ちは地を這っていた。
原因は、わかっている。
「……また、あの夢見ちゃったなぁ」
苦しそうに零す彼女の顔色は優れない。
全身はまだ痛むし、嫌な夢を見てしまったからか頭も痛む。眩しく照らす日差しも、今では頭痛を促進される薬にしかならない。
嗚呼、なんという最悪の目覚め。そう確信出来る程、この朝の目覚めは彼女にとっては味わいたくないものだった。
「顔、洗ってこよ……」
この気分を脱色する為に、彼女は肌寒い外に出ることに決める。
くたびれた寝着を着用したまま、彼女は机の上に置いていた少しほつれのあるタオルを手に、部屋を出た。
部屋を出て階段を降り、そのまま庭に出ると、そこには井戸がある。その井戸から水を汲み、その水で顔を洗いすっきりさせる。冷たい水は肌には悪いんだろうけど、この冷たさが今の彼女には丁度良かった。
少しほつれのあるタオルで顔を拭いてから部屋に戻った彼女は、クローゼットからカーキ色の長袖ワンピースを取り出す。
寝着を脱ぎ捨てて、同じくクローゼットから取り出したブラジャーを取り出し装着する。胸の形を整えた彼女は、その上からカーキ色のワンピースを身にまとった。膝下までの長さがあるこのワンピースは彼女のお気に入りだ。シンプルで好き。
適当に恰好を整えた彼女は、脱ぎ捨てた寝着を持ってもう一度家を出る。先程井戸を汲んだ場所に戻ると、井戸の横にある籠の中に寝着を放った。
その後はもう一度家の中に戻ってリビングに向かう。リビングに行くと、中央にある大きなテーブルの上に軽食が乗っていた。ジャガイモのスープにちょっと焦げている食パン。その食パンの上には半熟の目玉焼きが乗っている。湯気が立っていることから、まだ作って間もないだろう。
席についた彼女は手を合わせながら「いただきます」と言うと、まずはジャガイモのスープに手を付けた。塩のみで味付けされているスープは暖かくて、身体の芯まで伝わってくる。よく煮込まれたジャガイモをフォークで刺せば、ほっくりと簡単に二つに割れた。割れた一つにフォークを刺し、よくスープを染み込ませてから口の中に入れる。よく冷まさずに口の中に入れたせいで「あつ」と口の中が火傷しかけた。はふはふと何とか熱を逃がしながらジャガイモを食す。塩しか味付けしていないから殆ど塩の味しかしないけれど、美味しい。
次に彼女は少し焦げているパンと、その上に乗っている半熟卵に目を付けた。フォークを置いてパンを手に取り、はむ、と齧り付く。焼けた卵白とパンしか食べれず、黄身の部分には到達できなかったが、それだけでも美味しい。思わず彼女の口角が緩む。先程の最悪な気分が、少しだけ払拭されたような気がした。
そのままもぐもぐと目玉焼きが乗ったパンを食べ進めながら、スープを飲み干す。そして最後のひとかけらのパンを口の中に入れると、再度手を合わせて、今度は「ご馳走様でした」と言った。空になった皿を流し台に持っていく。流し台には予め貯められている水桶が中に置いてあり、アクレアはその中に皿を入れてすすぎ洗った。乾かす為に日当たりの良いところに皿を置くと、彼女は外に出て井戸の所に向かう。井戸に辿り着くと、再度水を汲んだ彼女は、その中に洗濯物を全て放り込んだ。袖を捲くって、彼女は水浸しになった洗濯物を手もみする。石鹸なんて高級品はここには無い為、水だけでなんとか汚れを落とせるように念入りに力を込めて手もみ洗いをする。
今朝の洗い物は彼女の寝着だけだった。そういえば昨夜に大体の洗い物は全て済ませたんだった、と彼女は思い出す。事前にやったおかけで今朝の洗濯物は少なく、洗い物は思いのほか早く終わった。
洗濯した寝着を干す為に裏手に周ると、そこには昨夜の内に干した洗濯物がある。その中に寝着を干した彼女はふう、と一息吐くと、洗濯物に背を向けて家の中に戻った。
家の中に戻った彼女はそのまま自室まで戻ると、壁に立てかけてあった杖を手に取る。金色のステッキに、先端には桃色のオーブ、そのオーブを囲う、月をモチーフにしているであろう豪奢な装飾。手に持つと、見た目通りに少し重たい。
いつものことだ。
杖を手に取った彼女は、小走りで自室から出て、そのまま家の中を出る。暖かな日差しが彼女を照らし、穏やかな風が彼女の背中を押した。
