その59 忘れてはいけない幻覚
宮城県の東海岸の病院に勤めていたころの話です………秋ごろの、少し寒くなってきたころでした。
私、精神科医でして。とある大きな大学病院に勤務していたころがあったんです。
そこでかつて、ちょっと奇怪なできごとがありましてね。ある精神的な病状の話なのですが。
とある患者さんが訴えるに、"ときおり、みょうな幻覚や幻聴がする"というのです。
当然私、問診しました。"どういった幻覚が見えるのですか?"と。
そうしたらその患者さん、"大きな誰かの悲鳴と、目の前の光景が突然水の中に沈む幻覚だ"というんです。しかもそれらは一種類じゃないようで、複数種類の人間の悲鳴や、水の幻覚が見えるそうです。
で、"なぜそれらが幻覚であることがわかるのですか?"と訊くと、"自分は全く痛くも苦しくもないからだ"と答えるんですね。
しかし、やはり恐怖は感じているらしく………。
身体や表情の筋肉のぎこちなさからもわかるとおり、つよい緊張と不安に苛まれているようでした。
まぁ……理性的な判断はできていますよね。だけど幻覚や幻聴はたしかにあるらしい。主張も一貫していますし、どうやら詐病じゃなさそうだと。
通常なら統合失調症を疑う症状なのですが………ちょっとみょうな点がありまして。
この症状が出ている患者さん、たくさんいたんですよ。
老若男女………小さな男の子から高齢の女性まで。高齢だったら認知症も疑うところですが、小さな子供まで出ているのは何かみょうだぞと。
私が当時いた病院でも少なくとも20人……周辺の医院も含めたら80人くらいはいたんじゃないでしょうか。
しかも通常、幻覚というものは個人差がたいへん大きくて、同じ統合失調症でも、似たような幻覚を見るというのはあまり考えにくいんですね。別人同士が似たような幻覚を見るのは、むしろ薬物中毒の症状に近いです。
というわけで、どうやらこれは精神医学の範疇だけじゃなく、内科外科薬学脳医学のお医者さんたちの見識も必要そうだぞと考えて、病院の中で調査委員会を立ち上げたんです。
徹底的に調べました。
患者さんの生活サイクルはもちろん、毎食の内容、排泄の内容、好む音楽、映像、住居の環境、血液やリンパ液の成分……なにか共通点はないかとね。役所にも協力してもらって。
たいへんでしたよ。
普段からキツい仕事なのに、さらにこの膨大な量の調査……なかなか眠れない日々が続きました。
でもそのおかげで、この多種多様な患者さんたちのあいだにひとつの共通点が見つかったんです。
何だと思います?
カニです。
ワタリガニですよ。ガザミとも言います。茹でると美味しいやつです。
この水と悲鳴の幻覚を見る患者さんたち、全員ワタリガニを食べたあとにそれらを発症していたんですよ。しかもただのワタリガニじゃなくて、仙台湾かその沖で水揚げされたものだけです。
いや、意味がわからないですよね。なんでカニを食べたら幻覚を見るんだと。
でも実際に症状が出ているということは、なんらかの化学物質が作用している可能性が高いと考えて、該当のワタリガニを探して研究機関で分析にかけたりしたんですが………。
何もそれらしいものは出ず………。
もしかしたら見当違いだったのかもしれないと、頭を抱えていたときに……。
偶然、テレビでとある番組が流れているのを見たんです。
NHKのドキュメンタリー番組でした。内容は………
『水俣病』に関するものです。
それ見た途端、私、ピンときまして。
"『生体濃縮』だ"と。
………説明しますと、水俣病って昔あったじゃないですか。学校で習いましたでしょう?
あれの原因って、工場などから出た有害物質が、海の生き物の体の中に蓄積されて、それを食べた人間が病気になってしまうってことだったじゃないですか。
そのように、化学物質がそれを食べた生き物の中で蓄積されて濃縮されることを『生体濃縮』っていいます。
それで、件のワタリガニなんですが………。
カニって、海底の生き物の死体をよく食べるんですね。
それで………この幻覚の病気が流行った年って、ワタリガニがものすごく豊漁だったんですよ。『ワタリガニバブル』って言われるくらいにね………。
いつの話かって?
『2011年』です。
ほら……あったでしょう?
この年の春、宮城県やその周辺で多くの死者が出た災害が……15,000人も亡くなって………2,000人以上も行方不明なままの、すごくすごく大きな地震が…………。
大きな津波に呑み込まれて…………心の底から恐怖して、絶叫して…………。
そんな強い感情を抱えたまま、海に消えたたくさんの方々の想いが………。
海底の腐肉を食べるワタリガニたちによって濃縮されて。
その想いが、死の記憶が、患者さんたちのもとへ帰ってきてしまったのではないでしょうか?
………いささか非科学的な考えかもしれませんが………。
でもそうじゃなきゃ、説明つかない気がするんですよ。
なぜなら、幻覚を見ていた患者さんたちは……。
みんな、自分から無理やり水中に頭を沈めて溺れ死んでしまったんですから。
……それで、例の幻覚の病気は新たに発生することもなく。
ワタリガニはもう、現在では漁獲量がどんどん減ってしまっているらしいです。
………こうして、みんな忘れてしまうんでしょうね。
でもそれじゃあんまりじゃないですか。
どうか、忘れないでいてあげてくださいよ。




