その63 絶望の黄泉路
ふと、誰かに呼ばれた気がしたんです。
それで立ち止まると、きゅうに、自分が見たことのない場所にいることに気がつきました。
長い通路でした。雰囲気でいうと、地下鉄の駅のような………床も壁もタイル張りで、天井には細長い蛍光灯たちが等間隔で並んでいます。道幅は………6メートルくらいだったでしょうか。けっこう広くて、向こうから人が来たとしても、余裕を持ってすれ違えるくらいにはありました。
空気は冷たく、静かでした。自分の足音と衣擦れ以外に音はなく、寂しい感じがしました。自分は通路の先に向かって歩いていたようでしたが、通路の先に視線を向けても、その先は濃い霧でも出ているのか、柔らかく白い光に包まれていて、見通すことはできませんでした。
私は困惑しました。
なぜ自分がこんな場所を歩いているのかまったく分からなかったからです。その場に立ったまま周囲を見渡しても案内板のようなものはなく、ただ無機質な壁だけがそこにあります。
私は後方を振り返りました。
私が歩いてきたであろう方向には、まっすぐに通路が続いていて………驚くべきことに、その果てが見えませんでした。通路の床や壁や天井は視界の消失点へ向けてまっすぐに伸び、集約されて消えているのがわかります。
私はゾッとしました。こんな場所、現実にあるわけがありません。きっとここはこの世ならざる場所なんじゃないかと狼狽しました。
そこで私は、さっき私の耳に届いた声を思い出しました。
あれは私の名前でした。
誰の声なのかまでは分かりませんでしたが………誰かが私を呼んでいるんです。
そう確信したとき、私はこの通路の正体が何か、どうして自分がここにいるのか、唐突に理解しました。
ここは黄泉路です。この通路はあの世へ至る通路で、私はまさに今、現実世界で死にかけているに違いありませんでした。さっき耳に届いたあの声は、きっと私を呼ぶ家族か誰かの声に違いありませんでした。
私はもう一度、光に包まれている通路の先を見ました。
さっき私はあの光に向かって歩いていたのだから、きっとあの光の先があの世に間違いないと思いました。優しく暖かな光に満ちた通路の先には、つい歩いていってしまいたくなる魅力がありました。
私は頭を振りました。その誘惑に負けてはいけません。あの光の先に行ってしまったら、もうこの世には戻れないのです。私は光に背を向けました。
私は、無限に続くように見える通路の先に向かって走り出しました。
誰かわからないけれど、私を呼んでいる人がいるのです。その人のためにも私は生きねばなりません。どれほど長い道のりになろうとも、ここが通路であるというならば、入り口と出口は必ずあるはずなのですから。
私は走り続けました。
不思議なことに、どれほど走っても体は全然疲れず、息もあがりませんでした。汗もかかず、腹も減らず、眠くもならないし、トイレに行きたくもなりません。そういった諸々の感覚が、ここがこの世とあの世の境目であると、私にますます確信させました。
さらに不思議なことに、私がどれだけ走っても、私の後方にある、あの世の光までの距離は変わりませんでした。ときどき私は振り返りましたが、光はいつでもすぐそこに満ちていて、私を迎えいれる用意はできているようでした。
反面、進行方向である長い通路のほうはいくら進んでも果てが見えず、景色も変わらずで………はたして私は本当に戻れているのか、つよい不安が私の心を包みました。
時間の感覚もあいまいで、いくら動いても風景に変化がないものですから、はたして自分が何時間走ったのか、それとも実は何分も経ってないのか、それすらもまったくわかりません。
苦痛に耐えかねてでたらめに絶叫しても、自分の声が通路に反響するばかりで………誰の声も返ってきません。
…………だんだんと、私は疲れてきました。体ではなく、心のほうが…………。
そしてとうとう立ち止まり、私は通路の壁に背中を預け、床に座りこみました。私の視界の左方向にはあの世のあたたかい光が満ちていて、右方向には永遠に続く通路が伸びています。
私はうつむき、目をつぶりました。
もういいのではないか?
最初に聞こえたあの声に惹かれて現世への道を走りはじめたけれど、あの声がはたして誰だったのかもわかっていない。家族か、恋人か、友人か………もしかしたら、そもそも声自体が自分の勘違いで、本当は誰にも呼ばれていないのかもしれない………。
いや、そもそも…………。
自分は誰なんだ?