少し走ると、木材で出来た家々が見えてくる。家の傍では老婦人達が井戸端会議をしていたり、その横を子供達三人がはしゃぎながら走ったり、そんな子供達とすれ違うように、野菜が入った籠を背負っている男達が歩いている。
彼らはパタパタと走っている彼女に気づくと、お、と笑顔を見せた。
「アクレアちゃん!おはよう!」
「あ!アクレアお姉ちゃんだ!」
「あらまぁアクレアちゃん。おはよう」
彼女――アクレアは、邪気のない挨拶に「おはようございます!」と挨拶を返す。
皆、アクレアに向けて手を振り、走っていくアクレアの背中を見守っていた。
その後もすれ違う人に挨拶を小まめに返すアクレア。途中「野菜持ってく?」と聞かれたが、「帰りに寄りますね!」と今はお断りした。
そうして皆と交流しながらも、彼女は走るのを止めない。
そのまま走り続けると段々と人里離れた雰囲気に変わっていく。先程までの活気は遠ざかり、草木が揺れる音と凪やかな風の音が顕著に聴こえてくる。森に住む小鳥の鳴き声、小動物が移動する音、風に舞う花びら――自然に包まれた空間に身を投じたアクレアは、口角を緩めながら足を速めた。
アクレアは走り続ける。足首までしか浸からない浅瀬の川を渡り、傾斜な坂道を登り、剥き出しになった根っこを軽快に飛び越える。決して楽な道ではないというのに、アクレアの足はまるで羽でも生えているかのように軽やかだ。
そうして暫く走り続けていたアクレアだが、ふとした時に走るのを緩めた。小走りが徒歩に、そして一歩ずつ踏み締めるように遅くなる。
そうして進んでいると、とうとう森を抜けた。
森を抜けると、小さな丘が目先に見える。それを視界に収めたアクレアは、その丘に小走りで近づいた。やがて先の方に辿り着くと、視線を少し下に下げる。
視線を少し下に下げると、先程までアクレアがいた村が見えた。丘の上から見ると、より一層村の様子がよく見える。駆け回る子供達、井戸端会議をしている老婦人、野菜を運んでいる男性達に、森を警戒している門番達、そしてアクレアの恩人が、幾人もの村人達に囲まれながら談笑しているのが見える。
それを見たアクレアは、ふふ、と微笑みを落とした。
丘の上に腰を下ろし、傍に杖を置いたアクレアは、膝に顎を乗っけて暫く景色を眺める。
雲一つない快晴は雨が降る様子はなく、太陽は燦々と輝いている。暖かで穏やかな景色と弱くも強くもない風は、アクレアが今朝抱いていた最悪の気分を払拭してくれる。
朝のこの時間が、一番心が落ち着く時間だ。嫌なことがあった時や、何もかも捨てたくなってしまった時にここに来ると、それまで抱いていた嫌な気分が落ち着いてくる魔法の場所。何か浄化の魔法でもかけられているのかな、と本気で疑った程に、この場所はアクレアの性に合っていた。
暫くの間この丘の上にいたい気持ちになるがそうもいかない。丁度いいところで区切りをつけて戻らないとな、と考えていた時だった。村の様子と合わせて景色を眺めていると、ふと村の入り口に人影が近づいていることに気づいた。
目を凝らしてみると、近づいてくる人影の全体像が見えてくる。
背中まで長く伸びている漆黒の髪を首辺りで一つに結んでいる。大きなリュックサックを背負い、腰のホルダーに剣を差している軽装の男。丘の上からはこのような情報しか得られなかった。
その男は迷いない足取りで村の入り口に近づいていくと、村の門番がその男に話しかけた。門番と男が何かを言い合っているのが見えるが、その会話はさすがに聴こえてこない。
しかし様子を見る限り険悪な感じではなさそうだ。敵ではないのかもしれない。
念の為と杖を手に様子を窺っていると、門番がペコペコと頭を下げながら男を村の中へ招待した。一人の門番は男の傍へ、もう一人の門番は一足早く村の中に入ってどこかに向かって走っている。その先にいるのは、村人達に囲まれている恩人のところだ。
(……敵ではなさそうだけど、一応向かった方がいい、よね)
門番の様子を見る限り、あの男は村を害する存在ではない。
しかしよそ者はよそ者。警戒するに越したことはないと、アクレアは立ち上がって村に戻る為に来た道を逆走した。
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