そのときようやく私は、最初は覚えていたはずの、自分自身の名前が思い出せなくなっていることに気がついたのです。
私は恐ろしくなり、頭を抱えて縮こまりました。
自分は自分のことが思い出せない。
名前も、両親の顔も、仕事も、趣味も、好きな食べ物や、苦手な場所も…………どんな人間だったかが、まるで欠落していました。
虚無。
私は永遠の中の虚無でした。
宇宙空間に存在するひと粒の原子のような孤独感が私の頭を蝕んでいました。
私は意味のないことを叫びながら、床に頭を打ちつけました。しかし血は流れても痛みはなく、額から溢れた血は眼球を覆って視界を赤く汚すだけです。自ら指をへし折っても、その場でジャンプして、膝を思いきり硬質な床に叩き落としても、全然痛くありません。ただただ、私の体から溢れた大量の血だまりが通路の端、壁に沿って広がっていきます。
…………どれほどそうしていたでしょうか。
私が私の頭蓋骨を自ら粉砕し、中のものの大半を床にこぼしたころ…………両肘と両膝を自らへし折り、完全に動けなくなったころ…………。
倒れ伏す私に声をかけるものが現れたのです。
"死は嫌か"
私は頭だけを動かして、なんとかその人物の姿を見ました。その人物は、血溜まりに倒れ伏す私のすぐそばに立っていました。
その人物は、青ざめた肌の老人でした。身なりは紳士然としていて、落ちついた雰囲気のある人物です。趣味のいい杖を突いていて、そこに両手を添えてまっすぐに立ち、こちらを見下ろしていました。
老人は私に向かって続けました。
"生きることは死ぬことよりも辛い苦しみだ。
命あるからこそ、人は無数の苦痛や悲しみに耐えねばならないのだ。
だから人は死に向かうほどにすべてを忘れなければならない。
この通路の先には、いかなる苦しみや悲しみもあってはならないのだから。"
その声をきいた私は、なぜだか急な眠気を感じました。頭がぼうっとして、全身の力が抜けていく感覚です。
"もう疲れただろう。ゆっくり休みなさい。"老人の声は優しいものでした。
しかし私は………
力を振り絞って頭を持ち上げ、さらに床に叩きつけました。今ここで眠ってしまっては本当に死に呑まれてしまうという恐怖が私を突き動かしていました。バチャバチャという自分の血溜まりの水音を聞きながら、私は慟哭しました。
『生きたい』と。
老人はそれを聞き、頭を小さく振りました。
"ならば生きるか? いつかまた死ぬそのときまで"
私は頷きました。
直後、老人は軽くため息をつき………杖の石突で、床を軽く突きました。
気がつくと、私の体は完全なものに戻っていました。私は何ごともなかったかのようにその場に立って、老人と相対していました。床の血溜まりも消え去っています。
正面から向かい合った老人は、ずいぶんと小さく見えました。
"生きるのならば、ひとつだけ条件をのみなさい"老人は言いました。
"おまえはこの先、どれほど死に近づいても死ぬことはできない。必ず、人に定められた寿命いっぱいまで生きるのだ。死を拒否するならば、生を全うせよ。"
老人はそうして、杖の先で通路の先を指し示しました。するとそこにはいつの間にか、壁と、ひとつの扉が出現しています。扉の上には『非常口』という緑色の表示が輝いています。
私は扉に近づき、ドアノブに触れました。
最後にもう一度振り返り、老人を見ました。老人は静かに通路の真ん中に佇んだまま、私の目を見て、静かに頷きました……。
私は微笑み、そして…………。
扉を開けました。
…………これが、私の経験した臨死体験の話です。
誓って嘘じゃありません。私はあの老人と約束してしまったんです。
"必ず生を全うしなければならない"と………
だから………
………どんなに死のうとしても、私、絶対死ねないんです。
こんなに死にたいのに………
私が生きているだけで、両親も、兄弟も、みんな不幸になるのに…………
どうしてかって?
見れば判るでしょ。
私、両手両足無いんですよ。
交通事故のせいで。
顔面も身体もほとんど皮膚が火傷跡になってるから、動くたびに引き攣れて痛いんですよ。
常にモルヒネの点滴してないと、全身がものすごく痛いんですよ。
医療ってタダじゃないんですよ。
毎日とんでもないお金がかかるんですよ。保険にも支援にも限界があるんですよ。
両親も苦しんでいて、ときどき私に向けてそのストレスをぶつけてくるんですよ。
介護の人も私に対して毎日ひどいことを言うんですよ。でも安い値段でやってくれる人だから、私ガマンしてるんですよ。
みんな私に死ねばいいと思ってるんですよ。そのとおりなんですよ。私だって死にたいんですよ。何度も試したんですよ。
でも、死ねないんです。
なんで『生きたい』だなんて思ってしまったんですか?
死にたいです。
殺してください。




